古代チベットの砂漠の城砦マザタグ
〜ホータン秘史〜     宮本神酒男

 

シャンシュン国の北辺としてのホータン

 シルクロードのホータン(中国新疆ウイグル自治区和田)とチベット。おそらくよほど両者に興味を持っている人以外は、そのつながりに思い至ることはないだろう。

 チベットに仏教伝来以前からあったとされるボン教や、ボン教が生まれたか、発展したとされる古代シャンシュン国の研究者にとって、ホータンはイタリック体で書かれるべき存在である。古来よりシャンシュン国の版図は、西はブルシャ(ギルギット)、南はムスタン(ネパール)、東はナムツォ(など諸説)、そして北はリユル(ホータン)が境界であるとされてきたからだ。

 ホータンがシャンシュン国の北境――シルクロード史研究者が聞いたなら、即座に否定するだろう。あらゆる中国の史書、ペルシアやアラブの歴史書にその名は見えないうえ、考古学的証拠もなく、存在する余地すらない、と。

 私が用意した回答はつぎのようなものだった。7世紀から9世紀にかけてチベット帝国、すなわち吐蕃は我々が想像する以上に強大な国であり、一時は唐の都長安を占領したほどだった。西はパキスタンのギルギットを支配下におさめ、北はタクラマカン砂漠まで侵攻し、敦煌やホータンもその版図に入った(7〜8世紀に数回、そして791−850年頃)。「シャンシュン大帝国」の幻想はチベット帝国の夢の余韻から生まれたのではないか。

 しかし最近私はちがった考え方をするようになった。『漢書』をよく読むと、シャンシュン国が存在する余地が十分にあるのだ。

 問題はホータンの箇所である。

「ウテン国(ホータン)は、王が西城に治し、長安を去ること9670里。戸数3300、人口19300、勝兵2400人がいた。輔国侯、左右の将、左右の騎君、東西の城長、訳長がそれぞれ一人いた。東北のかた都護の治所まで3947里、南は若羌国(若は女ヘン)に接し、北は姑墨国に接している。ウテンの西は、川の水がみな西に流れて、西海に注いでいる。その東は、川の水が東流して、塩沢に注ぎ、黄河の源流が出ている。玉石を多く産する。西は皮山国に通じ、380里」。

 ホータンは、大国というほどではないが、現中国領の西域オアシス国のなかでは4番目の中堅国だった。注目したいのは南が若羌(音はおそらくdzi khiang)と接している点である。若羌は現在の若羌県城のやや南に位置したと思われるが、直線距離で700キロも東の方向に離れている。この記述が誤謬とは思えず、若羌がふたつあったと考えるほうが自然である。しかも『漢書』によれば難兜(なんとう)国の南、すなわちパキスタン北部にも若羌があった。

 これら三つの若羌がひとつの国であった可能性はあるだろうか。ひとつの国であれば作者の班固は明記しただろう。なにも言及していないということは、彼らがひとつのグループを形成し、おそらくゆるやかな連合体であったということだろう。女ヘンを若につけて造字しているということは、女王をかかげるチベット系の人々だったと考えられる。シャンシュン=大羊同=女国(「シャンシュン史」参照)だとすればそれらがシャンシュンの一部であった可能性は十分にある。

 南に接する若羌のテリトリーは、ホータンのすぐ南に分布するいくつかの遺跡も候補だが、崑崙山脈北麓のほうが可能性は大きい。そのまま南下すると、現在のインド・ラダックへと通ずる。ラダックもシャンシュンに属していたと考えられる。

 このようにチベット高原から北へテリトリーがしみだしていった先にホータンがあるのだ。7世紀から8世紀にかけて吐蕃はシャンシュンの領地を併呑していく。シャンシュンを支配下に置くことによって、ホータンを起点とした西域進出がより容易になった面があるだろう。マザタグ城砦はこうしてホータンを手中にし、西域経営に乗り出したチベットの数少ない物証なのである。 

レーリヒはシャンシュンの遺跡を見たのか

 ドイツ系ロシア人神秘画家ニコライ・レーリヒ(リョ−リフ)は1920年代、インド・ラダックのヌブラからカラコラム峠を越え、現在の中国新疆のホータン南部に達している。峠を越えてしばらく行ったところで、彼は「まるで敦煌のような」洞窟群を発見する。この洞窟群がいまだにきちんと調査されていないのは、どういうことなのだろうか。ライバルのオアシス国家トルファンやクチャに(また敦煌にも)壁画が豊富な洞窟群があるのに、ホータンにないのはおかしくないか? もちろんここはアクサイチンにも近く、中印国境紛争の最前線であっただけに、自由に行ける日が近いとも思えないが。しかしいつか今世紀最大の発見がここでなされると思う。

