大いなる山の神   マウン・ティン・アウン 訳:宮本神酒男 

大いなる山 

 ポゥパー山はそれほど高くはない。それはおよそ3000フィート(900m)で、800フィート(240m)の高原の上に立つ。平原自体は海抜1000フィート(300m)である。しかしポゥパー山は高い山に見える。というのもミンジャン平原に孤高として立っているからである。

 それはビルマの歩哨の役割をもっていた。ビルマ人がエーヤワディー渓谷のなかで最初に定住したのはミンジャン平原だったのである。いまは死火山だが、25万年前は地下の火が見えたはずである。その怒れる火が消えたのは歴史時代になってからのことだった。

ビルマの年代記によると、紀元前442年、巨大な地震が起き、ポゥパー山が平原からコーンのように隆起した。コーンの頂上にはクレーターがあった。その一部は数多くの噴火のうちのひとつによって吹き飛ばされた。クレーターは1マイルほどの幅があり、深さは2000フィートもあった。

火山灰は土地を豊かにし、高みは雲から水分を取ることができた。それゆえミンジャン平原自体は暑い土地で、植物の成育には適していなかったが、ポゥパー山は緑の森に覆われているのだ。今日でも花咲く木がたくさなるが、昔は斜面全体を花咲く木が覆っていた。だからサンスクリットで花を意味するポゥパーという名で呼ばれるのだ。このように昔のビルマ人にとってそれは花の山であり、大いなる山、黄金の山とも呼ばれた。

 人類の歴史を通してすべての民族が山の上に神や女神がいると信じてきた。仏教徒もまた、古代ギリシア人がオリンポス山の上に神や女神が居住すると信じたように、マユ山(メルー山)上の神や女神を信じていた。同様にビルマ人はポゥパー山を神や女神の家とみなしてきたのだ。

また肉ではなく花を食べる美しい魔女が、ポゥパー山でかくれんぼをして遊んでいると、そしてその斜面には呪術師や錬金術師がハーブや根を探し回っていると信じられるようになった。しかし花の森には、泥棒や無法者が潜むこともあった。アノーヤター王自身、他者に奪われた王位を奪還しようというとき、ポゥパー山の森で兵を整えたのである。

チャンシッタ王も、アノーヤター王の息子がペグーの反乱軍に敗れたあと、ポゥパー山でビルマ軍を再装備し、再編成した。おそらく一度は神や女神とは別にポゥパー山自体が崇拝された。それは勝利の聖地であり、そのパワーに触れることによって偉大なる事業が成し遂げられると考えられたのだ。

 

屈強の男 

 ビルマの歴史においてかなり早い時期から屈強の男は王から恐れられてきた。というのも彼らは人々の支持を得て王位をつかむことができると考えられたからだ。一方で彼らに野心がなければ、王の軍隊の高い地位が与えられただろう。呪術と錬金術の主な目的は、肉体を進化させ、不死身でかつ、とてつもない強さを会得することだった。勇敢さだけでなく、肉体の強さも肝要だった。

アノーヤター王には4人の将軍がいたが、そのうち3人は強靭な肉体の持ち主だった。ひとりは偉大なスイマーであり、ひとりは偉大なランナーであり、ひとりは偉大なクライマーだった。しかし4人目のチャンシッタは特別強い身体を持っているわけではなく、そのかわり偉大な戦略家だった。彼はもっともすぐれた知性の持ち主だった。アノーヤター王も肉体的に強いわけではなく、野蛮な強さにまさるその卓越した知性と神に与えられた槍を誇りにしていた。

 

新しい宗教の必要性 

 パガン朝ははじめ、19の村の集合体にすぎなかった。年代記によれば344年から387年頃、ティンリチャウン王(Thinlikyaung)のときに統治された。実際はもっとあとになって村から都市が形成され、エーヤワディー川沿いにティリピッサヤ(Thilipyssaya)というパガンの前身となる都が建設された。

当時人々が信じていた宗教は、ビルマの離れた地域で信仰されているアニミズムに近いものだったろう。ナッの精霊はどこでも信仰されていたが、それぞれの地方のナッの信仰は禁じていた。国王も人々も国全体で信仰されるナッを探していた。それは地方のナッとは異なる国民的なナッとなるはずである。言怒れれば、彼らは新しい宗教を探していた。それはさまざまな民族を束ねて、ひとつの国家を作り出すのだ。

 

ハンサム氏と金の顔の王女 

 年代記によると、当時北方にはもうひとつの王国、タガウン朝があった。ここでは大きな悲劇が起こった。タガウンの都の郊外に力強い鍛冶師がいた。その息子はさらに強かった。

彼は完璧な体をもち、ハンサム氏(マウン・ティン・デ)として知られるようになった。彼は少年の頃、すでに大食漢だった。おとなになると、毎食カゴの4分の1(70ポンド=32キロ)の米を食べたという。彼が父親の家業を継いだとき、右手に50ヴィス(80キロ)の鉄のハンマーを、左手に25ヴィス(40キロ)の鉄のハンマーを持った。彼が鍛冶を行い、鉄床(かなとこ)にたいしハンマーをふるったとき、町全体が激しく揺れたという。(このハンサム氏の伝説は前歴史時代のさまざまな地震の記憶を反映しているだろう。とくにポゥパー山が活動している頃、地震が頻繁に起きていたと思われる)

