ミケロの旅日記
7月21日 独竜江にやってきたフランスの王子様(3)

吊り橋の残骸。かつては危険きわまりない橋だった。

 重丁(Tchonton)村、現在の丙中洛に滞在したのは9月23日だった。ここには大きな天主堂があるが、探検隊がそれについて触れていないということは、まだ建立されていなかったのだろう。

 探検隊は9月29日から10月3日までの五日間、タマロ(Tamalo)に滞在する。タマロは現在の貢山県城の北側を流れるプラ川の北岸であり、おそらく石菩薩と呼ばれる岩のあるあたりである。タス(Tasou)という村は貢山県城の隣りであり、もともと交易の中心地だった。

 探検隊は9月4日にタマロを出て、9日に独竜江に着いた。私が96年に取ったルートとほぼおなじではないかと思われるが、倍も時間がかかっているのは、山道とはいえ、当時はまだ十分に整備されていなかったのだろう。

 探検隊にとって独竜族の後進ぶりには驚きだった。エミール・ルーはつぎのように描写している。

1996年の独竜江はドルレアンの時代の雰囲気を残していた。

 (独竜族の)女たちは髪を結うことはなく、切ることもなかったので、前髪は目を隠すほど垂れていた。彼らは怒族以上におびただしい色とりどりの石のネックレスや柳製の装飾品を身に着けていた。その醜さといったらひどいもので、口のまわりや鼻の上に描いた刺青がそれを助長していた。その不潔さに関しては何と言ったらいいだろうか。生まれたときから死ぬときまでキウ族(独竜族)は体を洗うことがなかった。雨が降ったり川に入るときはたやすく身づくろいすることができたはずである。しかしそうしなかったためか、彼らの肌は黒ずんで元の色がわからなかった。黒光りする垢が分厚くたまっていたのである。そんな田舎者でも異性の気を惹こうというのか、男女とも銀がないので鉄のイアリングを耳に下げ、耳たぶの形をゆがませていた。際立った装飾品としては、膝の裏やときには腰のまわりを囲う黒いワックスがつけられた鉄の輪があった。その輪は金属のバンドで連結されていた。

 貧困にあえいでいるにもかかわらず、彼らは葉枝(Yetche)のムクァ(土司)や維西あたりのモソの領主に租税を納めなければならなかった。取り立ては厳しく、森に逃げ込む人々や何か月ものあいだ木の上や洞穴のなかですごす人々が続出した。サルウィン川地区の人々が話していたように、こうして独竜族の一部の人々はいまだに木の上で暮らしているというありえない伝説が生まれたのだ。

 エミール・ルーが独竜族を野蛮な部族として描こうとするのは、探検隊がより奥地へ踏み込んだということを強調したかったからだろう。その最たるものは、独竜族が虫を食べる場面だ。探検隊が丘の麓の水没しかけた土地にキャンプを張ったときのこと、森から雨に追われた大量の虫が岩の下にもぐりこもうとするが、上昇した水にはばまれた。それらは水に浮かんでテントに押し寄せてきたが、いやなにおいを発した。その虫を見て独竜族は喜び、とびついておなかいっぱいになるまでパクパクと食べたという。探検隊だけでなく、チベット族のポーターたちもそれを見て気分を悪くした。この虫が何なのか、具体的な描写がないのでよくわからないが、虫を生で食べていたのはまちがいない。南洋の人々が芋虫やトンボを食べるのはテレビで見たことがある。野菜や穀物のなかった当時の独竜江では虫も貴重なタンパク源だったのだろう。食文化を外から眺めて野蛮だと批判することはできない。生の魚を食べる日本の食文化もその伝でいけば野蛮ということになってしまうだろう。

 ドルレアンの探検隊はあまり国境を意識することなく、現在のミャンマー・カチン州の領域に入る。10月29日には蛭の多い地域を通過するが、それは私が蛭に苦しんだ国境の中国側ではなく、ミャンマー側のようだ。翌日には現ミャンマーのドゥブラ村に達しているからだ。

 彼らは1119日にカムティ、すなわちラワン族の地域の中心地プータオに達する。そこに六日間滞在したあとふたたび出発し、12月8日にブラマプトラ川とイラワジ(エーヤワディー)川との分岐点に着く。そして12月17日、アッサムのシンポー族の村ダパガンに到着した。

 あらためて探検隊のルートを確認すると、独竜江の下流域を通過したにすぎず、中流上流域については情報を収集しただけだ。私がはじめて行った1996年でさえ独竜江沿いのルートは困難をきわめたのだから、当時は入るとすればもっとたいへんだっただろう。それでも、いろいろなことがわかる。たとえば探検隊が顔面刺青の女性を見ていることから、当時は下流域にも刺青女性が多くいたことを示している。

 意図していたかどうかはともかく、探検隊の探検はキリスト教の先遣隊の役割をもっていた。独竜江村(巴坡村)に(プロテスタントだが)教会ができたのはこの探検よりとのことだった。サルウィン川地域では、リス族を中心とする多くの人々がプロテスタントに改宗した。ミャンマーのカチン州となると、リス族、カチン族、ラワン族(独竜族)ら住人のほとんどがクリスチャンとなるのである。

 しかし顔面刺青が残った独竜江中流下流域にはキリスト教は浸透せず、ナムサ(シャーマン)が精神面での支えとなってきた。共産主義の入ったこの半世紀でさえ、アニミズム的な宗教は消えることがなかった。とはいえ道路が開通し、安っぽいおなじ色の屋根の住宅が建設されるようになり、独竜族文化はあらたな危機に直面しようとしている。