 実物を見たわけではないので当てずっぽうだが、この洞窟群は「シャンシュン型の洞窟群」ではなかろうか。「シャンシュン型」というのは、グゲ王宮をはじめとする西チベット各地に数多く見られる洞窟群である。たとえばネパール・ムスタンの洞窟群は「シャンシュン型」であり、シャンシュンの一部であった可能性が大きい。ちなみに考古学チームによって2800年前の動物の骨が洞窟から出土している。

 レーリヒはまたカラコラム峠付近に多くの仏教ストゥーパを目撃している。もっともそれらはマザタグの墓のように、イスラム教の聖者の墓に転じているのだが。このあたりまで仏教王国であったラダックの版図に入っていた可能性もある。

 カラコラム峠とホータン西南の岩絵で有名な桑株(サンジュ)のあいだには、放牧系の小国家があったかもしれない。そしてその国は連合国家シャンシュンの一部だったかもしれない。しかしいまのところ謎だらけで、謎はなかなか解けない。

 

木簡に記されたシャンシュンの地名

 ホータンでは、このマザタグを中心に多数の木簡や写巻が出土している。そのなかに羊同(ヤントン)の「十の千戸」のうち少なくとも三つの名が含まれている。羊同とはシャンシュンのことである。この木簡などが書かれたのはおそらく8世紀末から9世紀半ばであろう。

●チンツァン(sPying rtsang

●ヤンツァン(Yang rtsang

●オツォ(’O co

 チベット全体では61の千戸があり、ホータンの木簡等に書かれた千戸は24だという。羊同の地名がそのうちの3つというのは、案外少ないという印象を受ける。しかし羊同がチベットと同列に扱われていることが重要だと考えたい。シャンシュンは、ソンツェン・ガムポの時代に滅亡しかけ、ティソン・デツェンの時代に国としては滅んだ。これらの木簡はシャンシュンの滅亡を反映していたのだ。

神山と呼ばれたマザタグ

 出土した木簡に記された地名はマザタグではなく、シンシャン、すなわち神山だった。中国語で呼ばれるのは、チベット人より先に唐軍が駐屯していたからである。神山には集落もあった。山(というより丘だが)の麓なら林があり、川が枯渇しても池があるので住むには適していた。しかし安全面で考えれば岩肌の上に村を作らざるをえなかったかもしれない。

出土物には、ティマロ(Khri ma lo)という女性の名があるという。将軍であるツェジェ(rtse rje)か内務大臣であるナンジェポ(nang rje po)の妻か母ではなかったかと考えられる。また吐谷渾のユツェン(gYu brtsan)が140袋の大麦を神山に送ったという記録が残っている。

このように見ていくと、とても人が住めそうにもない地域に兵士やその家族が生活し、暮らしていたことがわかってくる。自然環境の厳しいおなじ無人地帯でも、チベット高原とタクラマカン砂漠ではずいぶんと勝手がちがったかもしれない。

ホータンの名

 ホータン(Khotan)は『漢書』ではウテン(ウは于、テンは門カマエに眞。現在の発音でyu tian)と表記されている。玄奘の『大唐西域記』には瞿薩旦那国と表記されているので、もとはサンスクリットのKustanaではないかと考えられる。Kuは地、stanaは乳房を意味する。チベット語の資料(『ウテン国授記』)には「地乳」すなわちSa nuと意訳されているので、Kustanaに対応しているといえるだろう。

 玄奘はつぎのような建国神話を伝える。「昔、東土帝子は罪を得て追放され、ホータンまでやってきたとき、タキシラ(ガンダーラ)の移民と遭遇した。どちらの武力が上か力比べをすることになり、東土帝子が勝った。そうしてふたつの部族をあわせて国を作ったが、跡取りができなかった。東土帝子は毘沙門天を祀ったお堂に行き、祈願すると、神像の額が割れ、赤ん坊が出てきた。人々は御輿に乗せて運び、国中が祝ったが、どうしてもお乳を飲まない。困り果ててお堂に行きもう一度祈願すると、お堂の前の地面が盛り上がり、乳房のようになり、その乳を吸って赤ん坊は大きくなった」。

