ミケロの旅日記

7月17日 ミャンマー国境へ(巴坡村→馬庫村)

 

 巴坡村の森の中の家から歩き出して1時間もたたぬところで道が壊れていた。ブルドーザーが積もった土砂を崖下の独竜江岸に落としていた。連日の雨によって山の斜面が緩み、土砂崩れが起きたのだ。トラジ(トラクターを改造したトラック)なら馬庫村まで2時間で着くかもしれないが、何か所も道が壊れているのなら、断念して歩くしかない。

 
土砂によっていたるところが崩れていた。右は崖上の道から俯瞰した独竜江。

 巴坡村から南は行ったことがなかった。しだいにわかってくるのだが、独竜江は言語的にも文化的にも、南と北では大きく異なっていた。ことばの違いは想像以上に大きく、いくらか学習しなければ、相互のコミュニケーションはままならぬという。

Nさんの持説によれば、顔立ちも南北では違い、南の独竜族にはイケメン・美女が多いという。たしかに鼻立ちがすっと通っている顔が多かった。希望小学校の敷地に住む少女は日本のアイドル・グループにいてもおかしくないくらい可愛かった。森で柴刈りをして、枝のはいった籠を背負い、籠のバンドを額に当て、煤けた顔で戻ってきたときのさまは、アイドルが演技をしているようにしか見えなかった。

 
川辺に新しい教会ができていた。ただし洪水と崖崩れにやられてしまいそうな立地である。

 下流(南部)の独竜族は、大半がクリスチャンであるリス族の影響を強く受けているのか、クリスチャンが多い。下流の独竜族はリス語を話せる人が多い。この地域(ミャンマー・カチン州+独竜江地域)ではリス族がマジョリティーであり、周辺の民族に影響をおよぼしているのだ。いっぽう上流(北部)ではまだまだナムサ(シャーマン)を中心としたアニミズム的な宗教が根強く残っている。顔面刺青の習俗が残っているのは、独竜江の中流以上だけだった。かなり古くから、あるいはもとから、下流域およびミャンマーには顔面刺青の習俗がなかったようである。

 馬庫村までの道も車道だった。といっても道路修復作業用のトラックやトラクターが散見されるだけで、水たまりだらけの未舗装道を苦心しながら歩かなければならなかった。6時間かけてようやく家を見かけるようになった。ミャンマーではおなじみの壁などが竹で編まれた竹楼である。突然ミャンマーを肌で感じるようになった。

 
竹で編んだ家はミャンマーではおなじみだ。

 九十九折りの道を、歯を食いしばりながら上がっていくと、家が一軒も見えなくなった。道の周囲は鬱蒼とした森だった。家の中に入ったらそこは裏庭だったといった感じだ。

「あれ、馬庫村はどこへ行ったのだ?」とキツネに包まれた私。

「馬庫村を通り越しちゃったみたい」とNさん。

「でも村なんてなかったぞ」

「昔来たとき、たしかこのへんに……」

 枝分かれした道を進むと、突然広い敷地に出た。連なる木造の建物(売店や食堂など)を横目に見ながら進むと、バスケット・コートやピンポン台、水汲み場に何人かの人の姿があった。その奥には真新しい白い建物があった。それは村委員会の建物だった。村自体はあまりまとまったものではなく、ここだけが行政管理を感じさせた。

 
宿泊した村の委員会(共産党委員会)の建物。木造家屋の食堂で食べた夕飯。

 われわれはここの部屋に泊まり、木造家屋の食堂で夕飯を食べた。また村委員会で登記をした。かつて未開放地区に入っては捕まっていた身からすれば、かなりのドキドキ行為である。こんな国境近くの村にいてもとがめられずにすむのだろうか。

 日曜日になると、木造家屋のどこかに教会があるのか、賛美歌が聞こえてきた。宗教歌特有の単調な旋律。退屈なメロディではあるけれど、メロディアスになってしまってはいけないのだ。ことばはリス語だろうか、独竜語だろうか。Nさんによれば独竜語だという。百年以上にわたって多くの宣教師がやってきて活動をした成果というべきだろう。独竜族はかれら自身のことばで神をほめたたえることができるのだ。

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