アニ・マチェン、匪賊のための礼拝所 

キース・ダウマン 訳:宮本神酒男 


 アニ・マチェン(Amnye Machen)はアムド地方のすべての人々にとっての聖なる山である。カン・リンポチェ(カイラース山)やラブチ、ツァリにつぐチベットでもっとも重要なパワー・プレースであり、東のカン・リンポチェと目される。中央山塊の3つの山頂は、アムド平原から隆起する山脈(それもまたアニ・マチェン山脈と呼ぶ)の西端に向って聳える。それは全長約125マイル(200キロ)にも達し、東西の方角にのびている。西にはケリン・ツォとンゴリン・ツォという双子の湖があり、マチュ川、すなわち黄河上流の巨大な犬の後足に囲まれた形をしている。

 山神としてのアニ・マチェンは、アムドの地(sadak サダク)のすべての神の統率者である。彼はまたアムド全体の戦神(dralha ダラ)であり、土地、人々、仏法を攻撃する者と戦う。マチェンは彼が支配する地域名であり、アニ(Amnye)は祖先を意味する。つまりアニ・マチェンはアムドの人々の祖先ということになる。

またマチェンは「すばらしい孔雀」とみなされることがある。するとアニ・マチェンは偉大なる孔雀の祖先となる。彼はまたマチェン・ポムラとも称される。マチェンは地域名であり、ポムラは山の名である。そしてマギェル、すなわちマの王とも呼ばれる。

ボン教徒は彼をマニェン・ポムラと呼ぶ。おそらくもっとも古い名称で、山神のなかでもっとも力強く、野性的なニェン神のひとつとみなしているのだ。

360のチベットの山神のマンダラのなかで、中央を占めるニェンチェン・タンラとともに北方を占めるのがマチェンである。偉大なる山アニ・マチェンはこの地域における主宰であるが、ヨーガ行者にとっては密教仏であるデムチョク、至福の喜びの住む場所なのである。

 

 アニ・マチェンに巡礼するアムドワ(アムドのチベット人)以外の者にとっては、チベットのはるか東にあるということによって神秘性が増し、その名を高めることになる。中央チベットのチベット人からすれば、ラマたちがその山神がチベットと仏法の守護神であると教えたところでそれがどこにあるのかさえ把握しがたいのだ。

過去においては、近づきがたくさせたのは遠いからだけではなかった。広大な地域で羊やヤクを放牧する地元の人々の「獰猛さ」もまた大きな要因だった。これら戦士の部族はゴロクだった。彼らは野蛮で略奪を働く人々として、チベット人のあいだではその名を知らぬ者がいないほど有名だった。

歴史的には、北東から攻めてくるイスラム教徒やモンゴル、中国の軍隊を防ぐ防波堤の役割を果たしてきた。19世紀後半から20世紀にかけて、西欧の探検家がやってきたときも、領域に侵入すると、彼らを殺したり、傷つけたり、脅したりした。中国の共産主義者も、彼らを極力かまわないようにした。幹線道路もゴロクからずっと離れた北方に造った。征服ではなく、無視することによってゴロクの人々をおとなしくさせることができた。

 ゴロク人は激しい独立心を持ち、権威におもねることがなかったので、彼らは戦士といえたが、それ以上に匪賊といったほうがよかった。それゆえアニ・マチェンは盗賊・匪賊のための礼拝所と呼ばれるのである。

ゴロク人は、西寧や蘭州からアムドを通過して中央チベットへ向かう隊商に重い税を強要した。商人たちは、これではほとんど強盗と変わらないことに気がついた。もし出し渋るようなことがあれば、命を取られたり、身体を傷つけられたりすることになったからである。

信任状や血縁、幸運なしにアニ・マチェンへ行く途中、領域に足を踏み入れた巡礼団は、ゴロクの騎馬強盗団のかっこうの餌食となった。深山の洞窟で修行するヨーガ行者にとっても略奪は無縁のことではなかった。