 チベットの『ウテン国授記』は同類のやや違った伝承を記している。「ダルマ・アショカ王の第13年、皇后が男子を産んだ。占い師の多くが将来この子は父親を王座から追い落とすだろうと占ったので、王はこの赤子を捨てるよう命じた。王子が捨てられたとき、地に乳房が現れ、王子はそれを吸って生きることができた。それによってこの地をKustanaすなわちザヌ(地乳)と呼ぶのである」。

 別の史書『ウテン教法史』はつづけてつぎのように記す。「国王の名はサヌ(地乳)すなわちインドのアショカ王の子である。アショカ王はたくさんの兵士を連れて巡遊し、ホータンの湖に至った。ここにはかつて人が住んでいたのではないか、そう思った王はバラモンや易者に占いをするよう命じた。易者は言った、地乳という名の非常に美しい王子が見えます、この王子は将来国王よりも強大な力をもつことになりましょう。王は嫉妬心を生じ、この王子をその生まれたところに捨てるよう命じた。その場所がホータンの北門だった。王子は捨てられたが、毘沙門天と吉祥天女が土から乳を出して育てたので、死ぬことはなかった」。

 そのほかさまざまな説がある。

2 牛地説。Gostana あるいはGostan
3 有力な、という意味とする説。Hu-vat-ana
4 サンスクリットのウディヤーナ(花園)説。ウテンに近い。
5 チベット語の玉(g-yu)と村(tong)からyutanの説。ホータンは玉の産地。
6 漢人説。ウイグル人は漢人を「赫探」(hetan)と呼んだことから。
7 ブドウ説。ブドウを意味するqustaniから。

こういった説が唱えられてきたが、玄奘やチベット人の作者たちが地乳神話を書きとめたということは、その伝承がもっとも一般的に流布していたことを示している。しかし同時に、危険視され捨てられるが、狼や羊飼いなどに助けられる王子の物語は、モーセやロムルスとレムス、オイディプスなど世界中にみられる典型的な神話のエピソードであり、つまり、ほんとうのところはだれにもわからないのだ。


古代ホータン

 前漢の建元三年(前138年)武帝は大月氏と手を結んで匈奴を挟み撃ちすべく、張騫ら百人余りの使者を中央アジアへ送った。しかしみな匈奴に捕らえられ、十数年も拘束されたのち、帰還することができたのは張騫だけだった。張騫は運がよかっただけでなく、能力の優れた人物だったらしく、厖大な地政学的情報をもたらした。その情報は『史記』に取り入れられ、『漢書』もそれを踏襲した。

 前133年、漢と匈奴の間に戦争が勃発する。前104年、漢朝は汗血馬を得るため、また匈奴を牽制するため、李広利将軍率いる軍を大宛(フェルガナ盆地)に派遣し、戦いに勝った。西域諸国は漢の強大さに恐れおののき、こぞって太子を「質」として都へ送ったという。

 このときにホータンの隣に位置する●弥(うび ●は手ヘンに于)は出てくるが、ホータンは出てこない。ホータン(ウテン)の名がはじめて現れるのは、前述の『漢書』西域伝である。オアシスの町としては人口2万人近くというのはきわめて多い。現在もグーグルの航空写真による地図を見ればわかるように、タクラマカン砂漠のなかにあってこの地域だけ緑のエリアが広がっているのである。雨は一年を通じてほとんど降らないが、崑崙山脈の大量の雪解け水がとくに春から夏にかけて砂漠にそそぎこまれるのだ。

 精絶(尼雅)、戎盧、●弥(うび)、渠勒、ウテン、皮山などの国名が『漢書』に現れるが、これらはほぼホータン国およびその影響が及んだ周辺国である。現在の民豊県、于田県、策勒県、渠勒県、和田県、墨玉県、洛浦県、皮山県に相当する。(Map

 ホータンは漢朝を簒奪した王○(おうもう ○は草冠に奔)が死んだあと、歴史の表舞台に立つようになる。その頃、西域の北道は匈奴が支配し、南道では莎車(ヤルカンド)が強盛だった。莎車は皮山、さらにホータンを傘下に収めようと触手を伸ばそうとしたところ、かえってホータンに力を与える結果になってしまう。ホータンは周辺の国々の王を殺し、併呑し、莎車に拮抗する勢力を得たのである。ホータンではシュムパ(休莫覇)が漢人の協力によって権力を奪取し、王の位を継いだ広徳によって莎車を打ち破った。これらのことが起きたのは西暦60年代のことである。

