(3)偉大なるクレン

独竜江上流の寒村、熊当村。

 1996年当時、迪政当(ディツェンタン)と熊当(ションダン)との間には見えないバリアがあるような気がした。迪政当も十分すぎるくらい貧しい村ではあったが、そこから先は物質文明の恩恵をまったく受けていないように思えたのだ。伸び放題の草の中に散在する家々はどれも小さく、煤けた感じだった。クレンの家に着くとだれもいなかったので、案内人に頼んで農作業に出ている彼女を探してもらった。

 クレンの名は聞いたことがあり、資料の中にも彼女について記された記事があった。大ナムサと呼ばれうる偉大なシャーマンである。それだけにはじめて彼女を見たとき、想像以上に小柄だったので、拍子抜けした。クレン自身が戸の錠をあけ、家の中に入った。籠や若干の台所回りのもの以外何もない質素な部屋だった。あまりにも質素すぎて、涙が出てきそうだった。

 物質世界はまったく興味がないのだろう。そのぶん精神世界は色彩あざやかで、活気があるのだろう。

 まず清めの儀礼を見せてもらうことにした。部屋の南西の梁の上に太鼓があり、その下で鈴を鳴らした。神や精霊を呼び、トランス状態に入るのに鈴の音は効果的だと思う。数年後にネパール・ヒマラヤで「トランス体験」をしたときも、シャーマンが鈴の音を鳴らすことから入り、それから太鼓を鳴らしてトランスに誘ったのである。熊当村では太鼓を鳴らすにはいたらなかったが、本来は太鼓に移っていたはずだ。

 太鼓は古いもののように思われた。クレンは山の向こうのツァワロン(チベット自治区)でボン教徒からもらったのだという。ツァワロンにはチベット寺院があり、かつてそのチベット人僧侶が独竜江地区を支配していた。ボン教徒というのは本当に現在のボン教徒(ユンドゥン・ボン)なのだろうか。もしかするとナムサのような民間宗教の祭司が近年まで残っていたのかもしれない。

 われわれは軒先でクレンに話を聞いた。

 クレンの夫はウー(低級シャーマン)で、ふたりの間には10人の子が生まれたが、そのうち6人は生後まもなく死んだ。ナムサやウーは職業とは言い難く、わずかばかりの畑を耕し、山の樹脂を採って生業としていた。

 幼い頃からとても美しいナム(精霊)を見ることがあったという。ナムを見るとかならず病気になった。横になっていると、枕元にたくさんの帽子を被った小人が現れたという。数年後の1978年のある夜、6人(男3女3)のナムがやってきた。月に一度の割合でナムたちは姿を現した。しかしクレンはそのことを誰にも話さなかった。

 その二年後、村の幹部の妻が病気になった。治療のために呼ばれたのは大ナムサであるムーランタンムーティンだった。クレンも病気がちであったため、しばしば彼の治療を受けた。彼はクレンがナムを持っていることに気づいていた。

「おまえにナムがいることはわかっているよ。この村には精霊が多いのだ。みなのためにもナムサになりなさい。もしならなければおまえは死ぬことになるだろう。あるいは家族から死者が出ることになるだろう」

 この大ナムサに脅されているかのようだが、実際熊当村には悪い精霊が多いのに、ナムサの数が足りなかったのである。クレンがナムサになるのは宿命であり、それに抗うのは無益なことだった。

 

 当時クレンを守護したナムは6人だった。

ワンミ・ティソン(男)ムシュン・チュムとともに最重要のナム。この二人のナムは、精霊が持ち去った病人のプラ(魂)を取り戻す。痢疾(下痢を伴う伝染病)の治癒を得意とする。ワンミ・ティソンはいつも青色の衣裳を着る。顔は猿のように長いが、小鳥に化けて、家のなかを飛び回る。

ムシュン・チュム(女)漢族の娘のように長いお下げを頭の上にまとめ、白の服を着る。ときには青のスカートをはく。首飾りやイヤリング、ブレスレットは着けない。鉄の鏃を携帯し、痢疾病鬼を殺す。この鬼は豚のような姿をしていて、身体をふるわすと、豚や羊の毛として飛んでいき、人の身体のなかにはいって痢疾を引き起こす。

そのほか、

ペンセルナム(男)

タンカンチェンロン(男)

ロンセルワパマ(女)

ツァイジチュム(女)