シャブカル・リンポチェ(小さな白い足の意味)はアニ・マチェンのコルラ(巡礼)の道近くにこもっているとき、盗難に遭っている。彼はゴロク人の泥棒に、ヨーガ行者からパワーを奪っていることを認識させるとともに、寛容さを示すいい機会だと考えた。リンポチェは泥棒に食料貯蔵庫の場所を教えるとともに、祝福を与えた。

 山神アニ・マチェンの鎮めることのできない荒々しさは、ゴロクの略奪者としての性格を反映しているだろう。この神は残虐であるだけでなく、御しがたかった。グル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)がチベットのすべての山神を鎮めて、サムエ・チョコルに仏法の守護者として招集した。

 

 偉大なる山神マチェン・ポムラだけが来るのを拒んだ。それゆえグルは鉤にかけて彼を引っ張ってきた。狼の皮の上着をまとい、猿の頭の皮を振り回し、まるでシャーマン祭司のようだった。片足をアムドに置き、もう片足をヘポリに置くと、グルの前にどさっと倒れこんだ。

「私は巨大な(獣の)牙です」と彼は言う。「しかし小さき僧侶よ、私はあなたの命令にそむかないのです。で、あなたあの命令は何でしたっけ」

「これらの供え物を受け取り、(献じた)王の願いをかなえてあげなさい」とグルは答えた。

「あなたのおっしゃるとおりにいたしましょう」とマチェン・ポムラ。「しかし私はひどく貪欲なのです。宝石が好きなのです。こんな水と小麦粉をこねて作った団子などでは満足できないのです。もっと価値あるものをください」

 グルは5種の宝石を取り出すと、それを挽いて粉にして、皿の上にのせた。そして祝福を与え、マチェン・ポムラに渡した。この瞬間に彼はグルのもとにひざまずき、仏法の守護に身を奉仕することに決めた。(リカール)

 

 グル・リンポチェがマチェン・ポムラを従属させたことにより、第十天界、あるいはチェンレシグ(観音)が住むというボーディサットヴァ(菩薩)道の最終層に達することができた。このように生得の激しい戦士的性格で仏法を駆使するだけでなく、動機もまた菩薩の慈愛のように純粋なのだ。

その図像は、甲冑をまとい、武器を携帯してはいるが、飛ぶ馬に乗り、英雄(しるし)の徴を持った、端正な白いいでたちの持ち主であることを示している。ジェ・ツォンカパの時代までアニ・マチェンは(仏法に)隷属しているだけであったが、ゲルク派の創設者(ツォンカパ)によって、ガンデン・ナムギェリン(ガンデン寺)でゲルク派の守護神に任命されたのである。

 

 アニ・マチェン山脈の中央山塊は、さまざまな高さの8つの峰から成っている。このうち主要な南の3峰はピラミッド型のチェンレシグ峰であり、中央の3峰のうちもっとも低いのがドーム型のアニ・マチェン峰、北で最も高いのが、ダドゥル・ルンショク峰(Dradul Lungshok)である。

 ボン教徒や一般の仏教徒にとって中央の峰はマチェン宮殿である。峰のまわりは王妃グンメン・ラリ(Gungmen Lhari)の住居である。彼女は雄鹿に乗り、甘露が入った瓶と鏡を持った虎女・魔女、あるいは野生の女(menmo)である。

 アニ・マチェンの9人の息子は乳のように甲冑をまとい、武器を持ち、馬に乗る。9人の娘はカッコウに乗る。

 母タントラを実践するヨーガ行者にとっては、アニ・マチェンの山頂は上空を舞う男や女の天空の踊り子(ダーキニー)を伴った、献納する女神たちに囲まれたデムチョク(サムヴァラ)のマンダラである。デムチョク・マンダラは、アニ・マチェン峰を中心に、取り囲む峰々、そして四方の扉を地上に描いたものだ。このマンダラではマチェン自身がたんなる守護者として西のサブの位置に追いやられている。しかし地上でこういったことを認識するのは容易ではない。

 

