ミャオ族の鵜飼い 

 もう四半世紀も前のことになるけれど、滞在していた貴州省の清水江沿いのミャオ族の村では、鵜飼い漁がさかんに行われていた。よく見ると、一羽一羽がひもでつながれている。喉元に輪っかがはまっているようにも見えるが、確認できない。輪っかがあるとすれば、それは捕った魚を飲み込まないようにするためだ。



 漁をするときは、小舟を川の中央まで出し、脚にひもをつけたまま、鵜を水中に放つのだろう。鵜が口にくわえた魚を網ですくい、それを竹籠に入れるのだろう。




 中国江南の鵜飼いがいつごろから始まったかははっきりとはわからない。文献に現れるのは7世紀以降のようだが、それよりずっと以前から鵜飼いが行われていたのはまちがいない。

 この村を訪ねたのは、そもそも稲作文化の祭りである姉妹節を見るためだった。この村の川で鵜飼いが行われているのだから、川の漁民文化とミャオ族の稲作文化は早くから表裏一体となっていた可能性がある。

 村に滞在している間、お茶はほとんど飲まなかった。この川の水を沸かしてもらって飲んでいた。お湯の入ったコップを透かして見ると、藻のような、あるいは溶けない顆粒のようなものが、煙幕のように広がっていた。口に入れると、独特の風味があった。

 泊まっていた家のお母さんは足を悪くしていて、おばあさんはもっと足を悪くして、ほとんど寝たきりだった。上流の工場排水が原因だったのではないかと思う。近代化が多くの痛みを伴っていたことが、こうした事例からもうかがえるのだ。