ラワン族のこと、ピグミーのこと

 境界というのは不思議なものだ。こちら側とあちら側はさほど離れていないのに、境界線が引かれただけでまったく違うものになる。それは物質的な境界だけでなく、生死の境界のような精神的なものもあるだろう。しかしもちろんいま目前にあるのは国と国の境界線である。この線をまたいだだけでいろいろなものが異なるのだ。

 最初の食事(夕食)を取ったときに、驚かされた。ソーセージと野菜を炒めた簡単な食事がテーブル上に出された。テーブルを囲って坐った人々は、まず目をつむり、両手をあわせて胸の前に置き、お祈りを始めたのである。私とNさんはあわてて薄目をあけてほかの人のまねをした。

「天にまします父よ、あなたの慈しみに感謝して食事をいただきます。父と子と聖霊のみ名によってアーメン」とおそらくは唱えたのだろう。ラワン語(独竜語)なのでさっぱりわからなかったけれど。

 中国側にもキリスト教徒がたくさんいる。とくにおなじ民族でも独竜江下流域に住む独竜族にはプロテスタントのクリスチャンが少なからず存在する。しかし食事の前にこのようにきちんとお祈りをささげていただろうか。中国側では長い間、とくに文革の時代に宗教が弾圧されてきた経緯があり、身内以外には宗教活動を見せないようにする習慣が身についているように思われる。

 いっぽうカチン州ではほとんどがクリスチャンだった。ミャンマーといえば仏教(テラワーダ)国というイメージが強いが、カチン州のカチン族やリス族、またカレン族やナガ族など、少数民族の多くはキリスト教を信仰しているのだ。以前私はミッチーナ(カチン州南部の主要都市)でアメリカから来たバプティスト教会の宣教師と会って話したことがある。いまもなお布教活動は継続されているのだ。

 ミャンマー側には三日間滞在しただけだが、「キリスト教を信じる者に悪い者はいない」と考えるようになった。物欲主義が横行している中国からミャンマーのキリスト教地域に入ると、そんな印象を受けるのだ。

 この小屋のなかの雰囲気に私は次第に打ち解けていった。はじめは警戒していた隊長(警備隊長)も若くていいやつだということがわかってきた。彼はラワン族だった。ラワン族と独竜族はほぼおなじ民族だと考えてさしつかえないだろう。彼は現地出身でなく、ここから歩いて五日ほどの村に生まれたという。

 驚くべきことに彼は政府にも国軍にも所属していなかった。この建物自体は兵站と呼ばれていた。国境警備隊の駐屯地という意味だろう。しかしそれを管轄するのはミャンマー政府ではなく、ラワン族のアタン(自治組織といった意味合いだろうか)だというのである。政府が国境線を管理していない、あるいはできていないというのは信じられないことだった。

 ここはカチン州である。カチン族の軍隊は長い間ミャンマー政府と戦い、しばらくの休戦のあと、2011年に入ってから再び戦火を交えるようになっていた。カチン州の南のほうで戦っているのだから、北辺のこのあたりに政府の目が行き届かないのは当然といえば当然だろう。

 われわれは結局この青い建物に二泊することになった。蚊取り線香を焚き、殺虫剤を噴霧しても、隙間からつぎつぎとやぶ蚊があらわれ、耳元でプーンとうなり声をあげた。夜が深まると周囲の闇の力がより大きくなった。静けさのなかで、独竜江の重々しい流れの音が響いてきた。板を組み合わせただけの簡易ベッドに、パジャマ代わりのロンジーをはいて横になった。このロンジーは係官から借りたものだった。以前ミャンマーに来たとき、よくロンジーをはいていたつもりだった。しかし翌朝厨房の小屋にロンジーをはいたまま入ると、腰のあたりで結んだ結び目を注意された。これでは女性かおかまの結び方になってしまうのだ。臍の下でしっかり結ぶのが正しい。

 

 ラワン族について説明したい。ラワン族はミャンマー北部のカチン州のその北辺に分布するチベット・ビルマ語族である。中心都市はプータオであり、その北方のチベット自治区との境界線上には聖なるカカボラシ山がそびえる。プータオを流れるマリカ(Mali Hka)と独竜江の下流ンマイカ(Nmai Kha)がミッチーナの北方で合流し、エーヤワディー川となり、マンダレーを通ってヤンゴンのあたりでアラブ海にそそぐ。

 ンマイカ川流域のラワン族と孔当村(独竜江村)以南の独竜族は50%以上の共通の語彙をもつほど近接している。両者ともクリスチャンであり、婚姻関係もさかんに結ばれているという。

 ラワン族の多様なグループのなかで特筆すべきはタロン族だ。なぜなら彼らはモンゴロイドで唯一のピグミーといわれているからだ。ほんとうにピグミーなのだろうか。ピグミーといえばアフリカ・ピグミー(コンゴ民主共和国のムブティなど)やアジアののネグリト・ピグミー(フィリピンやマレー半島など)が代表的だが、タロン族はそれとならぶピグミーなのだろうか。

 1954年、ミャンマー軍のソー・ミン大佐がこの地域に入り、アドゥン・ワン谷に暮らす58人(男26人、女32人)のタロン族と会い、体格について調査した。そうして男女とも140cm前後の身長しかないことがあきらかになった。

 彼らはもともと中国のタロン川上流に住んでいた。しかし19世紀にチベット人が侵攻してきたため、アドゥン・ワン谷に移住したという。

 このタロン川というのはあきらかに独竜江(ドゥーロン)のことだ。するとピグミーのタロン族というのは、独竜江上流域の独竜族ということになる。そういえば独竜江上流域に住んでいたシャーマンのクレンはたいへん小柄な女性で、身長は140cmくらいしかなかった。しかしほかの人はどうだっただろうか。クレンがとくに小柄だと感じたということは、ほかの人々はそんなにも小さくなかったということではなかろうか。

 しかし1962年にアドゥン・ワン谷へ行ったミャンマー薬学社会調査隊によれば、やはりタロン族の男女とも身長135cmほどしかなく、ピグミーであると断じている。おそらく独竜江上流域の独竜族は元来ピグミーであったが、周囲の民族とまじりあい、特徴が消えてしまったのだろう。

 ここから敷衍するに、アドゥン・ワン谷のタロン族にも顔面刺青の風習があったのではなかろうか。刺青についての記録はいっさい残っていない。また古老から昔のことを聞こうにも、やはり純粋なタロン族はほとんど絶滅に瀕しているのだった。