 73年、後漢は匈奴を破るが、匈奴はホータンを攻め、広徳の子を人質に取った。後漢は西域の失った土地を回復するため、班超を送った。班超は広徳の信が篤かった巫師を殺し、匈奴の使者を殺すよう広徳に促した。広徳は使者を殺し、漢朝に帰順した。

 その後87年、漢朝が疏勒(カシュガル)に攻めたときにはホータンは25千人もの兵を出した。そして94年、漢朝は西域の統一を成し遂げる。

 ホータンは漢朝に対し従順であったが、2世紀に入るとある事件をきっかけに冷却していく。129年、ホータン王放前は東隣りの拘弥国の王を殺し、自分の子を王として立てた。それに対し、後漢の敦煌太守は拘弥国の占領をやめるよう勧告するが、放前は拒絶する。132年、疏勒(カシュガル)が介入する。疏勒は2万人の兵を送り、ホータンを破り、殺された前王の親族である成国を新王に立てた。

 151年、西域長史の趙評がホータンで病死した。葬儀を行うためホータンに向かった趙評の子は拘弥国で「お前の父親はじつは毒殺されたのだ」と教えられる。翌年、敦煌太守は新しい西域長史王敬を送る際、ひそかにこの件について調べるよう命じた。王敬はホータンに到着するとすぐ、ホータン王の建を宴に招待した。しかしこれが双方の疑心暗鬼を生み、その機会に乗じて拘弥国王成国の家臣が建を殺したのである。王を殺されたホータンの兵士らの怒りが爆発し、彼らは王敬を殺してしまう。こうしてホータンと後漢の関係は一挙に冷え込んでしまったのだ。

 175年、ホータンは拘弥国に侵攻し、併呑した。

 

(つづく)

ホータン市街に昔のよすがはないが、はるか頭上に張られたロープを渡る軽業師に古代シルクロードの活気を感じた。

マザタグ城砦から望む和田河とポプラ(胡楊)林。

林の中には今もイノシシが棲息するという。チベット兵が駐屯していた頃、飼育していたのかもしれない。

一瞬、ヘディンの時代にタイムワープしたかと思った。タクラマカン砂漠をラクダで旅をするスウェーデン人たちだった。

通称紅白山。紅山の上にマザタグ城砦がある。赤と白の組み合わせはチベット人の好みである。

南側から城砦を望む。建物自体はさほど大きくはない。

マザタグ(聖人の墓の山)の名のもとになったイスラム教聖人の墓。もとは仏教のチョルテン(ストゥーパ)か。

聖人の命日に羊の毛や布などを捧げたと思われる。イスラム以前からの民間信仰。

城砦に近づく。足場が崩れやすく、難儀した。

城砦の東側から。

城砦のもっとも広い部屋。将軍(dmag pon)がここに駐屯していたと考えられている。

部屋の中のほぞ穴。天井を支える柱が渡されていた。

上から部屋を見下ろす。壁の大部分が崩壊している。

城砦の東側に残る烽火台。いつ唐軍が攻めてくるかわからないので、非常時の備えは万全だった。

紅白山の上は美しくも、生物を寄せ付けない厳しさがあった。

多数のチベット文の木簡が発見されている。(この木簡は于田県のチャクマ遺跡から出土したもの)

ホータン郊外のラワク寺遺跡から出土した蓮華座仏像。北朝。

左はラワク寺出土の北朝期の泥塑仏像。右は策勒県ダルマ溝出土の10世紀の銅仏像。

墨玉県クム・バラト遺跡から出土した千仏。北朝期。

墨玉県のチベット人好みの騎馬天王像。唐代。

生前の高貴な位、生活ぶりがうかがえる女性のミイラ。

左はマザタグ城砦で発見された玉の猿。右の西チベット・ツァパランで発見された青銅の猿と比較したい。前者は贈り物か。法顕によれば寺院内に玉細工はたくさんあった。後者は魔よけの首飾りか。また、葬送儀礼のとき、本物の猿の代わりに犠牲として捧げられた可能性もある。

地図 1新疆タリム盆地 2ホータンとマザタグ HOME