ミケロの旅日記
7月22日 牛を殺す
バーバラ・エーレンライクの『血の儀礼』を読んで、彼女が提示した斬新な考え方に衝撃を受けたことがある。それは犠牲(いけにえ)の真の意味だ。バーバラは言う。
「人間の代役として動物を生贄にすることによって、あるいは人間自身の生贄によって、われわれが力を持った捕食者であることを祝福してきたように思える。しかし実際は、はるかに長い先史時代、人間がむしろ捕食される獲物であったことを示し、再演しているのだ」
そしてウォルター・バーケットの一文を引用する。
「集団のひとり、それはよそ者であったり、不具者であったり、年若い者であったりするのだが、腹をすかした猛獣の餌食になる。ひとりの犠牲によって、集団のほかの者は当面の間安全をかこつことができる」
つまりわれわれは昔、サバンナのガゼルのように、つねにライオンのような猛獣の餌食だったのだ。種を、あるいは群れを維持するには、文字通りだれかに犠牲になってもらい、そうすることによってほとんどの者は生き延びることができた。生贄とはそういった古代の苦々しい記憶を反映しているのだ。
神=猛獣、である。我が国においても、オオカミ(大いなる神)や熊(カミの訛り)といったことばに痕跡が見られる。こうして考えると、本来は生贄にするのは動物ではなく、人間自身である。人柱は太古の野蛮な人々の野蛮な行為ではなく、儀礼の本来的なかたちなのだ。
しかし私は、生贄にはもうひとつ重要な意味があると考える。それは生命の不思議さを目撃し、感じ取るとことである。われわれは動物の死の瞬間を見ることになる。魂が抜けた瞬間、眼は生気を失う。その瞬間の前と後とでは何が違うのだろうか。われわれはそれを目にしながら、理解できず、しかし生命に対する尊厳の気持ちを抱くようになる。
私はさまざまな犠牲の儀礼(供犠)を見てきた。動物の種類の多さで並べるなら、ニワトリ、羊・ヤギ、豚、そして牛の順だろう。どれがもっとも重要かとはいえないが、牛は生贄の動物とみなされることが多かった。クレタ島の古代壁画にはすでに牛の犠牲の様子が描かれていた。犠牲という漢語がそれぞれ牛偏であることからも、古代中国では牛の生贄が広く行われていたかもしれない。もっとも、古代中国では人身御供の風習があったらしいが。
1993年に四川省北部の平武で白馬族が牛を殺しているのを見たのが、はじめての犠牲だった。このときに殺されようとしている牛の眼が恐怖におびえ、そのあと急に生気が抜け、トロンとしたゼリー状の物質に変わるさまを見た。こうした死の瞬間の変化は牛にこそはっきりと見られるものなのである。
おそらくつぎに見た牛の犠牲が独竜族の祭天だろう。このあとにはナシ族の葬送儀礼における殺牛、インドネシア・トラジャ地方のやはり葬送儀礼の牛の犠牲とつづく。トラジャでは10頭ほどの牛が殺されたので、合計すれば相当の数の生贄とされた牛を見てきたことになる。(雲南でワ族の殺牛を見たことを今思い出した)
以前にも書いたように、96年に見た独竜族の祭天における殺牛は少々残酷なものだった。槍を持った男の人が牛のからだをチクリチクリと刺していく。恐怖におびえた牛は中央の柱につながれているので逃げることができず、くるくると回りながら、次第に弱っていく。最後は「勝手にしてくれ」と言わんばかりにしゃがみこみ、処刑を受け入れる。男の人はしっぽを切ってふりまわしながら柱のまわりを回り、そして頭部を切り落として背負い籠にいれ、もう何周か回る。
牛が死ぬ瞬間、やはり生気が抜け、トロンとした眼になった。その瞬間は、牛はもっとも聖なるものだった。天神は聖なる供え物を喜んで受け入れただろう。生命はもっとも高価な贈り物である。
一方魂の抜けた屍はしだいに物体となっていく。祭りが終わると屍は解体され、おなじポーションに分けられて参加者に分配される。彼らにとってそれは肉にすぎなかった。祭りの終盤になると、人々の表情が緩んできたように見えたのは、久しぶりにステーキが食べられると考えたからかもしれない。
私はといえば、そもそもその牛(独竜牛)が自分で購入したものだっただけに、罪悪感のようなものを抱いていた。しかも天然記念物に指定すべき珍しい種類の牛だった。(そういうものに指定されているかどうかは確認していない)今回独竜江地域を再訪して気づいたのは、独竜牛牧場があちこちにできていることだった。数をコントロールすることができるなら、絶滅する可能性はほぼなくなったといえるだろう。