の計6人だった。

 しかしわれわれに語ったとき、ナムは8人に増えていた。名前が大きく異なっているが、なぜそうなるのかはわからない。8人のナムの名はつぎのようになっている。

セニチャラナ

ニチャラペンセ

ナンドシュンマ

シャムンモミム

ナニマプータ

ナンカイマパ

レンランミム

ソンヤーカレン

これらの性別、役割(対する病名)は不明。

クレンによれば、ナムは天界のナムムリ(あるいはナムルカ)という世界に住んでいるという。彼女はじぶんのプラ(魂)を飛翔させ、木梯子をのぼってナムムリに行くことができる。そこはとても清潔で、美しく、いたるところに花が咲き乱れ、香気に満ちている。ナムたちは、透きとおるような玻璃窓が嵌まった七、八階建ての邸に住んでいる。レムラという男女のナムの頭目もそこにいて、ナムをつくり出している。ナムたちは、下界の人間が供えた食べ物や酒、供犠の家畜などによって生活している。彼らは勉強をし、文も書く。ナムの学校があり、そこで人間の病気や治療法などについても学ぶのだ。

ナム(精霊)とプラン(鬼)は対の存在といえる。ナムを管理するのはナム・ポエンであり、プランを管理するのはプラン・ポエンである。人間界と同様、さまざまな問題が発生するので、彼らはけっこう忙しいのだ。ナム・ポエンは人間に祟るナムをきびしく取り締まる。違反したナムにたいしては、アツァラという竹矢で串刺しにし、動けないようにする。しかしナムによってはものともせず、祟るのをやめないのもいるという。

ナムは鎖のようなものを使って、天と地の間を行き来するが、人間のプラ(魂)は木梯子を上り下りするという。人間の生死を司るのは、天神グムである。生まれることが天神グムによって決定されると、そのプラはまず天上界に生まれる。それから木梯子を下って、地上に生まれるのだ。死ぬことが決定され、プラが「ヘルム界」に送られると、もう助かる道はない。「ガルワ界」だと、まだ望みがある。ナムサが、死にかけたプラを救出できるかもしれないのだ。

クレンのナムは、氏族(チャンロン氏族)内で継承されてきたものだという。このナムはもともと、昔、ひとに追われて川に飛び込んで死んだナムサの化したものだった。その後スエンリジョン(丘の上)家族のナムと、ガンロン(江湾)家族のナムに分れたらしい。ナムは一世代、二世代を隔てることはあるが、氏族外に伝わることはない。

独竜族のナムサはそれぞれ(おそらく氏族によって)独自の「天」を持っていた。われわれはバーチャルな世界と呼びたくなるが、彼らにとっては貧しいモノトーンの現実世界よりもはるかにリアリティーをもった世界なのだった。

<天の九層>

第一層「ナムニェンゲゾ」 最上層。プラン(鬼)の親玉であるムペポンが住む。

第二層「ムーダイ」ナム、人、動物の頭目である天神グムが住む。
     グムは人や動物の生死を司るほか、男女の配合や生育、家庭生活までも決定する。
     いわば運命神。

第三層「ナムルカ」ナムの山。ナムの頭目たちが往来する。

第四層「ムダー」一般のナムが住む。

第五層「ガルワ」鍛冶匠のアシ(霊魂)が住む。チベット語(mgar ba)

第六層「ダーランブラ」グムに捧げられた畜生のプラが棲む。

第七層「チャリソン」ナムが天地の間を往来するとき通る中継地点。

第八層「ヘルム」人家の屋根から上。

第九層「タムカ」人家の囲炉裏の上。 

 以上はクレンの語る天だが、大ナムサ、コンチェントゥリの天十層と大同小異である。大ナムサ、ムーランタムティンは天を三層と捉える。クレンらが最上層を鬼の親玉の棲みかとするのにたいし、ムーランタムティンは、グムの住む「グムムリ」とする。注目されるのは、いずれも天の最下層を家のなかの囲炉裏の上方としている点だ。つまり、ごく身近なところに天の一部があるということなのだ。手のとどくところにある天。そこはもっと上の天につながる、天の入り口なのである。ひとびとは酒を飲み、肉を食べるとき、囲炉裏の鼎(三つの石、三本の鉄脚)に酒や肉の一部を振り撒く。それは漠然と天に捧げるのでなく、天の最下層部に捧げているのだ。