輝く大師たちの生涯
第1部 ラムデの初期の歴史
イントロダクション
物語はレトリックを迂回し、心を射抜く
――テリー・テンペスト・ウィリアムス
シャキャムニ・ブッダの教えがチベットに伝来したのは、7世紀はじめから9世紀中葉までつづいた王朝時代のことだった。9世紀中葉から10世紀後半までは王朝の中央集権構造の崩壊につづく退廃と混乱の時代だった。この停滞期の終わりにインドやネパールから新しい教えが大量に流入し、それによって起きた仏教復興に刺激されて、文化ルネサンスがはじまった。こうして10世紀後半にはチベット文化はふたたび仏教の知識を吸収するようになった。この文化吸収は13世紀半ばまでつづいた。ささやかなものを含めるならそれは17世紀までやむことがなかった。
チベットの仏教復興は西部においてロチェン・リンチェンサンポ(Lo chen Rin
chen bzang po 958−1055)の翻訳事業とともにはじまったといわれる。仏教の膨大な知識がチベットに流入するようになったのはこの時代からだった。とくに数多くのタントラ経典がはじめてチベット語に翻訳され、教義とこれらの体系の実践が急速に広がった。
たとえば、11世紀の間に、ヘーヴァジュラ・タントラ、カーラチャクラ・タントラ、ヴァジュラバイラヴァ・タントラ、グヒヤサマージャ・タントラ、チャクラサムヴァラ・タントラなどと関連した何百ものタントラ仏典、論説、儀礼の経典が翻訳された。多くは時の経過とともに消えてしまったが、この時代に、目もくらむばかりのたくさんのタントラの瞑想実践法も、洪水のごとくチベットに押し寄せた。
16世紀、ニンマ派大師プラジュニャーラシュミ(1517−1584)ことテンボ・テルトン・シェラブ・ウーセル(’Phreng bo gter ston Shes rab ’od zer)は8人のインドとチベットの大師と8つの密教の教えに言及している。
バゴル・バイロ(Ba gor Bai ro)、申し分のない翻訳官。俗人ドムトン(’Brom ston)、勝利者の後裔。キュンポ・ネージョルパ(Khyung po rnal ’byor pa)、偉大なる覚醒した学者。偉大なる師ドクミ(’Brog mi)、二つの言語を解する者。尊敬すべき師マルパ(Mar
pa)、ヨーギンの師。高次の成就の段階にいるダムパ・ギャガル(Dam
pa Rgya gar)。翻訳者ギチョ(Gyi
jo)。悟った学者オギェンパ(O
rgyan pa)。これら8人の偉大なる柱が北方の実践的な法統を支えている。
氷雪に覆われた山々のなかで、これら8つの偉大なる柱は、栄光のヴァジュラダラから伝わる実践的な法統を支える、かつての大成就者の遺産を引き継ぐ者たちである。解放を欲する者たちはこの道を歩むだろう。
19世紀中頃までには、これらの大師たちの法統のいくつかは死に絶えている。そしてそれらはジャムヤン・キェンツェイ・ワンポ(1820−1892 ’Jam dbyangs mkhyen brtse’i dbang po)やジャムゴン・コントゥル(1813−1899 ’Jam mgon Kong sprul)らのとてつもない努力によって復活している。この修練による8つのグループは、今では「八大馬車」教派(shing rta chen po brgyad)として知られている。*訳注:シンタ(木馬)は馬で引く車のことを指すが、シンタ・チェンポ(大・木馬)は通常、教派の創始者ないしはその継承者を意味する。
この8つの教派のうち一つだけが11世紀までに、チベットに入ってきた。その後、王朝時代からあった初期の教えはニンマ派、すなわち旧派と呼ばれるようになった。一方で11世紀に入ってきたさまざまな法統はサルマ、すなわち新派として知られた。ニンマ派の教えと法統は数多くあり、複雑だった。とりわけゾクチェンこと「大いなる完成」は8世紀にバゴル・バイ・ロツァワによってチベットにもたらされ、広がったものである。
この「申し分のない翻訳官」はインドで、大師シュリーシンハから奥深い教えを授かった。バイ・ロツァナ(ヴァイローツァナ)は授かった教えを翻訳し、ゾクチェンの二つの系統の教え、すなわちセムデ(Sems sde 心部)とロンデ(Klong sde 界部)を広めた。ゾクチェンの第三の教えメンガクデ(Man ngag sde 秘訣部)は大師ヴィマラミトラによってチベットにもたらされた。この教えは大師パドマサンバヴァの教えと本質的に混合し、ニンティク(精滴)として知られるようになった。そしてこの教えは今日にいたるまで、ロンチェン・ラプチャムパ(1308−1363 Klong chen Rab ’byams pa)とジクメ・リンパ(1730−1798 ’Jigs med gling pa)が書いたものをもとにして実践されている。
