(4)辛い再会
旅社の前の道のど真ん中に井戸があり、自然と人々が集まってきていた。彼らは汲み上げた水を盥にため、衣類を洗っていた。そのうちのひとりの帽子をかぶった女性が紋面女であることに気づいた。旅社の戸口で椅子に座ってその光景をぼんやり眺めていた私はビデオカメラを取り出し、膝にのせたままさりげなく撮影した。正式に撮影を申し込むと、かしこまってしまうので、ありのままの様子を見ようと思ったのだ。顔に刺青を入れた女性は大きな困難とともに生きてきたことだろう。独竜江地区は昔のような隔絶された地域ではなくなっているのに、いまも山を越えて貢山より先の町へ行くのは気が重いにちがいない。
もっとも若い紋面女が39歳のとき(1996年)そのことについて尋ねたことがある。彼女は気丈にふるまっているけど、つねに人の視線が気になっていると語っていた。彼女は漢族と結婚していたので早くから貢山に住み、その後昆明や北京で独竜族の広告塔のような役割を果たしてきた。しかし彼女は特別で、ほとんどの紋面女は村から出ることなく一生を過ごすのだった。
竜元村では三人の紋面女と会った。しかし三人目のおばあさんと会ったとき、私は大きな失策をしでかしてしまった。ふたりの紋面女のインタビューを終えたあと、われわれは三人目を探すべく、村のはずれへと向かった。背丈よりも高いトウモロコシの畑を抜け、比較的あたらしい木造の家の敷地に入った。このあたりでは珍しくないが校倉作りのような独特の家屋である。ここにはだれもいなかった。それでわれわれは道の反対側の斜面を上って行った。木立に囲まれた小ぶりの家があった。隣りの家の女性が中にいるおばあさんを呼びに入ってくれた。
寝たきりというわけではないだろうが、おばあさんは歩くことができず、這うようにして表(ベランダのような壁のない板敷の間)に出てきた。見た瞬間、15年前に会ったおばあさんであることがわかった。竜元村に着く寸前、道で出会ったときのことがありありとよみがえってきた。そのとき70歳で、いまは85歳である。当時会ったおばあさんはほとんどが高齢で、しかも平均寿命はそれほど長くないので、おなじおばあさんと再会できるとはあまり考えていなかった。私からすれば15年たっているのに、おばあさんはまだまだ若く見え、ほとんど変わっていないようでうれしかった。その気持ちをなんとか伝えたいと思った。
しかし、だ。ばかなことをしてしまった。おばあさんが見たがっていたので、ビデオカメラのモニター画面を見せてしまったのだ。画面にはおばあさんの現在の姿が映し出されていただろう。子供にたいしてこれをやると喜んでもらえるのでかまわないが、おばあさんにやるべきことではなかった。おばあさんが普段は鏡を見ることがなかったとしたら、私の仕打ちは残酷すぎただろう。
この家からの帰り、真垣の外を歩いていると、Nさんが小声で言った。
「聞こえる? あれは嗚咽だわ」
たしかに嗚咽とも聞こえるような音がした。たぶん嗚咽だろう。おばあさんが泣いているのだ。もし泣いているのだとしたら、原因はモニター画面を見せてしまったことだろう。なんということをしてしまったのだろうか。刺青ばあさんにたいして大きな親近感を抱いているというのに、逆に苦しみを与えてしまったのだ。一瞬戻って謝ろうかと思い立ち止ったが、火に油をそそぐだけだと思い直して歩き出した。すこしだけ速足になって帰路を急いだ。まるで自分の犯した罪から一刻も早く逃れようとするかのように。
(つづく。この項は未完です)