ケサルの力、そのシャーマン的性質 

 

 はじめにケサル自身がシャーマン的トリックスターであることを特記しておきたい。彼の勝利はしばしば、すぐれた軍事力やダルマラージャ(法王)としての倫理的な権威によってではなく、魔術師のように幻影を見せたり、相手の裏をかいて勝利を得たりしたものである。

 カスチェフスキーとツェリンは、英雄ケサル王物語「カチェ玉ゾン」第1部の序論で、われわれが正義の王(法王)に期待するモラルがこの英雄叙事詩には欠如していると指摘している。

 原則的に自分が有利に進められるようにと、いかなる手段も講じている。だまし討ちで相手を迷わせたり、あざむいて罠にはめたり、弱点をついたりと、良心の呵責や気づかいのようなものがまったく欠如しているのだ。作品全体を貫く基本的な考え方があるとするなら、それは、力こそが正義という原理である。(カスチェフスキー、ツェリン1972 

 英雄叙事詩におけるケサルは、疑いなく、扮装や欺瞞、ニセの予言などによって、敵をたぶらかし、恥知らずにも相手の弱みにつけこんでいる。あるいは物事はそんなに単純ではないのかもしれない。カスチェフスキーとツェリンはスタンの説に同調して、本質的には世俗的な英雄譚に仏教的な意味を重ねようとしているとみる。ケサルと仲間たちの不道徳なふるまいは、仏教やその倫理的価値観のインパクトを受ける前の、チベット人本来の考え方を表している。

 この種の分析には真実のひとかけらぐらいは含まれているだろう。英雄叙事詩のプロットの要素の多くは、アジアの他の英雄叙事詩とも共通している。疑いなくそれらの起源は、仏教以前の時代にさかのぼることができる。

 しかし私の考えでは、これらの説は、仏教以前の物語をラマたちが単純に再構成したものであると誘導しているように思える。チベットの仏教は異国の文化の土台の上に形成されたものばかりではない。仏教が伝来する以前からあったチベット人の土着の文化が取り入れられ、仏教は形を変えていったのである。

 現代のチベット人にとって、ケサルが仏教徒を装った反仏教的英雄ということはありえない。われわれはケサルを全体として経験しなければならない。問題は、この「全体」が意味するものが何かわかりづらいことなのだ。仏教徒から見たとき、ケサルのトリックとよこしまさは何を意味しているのだろうか。

 ケサルととくに深い結びつきがあり、ケサル王物語について書いてきたひとりのチベット人ラマがいる。いまバークレーで生活しているニンマ派ラマ、タルタン・トゥルクである。

 たくさんの教えがケサル王物語に織り込まれている。ケサルが難問と出会うとき、あたかも彼が自己の完成と精神の成長のために、内なる戦いに挑んでいるように見える。ケサルが困難を克服していくそのやりかたにわれわれは勇気づけられ、自己確信と気づきを高めていく。

 ケサル王はいわば特別でユニークな力である。それはだれに対しても開かれていて、敏感にこたえてくれる。といっても、決まりきったパターンにはまりこむこともない。彼はあらゆる瞬間を意識し、すべての感覚を受容して「気づく」ので、彼の行動には光があふれ、肯定的な空気が取り巻いている。環境が悪化すると、自ら困難を作り出すということはない。特別なゴールに向かってまっすぐ進むだけである。

 象徴的な解釈によって、自由と無知の縛りから解放されたケサル王は、人間の心の王である。リンの王国は統一されるべき、強靭になるべき領域である。勝利し、守るべき財宝はわれわれ自身の理解である。征服すべき敵は感情と無知である。こうしたことを認識し、われわれはより広く、豊かになるための探求をつづけ、生存のための戦いをつづけていく1978) 

 タルタンの表現様式は疑いなくカリフォルニアの時代の潮流の影響を受けていて、ニンマ派仏教を西欧の支持者たちに伝えるという重要な仕事の一部を成していた。しかし彼の解釈は真摯に受け止めるべきである。

英雄叙事詩の心理的プロセスにおける叙述の解釈は、アジアの仏教、ヒンドゥー教的世界、たとえばジャワのワヤン・クリットのそれと類似している。(キーラー1987

 同様に、北米インディアンのトリックスターの古典的解釈においても、ラディンは物語の心理学的な解読を称賛している。(ラディン1955) 

 そのような心理学的な解読は、社会学的な解読の可能性を排除するものではない。すなわちケサル王の力は開かれ、敏感に反応する。しかしパターンにはまって、政治的リーダーシップのひとつになることはない。実際、そのような解読もありうるのだ。英雄叙事詩によって示される理想的な人物像は、政治的リーダーの理想的人物像でもある。

 ケサルは疑う余地なく、政治的人物である。しかしながらそのようなリーダーシップのスタイルは、中央集権的な国の支配者のスタイルではない。この支配者は、権威のセット・パターンの存在によるところが大きい。

 タルタンが言及する力というのは、実際、シャーマンの力である。言い換えれば、タントラ仏教のラマの力である。チベットのヴァジュラヤーナ仏教のシャーマン的性質は、もっとも明確に、ニンマ派のなかに現れる。後期インドのマハーヤーナ仏教の合理的で聖職者的な仏教に、容易にニンマ派仏教は取り入れられていく。(サミュエル1993

 ケサルの力のシャーマン的性質は、英雄叙事詩のなかのケサルのふるまいを吟味することによって示すことができるだろう。いまその理解を深めるよりも前に、一般的なチベットの価値システムに話題を移したい。それはケサルのシャーマン的リーダーシップを値踏みするのに役立つはずだ。