 アニ・マチェンの山塊と関係が深いのが、センチェン・ギェルポ、すなわち偉大なる獅子王として知られるチベットの元型的な戦士英雄で、仏法の守護者であるリンのケサル王である。彼はかつてチベットを敵から解放したことがあり、いま、ふたたび呼ばれるときが来るのを待っているのだ。

彼の伝説はすべてのチベット人に知られているが、とりわけリン国があったとされる東チベットの叙事詩人がケサルの歌を得意とする。隠れて見えないが、彼の剣はアニ・マチェンの頂の中央に、突き刺さっているという。

 

 アニ・マチェン巡礼は、いつも自然の障壁ともいえる困難さにはばまれる。1980年代に宗教弾圧が緩むと、ほとんどがゴロク人だが、巡礼客が戻ってきた。アニ・マチェンにとって吉祥の年である12年ごとの馬年は、前回は(この文が書かれた時点では)1990年だった。

この年の旧暦の9月、何百人もの巡礼者が山を回った。コルラ(巡回)の道は112マイル(180キロ)の長きにわたる。

すべて五体投地をしながら巡礼をまっとうする者はわずかにすぎない。それには40日を要するのだ。多くの巡礼者は、グループを作り、荷物を積んだヤクを先に行かせて歩く。それだと7日でゴールする。馬に乗って巡礼する者も多く、わずか3日で巡礼をまっとうすることができる。

 この最後の騎馬による巡礼だが、歩いたり五体投地をしたりする聖地巡礼の功徳の差はあるが、馬に乗ることにたいし、ゴロク人が独特の哲学を持っていることを忘れてはならない。

彼らは揺りかごから墓場(鳥葬)まで、つまり生まれたときから死ぬまで、馬の鞍とともにあるのだ。自分のテントから隣のテントまで歩くくらいなら、自分のテントにいるとさえ言われる。(歩くことに意義を見出せない)

 これらの巡礼者の多くはライフルを携帯する。これはすべての巡礼者に命じられた狩猟禁止にたいする侮蔑を意味している。ゴロク人は武器に執着していて、どこに行こうとも武器を手放すことはないのだ。

 

 平坦で楕円形のコルラ(巡礼路)は平均海抜14000フィート(4300m)ほどである。そのルートは中央山塊に近づくこともあれば、遠く離れることもあった。

北東では、ショサン・クンヘ(Zhozan Kunghe)から1時間歩くと、チュワルナ(Chuwarna)に着く。南東では、ツェルナク・カムド(Tselnak Khamdo)から馬に乗って3時間ほど進むと、ゴロク人の都タウォ・コンマ(Tawo Kongma)に至る。北西では、タウォ・ショルマ(Tawo Zholma)から3時間歩いて、ヌウォ・ダドゥ・ワンチュク(Nuwo Dradul Wangchuk)に着く。北西では、ヌウォ・ダドゥ・ワンチュク近くにコルラ上唯一の寺院グル・ゴンパ(タムチョク・ゴンパ)がある。

それはドドゥプ・チョデ(Dodrub Chode)と関係があるニンマ派寺院である。そこの壁画にアニ・マチェンのマンダラの壁画が描かれている。ゴンパはコルラを走破したあとにたどりつく。

 マンダラの北の入り口はヌウォ・ダドゥ・ワンチュク、すなわち弟の敵が調伏した神、という名の巨大な岩である。ここはアニ・マチェンの弟の住居と考えられている。シャブカルの手の跡がここに残されている。

 北東へ進み、チュンゴン(Chungon)、すなわち青い水の谷を上ると、その上り詰めたところにあるのがドクドゥ・ニャカ・ラ(Drokdu Nyakha La)峠である。そこには石(ネド)が集められて家ないしは祭壇、またはチョルテン(ストゥーパ)が作られている。

