ミケロの旅日記
7月25日 秘境からトタン屋根の村へ
昔はこういう質素な家が多かった(1996年)。
孔当(独竜江郷)で一日休んだあと、というより郷長のお宅で飲みすぎて二日酔いの状態で、われわれは前日に予約したトラックの助手席に乗り、再訪したくてたまらなかった竜元村をめざした。トラジではなく、運搬用のトラックである。トラジよりもはるかにマシだけれど、激流が流れ込んだ道を走ったり、崖崩れの積もった土砂を乗り越えたり、スリリングなオフロード走行を味わわねばならなかった。
15年前は山道をひたすら歩きつづけた。孔当から歩いて二時間ほどの献九当村では興味津々といったふうの子供たちに取り囲まれ、何人かの紋面女(刺青ばあさん)とも会うことができたので、印象深い土地だった。しかしトラックではあっという間に通り過ぎてしまい、献九当村を確認することができなかった。数日後、帰りがけには30分ほど村の中央部にトラックが停車したので、車内から外を観察することができた。
もともとの村のとなりの敷地に仮設住宅のような簡易な住宅が建てられていた。工事は完成していないので、住人の姿はなかった。この住宅の屋根の多くが青いトタン屋根であることが気になった。ほかの村も青いトタン屋根が多かった。これがヨーロッパの山中の村なら、青や赤で統一された屋根はおしゃれで美しいだろう。しかし中国の僻地で安っぽいトタン屋根に統一しても、景観を損ねるだけである。とはいえ中国政府からお金が出てタダで住めるのだとすると、貧困にあえいでいた現地の人にはありがたいはずで、外部の者がとやかく言う筋合いではないだろう。
トラックは竜元より手前の東給という集落で荷下ろしをはじめたため、そこから歩いていくことにした。2時間弱の距離である。道から独竜江を見下ろすと、石ころだらけの川辺があった。15年前は道が水没していたため、歩きづらい石の河原を進んだことを思い出した。ときには石から石へジャンプしたり、苔むして滑りやすい岩の上をよろけながら歩いたりした。そのときと比べるとなんと楽なことだろう。道端に咲き乱れる野花や乱舞する蝶を見ながら、ピクニック気分で歩けばいいのだから。
ゆるやかな坂を上りつめると、そこにはデジャブの風景があった。15年前にたしかに見たのだけれど、その後それがどこの風景かわからなくなっていたのだ。それは最初に見る竜元だった。S字型にくねる独竜江越しに竜元の村が眺められるのである。当時、かなりの雨が降っていたので、霧に隠れて村はよく見えなかった。今回、雨は降っていなかったので、屋根が青いトタンに覆われていること、森が開かれて居住区になっているのがよくわかった。神秘性のかけらもなくなっていた。そこに行ったら何があるのだろうかというドキドキ感はなかった。いや、どんなに変わろうとも、紋面女(刺青ばあさん)やナムサ(高次のシャーマン)、シュンマ(低次のシャーマン)、それに伝統的な小屋式墓や霊魂キャッチャー(とでも呼ぶべき装置)は残っているのではないだろうか。感慨にふけっている暇はなく、私は竜元村へ向かって歩を進めた。