11世紀以降、プラジュニャーラシュミが言及した8つの法統のうちチベットにやってきたのは最後のひとつだけだった。ドルジェ・スムギ・ニェンドゥプ(Rdo rje gsum gyi bsnyen sgrub)、すなわち「三つの堅固な状態の慰撫と達成」の教えはしばしばオギェン・ニェンドゥプ(O rgyan bsnyen sgrub)、すなわち「ウッディヤーナから来た慰撫と達成」としても知られるが、「悟った学者」オギェンパ・リンチェンペー(1230−1309 O rgyan pa Rin chen dpal)によってチベットにもたらされた。
このチベット人大師はウッディヤーナへの旅の途中、タントラの女神ヴァジュラヨーギニーからカーラチャクラの六支ヨーガという特別な瞑想法の秘密の教えを口伝で受け取った。この教えの実践は少なくとも二百年にわたってさかんに行われたが、19世紀末頃には伝授はまれになっていた。現在残っているのは(口伝ではなく)いくつかの根本経典を通した「読む」ことによる伝授だけだろう。
現存する6つの実践法の系統はすべて11世紀にチベットにもたらされたものだった。チベットの歴史においてこの時期がいかに決定的に重要であったかがわかる。「勝利者の後裔」としてすでに述べた俗人ドムトン・ギャルバイ・チュンネ(1004−1063 ’Brom ston Rgyal bai ’byung gnas)は、インド人大師アティーシャ(982−1055)のおそらくもっとも重要な弟子であり、精神的な後継者だろう。
アティーシャは1042年にチベットにやってくると、仏教復興の起爆剤となった。アティーシャを通してチベットに花開いた法統は、「訓戒と教えの伝統」カダムパとして知られる。この教派は、ある一定期間独立したものとして存続したが、のちに衰退することになる。ロチョン(Blo sbyong)、「心の訓練」の教えのような、特別な秘密の伝授は、他の独立した教派に吸収されることになった。
もっと多くの教えは、偉大なるツォンカパ・ロサン・ダクパ(1357−1419 Tsong kha pa Blo bzang grags pa)に受け継がれ、彼の弟子によって確立されたゲデンパ(Dge ldan pa)やゲルクパ(Dge lugs pa)によって重要性が説かれるようになった。
キュンポ・ネージョル(990生まれ?)「偉大なる覚醒した学者」は、インドとネパールに三度行き、そこで彼は150人の師から学んだという。彼はチベットに数多くの寺院を創立したが、そのうちの中心となる寺院はシャン谷につくった。それゆえ彼の教派はシャンパ・カギュ(Shangs pa bka’ brgyud)「伝授された教えのシャン教派」と呼ばれるようになった。
この教派の中心に据えられたのはチュードゥク「6つの仏法」の実践であり、マハームドラー、すなわちチャクチェン(phyag chen)「大いなる印」だった。キュンポ・ネージョルは、ニグマ(Niguma)やスカシッディ(Sukhasiddhi)といったインドの女性導師からこの教えを伝授された。偉大なる成就者タントン・ギャルポ(1361−1485 Thang stong rgyal po)やチョナン派大師クンガ・ドルチョク(1507−1635 Kun dga’ grol mchog)、ターラナータ(1575−1635 Taranata)といった大師たちが重んじることによって、これらの教えは他の教派を通じて広がっていった。
19世紀半ばまでには、シャンパ(シャン派)の教えの伝授はほとんどなくなってしまった。しかしジャムヤン・キェンツェイ・ワンポとジャムゴン・コントゥルの努力によってその教えは息を吹き返すことができた。
「二つの言葉を話すことができた」という大師ドクミ・ロツァワ・シャキャ・イェシェ(993−1077?)は仏教の教えを探しにインド、ネパールへの旅に出た。そして13年間、輝かしい師たちのもとでまなんだ。チベットに戻ったあと彼は、ラムデ、すなわち「結果のある道」と、ほかの重要なタントラの教えを、インド人大師ガヤダラ(1103年逝去)から授かった。