峠の下の場所(ネサ)の土は掘り起こされ、乾かされてのちに薬用に使われる。イェコクチュ(Yekhokchu)川に沿った道を降りると、チュワルナ(Chuwarna)でヨンコクチュ(Yonkhokchu)川と合流する。チュワルナに着く前に、イェコク谷の上の北斜面に輝かしいイェシェ・ゴンポ(Yeshe Gompo)すなわち知恵の神の宮殿がある。宮殿は死者の森とみなされる。原初の知恵の火が燃えるその真ん中に、眷属神に囲まれた憤怒相の守護神が立っている。彼はすべての生き物のために、デムチョクへの務めをはたす。

 チュワルナには囲いのなかに、修復された巨大なチョルテン、チョルテン・カルポがある。ここはマンダラの東の入り口である。ここから道は南へ曲がって木がまばらに生えるヨンコク谷を上っていく。そしてゴツォン(武器の意)には道のわきに平らな土地があり、そこの大きな岩の上に、ケサルの兄ギャツァ・シェルカル(Gyatsa Shelkar 白い月の顔の意)の手の跡が残っている。

ゴツォンはマチェン・ポムラの、すなわちゴロク人の、あるいはケサルの武器庫だった。それはずっと上の方の山中にあった。さらに、ゴツォンの上の山頂はマチェン・ポムラの眷属を形成する野生の女たちに満たされていた。見ると彼女らは魅力的で、裸で身体は赤く、踊りながらその尻を左へ移動した。

南のゴツォンの上にはツェリン・チェンガ(5人の長生女神)が住む場所、アブル・バルルン(Abur Barlung)があった。そこには金でできた四角い部屋があり、巨大な花のテントのなかに中央のタシ・ツェリンマを含む5人の女神がいて、天空の踊り子たちとともに密教的な儀礼をおこなった。

 ゴツォンの向こうには、マチェンの妃であるドルジェ・ダク・ギェルマ(Dorje Drak Gyelma)が住む心臓の形をした山があった。この女神(テンマ)はチベットへ入る峠の守護女神のひとりである。

 巡礼路のもっとも東にあるのがツェルナク・カムドである。それはここで見られる赤と黒の土、そして大きなケルン(石積み)から名付けられた。南西へ行く道は牧草地帯を通ってルドゥン・シュクパ(Ludung Shukpa 蛇の精霊の杜松)へ通じていた。

また巨大な木、2つの洞窟、ドルマの泉、旗が結われた旗竿があった。さらに西へ行くと、巡礼路のもっとも高い地点にタムチョク・コンパ(Tamchok Kongpa)、すなわち卓越した馬の頂点といわれる場所があった。

そこには旗竿があり、旗(タルチョ)が奉納された。さらに馬の頭骨、鬣の毛、手綱が供えられ、巡礼者の馬に幸運がもたらされることを願った。ここはマンダラの南入り口だった。

 峠の下にはンガンワイ・ショクテン(Ngangwai Shokteng ガチョウの羽の上)という平原があった。そこを支配していたのはニェルワ・ドンギ・シェルカル(Nyerwa Drongyi Shelkar)だった。

 平原を抜けると小さな鏡のような湖があった。それはアニ・マチェンの魂湖のようである。その後ろにはところどころ盛り上がった岩だらけの急斜面があり、モワトワ(Mowatowa 占い師、悪霊祓い)と呼ばれた。

 

 崖の下には隠棲所の壊れた壁があった。そこはかの有名なアムドワのヨーガ行者シャブカルが1809年の数か月、瞑想をして過ごしたところである。

シャブカルは2人の従者を連れてここにやってきた。彼らは小さな石の小屋を建てると立ち去り、シャブカルひとりが残され、その季節中そこで過ごすことになった。

シャブカルが滞在したとき、2つの湖を眺めることができた。偉大なるヨーガ行者はここに滞在しながらたくさんの歌をつくった。この地域の野生生活、とりわけキャン(野生のロバ)の群れについて歌った。

 彼がアニ・マチェンについて述べたのは、第十天のボーディサットヴァ層の守護者であるマチェンの住居に触れたときだけである。

ある日彼は峰のひとつに登り、虚空のなかに自己を見失った。そのときの境地(サマディ)をつぎのように描く。

 

