ミパム伝 その2 

ダグラス・ダックワース 宮本神酒男訳 

 

 ミパム(1846−1912)はジュ'Ju氏族に属している。どの氏族と家族に属するかは、チベット人のアイデンティティを決定するにおいてきわめて重要である。それどころかチベット文化の中核を占めるとさえいえるのだ。医者であったミパムの父が属するこの氏族は、聖なる先祖を有するといわれる。ジュ氏族の名のジュは、「天から降りてきた輝かしい神々'Od gsal lhaの綱rMu thagを持つ'ju者」という意味なのだ。ミパムの母もまた高貴な出自だった。彼女はミパムが生まれたデルゲ王国の大臣の娘だった。彼の郷土は19世紀の東チベットにおける知的文化の中心地だった。

 ミパム・ギャツォ(不屈の大海の意)の名付け親は叔父だった。幼少のときから彼は大乗仏教と自然になじんでいた。敬虔な心、自己放棄、智慧、慈悲といった資質を生まれながらに持っていた。物心ついたころから起こったすべてのことを彼は思い出すことができたと言われる。チベットの輝かしい高僧のほとんどの伝記が示すように、ミパムもまた神童と呼ばれた。しかしミパムは比較的最近の重要人物であるにもかかわらず、その生涯はさほど詳しくはわかっていない。

 彼の勉学は6歳のときにはじまった。仏教の誓願に関するニンマ派の重要なテクストである「三つの誓願の確証(三律儀)」sDom gSumを暗記したのである。チベットでは古典的な経典を徹底的に学ぶとき、それを暗記するのは一般的な修学法だった。ミパムが最初にこのテクストを学んだのは意義深いことだった。というのもこの三つの律(解脱の律、ボーディサットヴァの律、秘密のマントラの律)は徳の修行、すなわち仏教の修行法の基礎から成り立っているからである。さらにこのテクストには、小乗仏教から秘密のマントラにいたるまで、広範囲に及ぶ仏教の教えが含まれていた。そこには矛盾することなくさまざまな教えがいかに統合されるかが示されていた。このことはまさにミパムの生涯を通じての一貫した主要テーマだった。

 10歳のときすでに読むことにおいても、書くことにおいても長けていたミパムは、数編の短い文を作った。一部のチベット人学者が主張するところによれば、彼の有名な哲学的な詩編である『信念の灯明』(Nges shes rin po che'i sgron me)は早ければ7歳のときの作品だという。これは驚くべき偉業であり、ミパムの学識と知性がなみなみならぬものであることの証しである。

 ミパムの創造的な知性は、仏教の主流派のあいだで話題にすることが禁じられていたわけではなかった。著名なチベット人の著作家にして反逆者、因習破壊者だったゲンドゥン・チュンペ(19031951)がカーマ・スートラ(古代インドの性経典)の注釈を書いたことはよく知られているが、じつはチベット人で最初にカーマ・スートラの論評を書いたのはミパムだった。このことは彼の著作が独創性と折衷主義の両面を持っていたことを示している。

 伝記によると、彼は地元の習慣にしたがって12歳のときに僧侶になった。ニンマ派シェチェン寺の支寺であるジュモホル'Ju mo hor寺に入ったのである。そこで彼は「小さな学僧」として知られるようになった。そして弱冠15、6歳の頃、1年半のあいだジュンユンの庵室にこもってマンジュシュリーの瞑想修行をおこなった。ミパムにとって智慧の神であるマンジュシュリーは、生涯を通じての特別な存在となった。若い時期にこの修行法を会得したことにより、彼はことさら勉学を勤めることなく仏典に通暁するようになったと言われる。このとき以来、「読むことによって伝授される」(ルン)こと以上に経典を学ぶ必要がなくなった。「読むことによって伝授される」というとき、師が弟子にたいし、大きな声で読み上げて言葉の意味を具現化させ、教えを伝えるという祝福されるべき方法が含まれていたが、それは権威のある方法であった。師から弟子に口で教えを伝授するのは、チベット仏教においてもっとも重要とされていた。

 ミパムが17歳のとき、故郷のデルゲで地域紛争が勃発した。結果的にそれは動乱を鎮圧するためにダライラマ13世が軍隊を送り込むことにつながった。戦闘が行われているあいだ、ミパムは叔父とともに中央チベットのラサへ巡礼の旅に出た。そのとき彼は18歳か19歳だった。

 旅の途上、彼は一か月ほどラサ郊外のゲルク派の寺院に滞在した。滞在期間は短かったが、ここで過ごした時間は有意義なものだった。ここで彼はゲルク派の学問の伝統を間近に知ることができたのだ。それはチベットでもっとも評判が高く、寺院教育の規範となる伝統だった。彼はすぐにゲルク派による仏教哲学の解釈に通じるようになり、論議(チベット寺院でおこなわれるディベート)にも長けるようになった。

 なぜミパムの著作が多大な影響力をもつに至ったかといえば、17世紀以来、中央チベットにおいて、多数派のゲルク派が仏教哲学の解釈においても独占的な地位を得ている状況に風穴をあけたからである。ニンマ派の学者として書いた彼の著作は、寺院の教育においてゲルク派が確立した方法に敢然と挑んでいたのである。彼の著作はゲルク派の中心的な解釈と異なっていたが、彼はむしろゲルク派の意義深い特長部分を自分の作品に取り込もうとしていた。それについてはあとでまた吟味しよう。


(つづく)