ドクミは多くのタントラ経典や論考を翻訳した。そのなかでももっとも重要なのは、ヘーヴァジュラ・タントラと二つの説明的なタントラであり、ラムデの根本テキストとなる成就者ヴィルーパのドルジェ・ツィクカン(Rdo rje tshig rkang)だった。
何世紀ものあいだ、じつに多くのさまざまな法統が存在したが、ほとんどが死に絶えるか、サキャ派に吸収された。サキャ派はラムデを持つ現存する唯一の教派である。サチェン・クンガ・ニンポ(1092−1158 Sa chen Kun dga’ snying po)やゴルチェン・クンガ・サンポ(1382−1456 Ngor chen Kun dga’ bzang po)、ツァルチェン・ロセ・ギャツォ(Tshar chen Blo gsal rgya mtsho)らの努力によって、この教えはチベット中に広がった。
尊敬すべき師マルパ・チューキ・ロドゥ(Mar pa Chos kyi blo
gros)「ヨーギンの師」はインド、ネパールで何年も過ごしたもうひとりの偉大な翻訳者である。彼はそこでとくに大師ナーローパやマイトリーパから多くのタントラの教えを受け取った。マルパがこの大師たちから伝授されたチュードゥク、「6つの仏法」と、マハームドラー(チャクチェン)、「大いなる印」は、マルパ・カギュ派と呼ばれる教派の根本的な修行実践法となった。
この方法はマルパの有名な弟子ジェツン・ミラレパ(1028−1111)によって重要性が示され、ガムポパ(1079−1153)によって広められた。そしてカルマパの歴代法王によって精力的に教えが説かれ、今日にいたるまで強い存在感を示している。
ダムパ・ギャガル(Dam pa Rgya gar)「聖なるインド人」として、あるいはパダムパ・サンギェ(Pha dam pa Sangs rgyas 1105年逝去)「成就の精神的階層に住む者」として知られるインド人大師は、何回もチベットに旅をした。そしてシチェ(zhi byed)「鎮定」として知られる教派を創立した。彼の有名な女弟子がマチク・ラプドゥン(1055−1153 Ma cig Lab sgron)である。彼女はチュー(Gcod)すなわち「断」として知られる関連した教派を創立した。
19世紀なかば、ジャムヤン・キェンツェイ・ワンポとジャムゴン・コントゥルが生き残っていた教えを探し出すまで、シチェ派はほとんど絶滅しかけていた。わずかに残った経典によって伝授はされていたものの、修行が行われているように思えなかった。一方でチューの伝統はニンマ派、カギュ派、ゲルク派のなかに広がっていた。そしていまもたくさんの修行者がいる。
翻訳官ギチョ・ダバイ・ウーセル(Gyi jo Zla ba’i od zer)は、一般的に最初にカーラチャクラ・タントラとその論考をチベット語に翻訳したと考えられている。ドルジェ・ネージョル(Rdo rje rnal ’byor)すなわち「ヴァジュラヨーガ」として、あるいは完全な形で、ドルジェ・ネージョル・ヤンラク・ドゥクパ(Rdo rje rnal ’byor yan lag drug pa)、すなわち六支ヴァジュラヨーガとして一般的に知られるカーラチャクラの究竟次第の特別な教えは、たくさんのチベットの教派に伝えられ、信じがたいほどの影響をもたらした。カーラチャクラと六支ヨーガは、チョナン派が得意とするものとなった。
とくにドルポパ・シェラブ・ギェルツェン(1292−1361 Dol po pa Shes rab rgyal mtshan)の教えと、プトゥン・リンチェンドゥプ(1290−1364 Bu ston Rin chen grub)によって広まったシャル派(Zhwa lu)が例として示されるだろう。
チョナン派はのちに時の権力によって弾圧されることになる。しかし六支ヨーガの教えの法統は、リクズィン・ツェワン・ノルブ(1698−1755 Rig ‘dzin Tshe dbang nor bu)やシトゥ・パンチェン(1700−1774 Si tu Pan chen)、ジャムゴン・コントゥルらの努力によって今日まで生き延びることができた。シャル派の教えは他の教派と同様、現在のゲルク派の中に伝えられてきた。
(つづく)