透き通った秋の空の太陽のように、心の本性である輝く空(くう)があらわになる。中心もなく、限界もなく、虚空のように空(くう)で、すべての現象が、形も音も、自発的であり、太陽、月、惑星のようにありありと存在する。心と現象は完全にまじりあってひとつとなる。

友と敵、それらに違いはない。金と石、それらに違いはない。生命とつぎ(の転生)、それらに違いはない。これらのことを認識して、輝かしい天空のなかで私は座す準備ができている。ヨーガ行者のように。(リカール) 

 

 モワトワはボーディサットヴァのヴィジョンの場所である。モワトワの上は慈愛のボーディサットヴァ、チェンレシク(観音)の住む山である。ガイドブックによれば、千の太陽に抱擁された雪に覆われた山の色の身体、ということである。

その左側に住むのはタントラのマスター、チャクナ・ドルジェである。その身体はラピスラズリ色であり、ボーディサットヴァたちに囲まれている。

 チェンレシクの右は知性のボーディサットヴァ、ジャンペルヤン(Jampelyang 文殊菩薩)の住まいである。尊近くの氷河の末端に住むのは、献身の女ボーディサットヴァ、ドルマ(ターラー女神)である。

これらのボーディサットヴァの住まいは土や石の盛り土にすぎない。しかしそれらはポタラのようにボーディサットヴァの浄土なのである。

 

 さらに西へ平原に降りていくと、そこはジェマ・ドゥデル(Jema Drudel ばらまかれた大麦、あるいは砂の粒)、すなわち砂丘である。そこには入り口があり、中に入ると仏法の守護者マチェン・ポムラの宮殿につながっていた。それは基本的に偉大なる慈悲深い者、トゥジェチェンポ(マハーカルニカ)である。

 

 彼の身体は赤みが入った雪山のように白かった。彼はひとつの顔とふたつの手を持っている。

右手には、空洞のある葦でできたすべての願いを満たす色絹のついた矢を持ち、左手には如意宝珠を心臓の高さで保っている。彼は絹の衣を着て、宝石の飾りをつけ、緞子のベストを着て、甲冑と兜を着用した。彼はトルコ石の鬣を持った卓越した白馬に乗った。宝石で飾られた金の鞍の上に坐るのだ。(キャチア・ビュッフェトリユ)

 

 すこし行くと川があり、上流に向かうとドルマ・ドゥブチュ(Drolma Drubchu ドルマの成就の泉)という泉があった。

さらに進むと、巡礼者はゴク・チェンモ(Goku Chenmo)に達する。ゴクとは巨大なアップリケ・タンカを意味する。少し上の岩の表面がまだらになっていて、アップリケ・タンカのように見えるのだ。

そこには旗竿があった。旗竿は旗(チョルテン)が供えられるようになっていた。

またこの岩には洞窟があった。洞窟を抜け、ゴクの後ろに出ると、マチェン宮殿の西の入口だった。入口の中には僧侶の姿があった。彼らは旋律の美しい仏法の歌をうたいながら、幸運なものたちを解放するのだ。

 ゴク・チェンモの向こうにはゲトゥク・ラ(Hethuk La)峠があった。峠の近くに岩があり、それに付随した石は楕円形の取っ手のように見えた。この取っ手はリンのケサルによって使われた。峠で休むとき、ケサルは馬をつなぐ必要があったのだ。

峠の下にはゲトゥク・ナン(Gethuk Nang)の谷があり、シンジェ・ギャマ・ダン・メロン(Shinje Gyama Dang Melong 死の主の定規と鏡)という場所があった。

そこで巡礼者は、彼自身の死と死の王による審判を見ることになるのかもしれない。彼は死後体験のように、狭いトンネルの中を這い、突き出た岩の庇の下にたどりつく。それで彼は丸石を拾い、それを持ってマニ列のまわりをまわる。

このことは地獄からの再生を意味し、バルドの終わりを意味する。これはコルラ(巡礼路)の最後のパワー・プレースである。