(3)1996年の紋面女
当時は数年ごとに戻ってくるつもりでいたので、刺青ばあさんとは何度も、何人とも会えるだろうと考えていた。今から考えるとできるだけ多くのおばあさんを記録するべきだったのだ。ある香港人は、数は忘れたけれど、たしか百人以上の刺青女性の写真を撮ったということをあとで聞いた。私が撮ったのは合計で12人ほど。物足りないが、ふたりのシャーマン(ナムサ)が含まれるのでよしとしよう。
竜元村では「バラマキ作戦」が功を奏した。すなわち写真を撮らせてくれたら5元プレゼントすると広めたら、つぎつぎと刺青ばあさんが現れたのである。しかしさすがに魂を金で買うような行いはよくないと考え、3人ほど撮ったところで以後は断りを入れることにしたのだ。それ以降は偶然道端で会ったり、噂を聞いて尋ねたりして、できるだけヤラセの要素を排除するようにした。今から考えるともったいないのだが。
何人かと会うと、不思議なことに感覚が麻痺して刺青があまり気にならなくなった。いまでこそ刺青を入れているのはおばあさんと相場が決まっているが、昔は老若を問わず入れていたのだから、だれも気にかけなかっただろう。ただし一歩コミュニティーから出たら人々の視線を浴びて恥ずかしい思いをしなければならなかったはずだ。もっとも当時は山をいくつも越えて町に出る機会はなかったはずだ。
独竜族の神話伝説集を読むと、雪山の峠の魔女の話が出てくる。山向こうの親戚を訪ねようとさしかかった峠に住む人のよさそうなおばあさんが実は人食い鬼で、誘われて泊まったが最後、骨までしゃぶられるという話だ。こういう伝説故事は、刺青女性にかぎらないが、外の世界へ行こうという気持ちを抑える効果があっただろう。
そもそもどうして独竜族の女性は刺青を入れていたのだろうか。有力な説としてしばしば紹介されるのが、他地域の権力者にさらわれないために醜くするという考え方だ。つまりツァワロンのチベット人土司やリス族奴隷商人にさらわれて奴隷とされるのを未然に防ごうとしたのである。ツァワロンのチベット人土司は独竜江地域を治めていたことがあるので、そのときにさらう可能性があるのはリス族だった。
ツァワロン土司時代、活仏に占いをさせたところ、「顔に刺青を入れよ」という結果が出たという。活仏とはもちろんチベット仏教の転生ラマのことだが、活仏の占いには信憑性があり、聖なるものであると考えられていた。
しかし刺青を入れると本当に醜くなり、他地域の王や豪族が奴隷や妾にしようという気にならなくなるだろうか。私は昔の古い刺青女性の写真を見て、率直に「きれいだなあ」と思ったことがある。たしかに本人からすれば外出するのは恥ずかしいかもしれないけれど、醜くなるとはいえないのである。地元では顔面刺青をすれば「美しいうえ老けて見えない」と言われているという。さらに刺青は古代の越人や倭人、現代のタイ人や台湾人が考えるように魔物を防ぐ、すなわち無病息災をもたらすものであったにちがいない。
私は顔面刺青には成人イニシエーションの役目もあったのではないかと考えている。 9人の紋面女(最年少39歳はおばあさんとは呼べないだろう)から刺青を入れた年齢を聞いてみた。
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A |
B |
C |
D |
E |
F |
G |
H |
I |
現年齢 |
39 |
60 |
75 |
80 |
80 |
60 |
70 |
58 |
? |
刺青時 |
14 |
20 |
17 |
14 |
16 |
13 |
20 |
20 |
13 |
中国の資料には11、12歳の頃に刺青を入れると書かれているが、もうすこしばらつきがあり、20歳で入れた人も9人中3人を数える。厳密に刺青を入れる時期が決まっているわけではないが、この儀礼(刺青彫り)を通過することによっておとなになるのだといえる。ミャンマーのチン族の刺青の場合、20歳残後、あるいはそれ以降に入れることが多く、成人儀礼的な要素は持っていないのと対照的だ。またある中国の資料には、文面(紋面)の習慣があったのは解放までとしているが、70年代半ばまで普通に紋面が行われていた。しかし文革の時期に急速に衰退していったのだ。もっとも、刺青の習慣がすたれたのは文革のせいばかりではなく、時代の潮流だといえるだろう。アジアの顔面刺青の風習はどれも衰退し、生き残っているのはまさに独竜族やチン族などわずかなのである。
刺青を掘るのはほとんど女性だった。数個の村あたりにひとりしかいない特殊技能者だった。しかしプロではないので、期(パン)や酒など物の謝礼しか受け取らなかった。
女性は青草汁と鍋墨を混ぜたものに3、4本束ねた灌木の棘を浸し、仰向けになった少女の顔面に刻んでいった。数日後、青黒い花紋が浮かび上がってきた。デザインは2、3種類あるというが、私には違いがわからなかった。
紋面はいつごろからはじまったのだろうか。中国の歴史書には紋面濮や綉面部落といった名称が記され、その古さを思わせる。一方で三百年前にヌー族(怒族)から教わったという伝承がある。当時ヌー族の女性はみな顔に刺青を入れていたという。前述のようにツァワロン土司は紋面を奨励した。ミャンマー側の独竜族(ラワン族)に紋面が見られないのは、土司の領域外だったからである。ただし独竜族と一言でいってしまっているが、独竜江の上流域と下流域とでは文化も言葉も異なっていることには留意したい。
清朝末期、巡視官として独龍江を訪れた麗江知府秘書長の夏瑚は「顔に刺青を入れた者はその皮をはぎ、彫った者はその腕を落とす」というお触れを出し、厳しく禁じようとした。民国成立後の国民党政府もまた厳しい罰則を定めた。しかしツァワロン土司は「紋面をしなければ漢人にさらわれる」として紋面を継続させたのである。紋面は羊の烙印のような役目をもっていたのだ。