この強靭な男の噂はタガウン国王の耳にも届いた。彼は反乱を恐れていたので、ハンサム氏を拘束するよう命令を下した。鍛冶師は警告を受けたので、森に逃げた。

 失望した国王は裏切りに屈辱感を募らせた。ハンサム氏には美しい妹がいた。国王は彼女を王妃に迎えた。数か月後、国王は王妃に言った。

「私はもうおまえの兄を恐れることはない。なぜならいまや私の兄でもあるからだ。そうだ、お兄さんをタガウンに招こう。そしてタガウンの知事に任命しよう」

 王妃は国王の言葉を信じ、ハンサム氏に使者を送った。彼は何の疑いも持たずタガウンにやってきた。しかし宮殿に着くとすぐに兵士に捕えられ、エーヤワディー川沿いのサガの木(チャムパの木)に縛りつけられた。

国王は王妃や廷臣とともにそこへやってきた。国王は火をつけるよう命じた。火はまたたくまに燃え上がり、鍛冶師の足元を包み込んだ。

兄が火のなかでもがき苦しむさまを見て、いたたまれなくなった王妃は突然走り出して、火の中に飛び込んだ。彼女を愛していた国王はあわてて追いかけ、火の中から彼女を救い出そうとして髪を引っ張った。

しかし遅すぎた。王妃の顔だけは焼けなかったが、ほかはすべて焼き焦げてしまった。のちにナッ神として崇拝されるとき、このことが記憶され、黄金の顔(シュエ・ミェッナ)と呼ばれるようになった。

このように兄と妹は死に、ナッ神となった。彼らの棲家はサガの木だった。裏切り者の国王を恨んだナッ神の兄妹は、サガの木の影にやってきたすべての動物や人間を殺した。国王は恐れおののき、サガの木を切り倒し、その幹は川に流すよう命じた。

数日後、サカの木はティンリチャウン王と国民が待つティリピッサヤにたどり着いた。2つのナッ神のことがすでに知られていたからである。これは新しい宗教、すくなくとも新しい宗派が作られる絶好の機会だった。国王直属の彫刻師はさっそく流れ着いたサガの木を彫って木像を作った。それは金で覆われた。

 満月に近い夜だった。西欧のカレンダーでは12月だった。農作物の収穫の時期であり、この年は豊作だった。人々のあいだには祝祭のムードが広がっていた。

2つのナッ神の像が黄金の御輿に入れられ、国王自身も参加し、ポゥパー山へ運ばれた。赤色がナッ神と関係があるとされ、赤い旗や赤い吹き流しが行列に加わった人々や沿道に住む人々によって運ばれた。とまった村々で、だれもが歌い、踊り、食べ物や酒が饗された。

満月の日、行列がポゥパー山の頂上に着いたとき、新しく建てられた黄金のナッ神殿が待ち受けていた。華やかな儀礼が行われ、ナッ神像がナッ神殿に安置された。そして国王は、「ポゥパー山の麓の村、ポゥパー・ユワはこの2つのナッ神の永遠の所領となるだろう」と宣言した。霊媒たちは忘我の喜びのなかで踊り、数百の白い雄牛、白い馬、白い山羊がナッ神のために犠牲として捧げられた。

 それはビルマ暦の9月だったので、9月は吉祥の月とされ、9という数字はこの2つのナッ神と関連づけられるようになった。また国王はこれらのナッ神に「大いなる山の神」という称号を与えた。兄にはミン・マハギリ(ミンはビルマ語で王、統治者の意、マハギリはパーリ語で大山の意)、妹にはタウンジ・シン(タウンジは大山の意、シンは主の意)という称号が贈られたのである。

しかし妹は相変わらず親しみをこめて黄金の顔(シュエ・ミェッナ)と呼ばれた。

国王はさらにその月をナッ・トー・ラ(聖精霊月)と呼び、その月の満月の日をポゥパーのナッ神を祀る日とするよう命じた。ビルマ暦の8月、タザウン・モン・ラは光の祭典の月を意味した。大いなる山の神が到来する前、この月の満月の日は神々、とくに惑星の神々に光を捧げるよい機会である。しかし現在国王は一か月ずらし、ナッ・トー・ラの月に光の祭典を行うよう定めている。

 

国家的宗教として確立された大いなる山の神の信仰 

 ティンリチャウン王のあとを継いだパガン朝の王たちはマハギリ・ナッを国家によって保護しつづけ、この崇拝は国家的な宗教として確立された。パガンの都が849年に建設されたとき、大門の柱に「兄と妹」の像が彫られた。それは都と人々を守護するナッ神であった。すべての王の最初の山への訪問は、戴冠式とおなじくらいに重要だと考えられた。戴冠式の日のことが公式に記載されるように、黄金の山に登る日のことは注意深く記載された。

パガンを統治するすべての王は大いなる山の神を見ることができると信じられた。そして神は国家の重要なことについてアドバイスを与えたのである。ポゥパー地区に僧院をもつポゥパー・ソーヤーハンという僧侶が王の大臣になり、のちに国王の位を継いだとき、大いなる山の神はその姿を現さなかった。というのも、彼は王室の種族ではなかったからである。

何年かのち、彼に娘が生まれたが、娘が大きくなると前国王の息子に嫁がせ、彼を王の継承者と発表した。そのときだけ大いなる山の神が現れ、はじめてアドバイスを与えたという。年代記に記載されたこの故事は、実際にあった話をまとめ、読みやすくしたものである。

おそらく国王ははじめ大いなる山の神の崇拝を拒絶しただろう。しかし次第に彼は神や占星術に惹かれていったようである。彼は死ぬ数か月前、それまでのピューの暦を捨て、ビルマの暦を採用した王なのである。



⇒ つぎ 











聖地タウン・カラッ。ポゥパー山はナッ神の総本山である。