ミケロの旅日記 
7月29日 もうひとつの蝶の王国

傷ついた蝶。頭部はメカニカルで、蝿か仮面ライダーみたい。

 独竜族やビルマ人が蝶を死後の魂とみなしたのは、納得できることだ。蝶には妙に現実感がないのだ。平行世界(彼岸と言ってもいい)とこちらの世界とのあわい境界上を舞っているように見えてならない。

 迪政当(ディツェンタン)と竜元の間の道は、ミャンマー国境の森についで蝶の王国と呼びたくなるようなたくさんの種類の蝶が舞う地帯だった。私は行く手に現れたモンシロチョウのあとをずっと追った。道端の黄色い花から青い花へ、青い花から白い花へとひらひらと飛んでいき、花弁に止まって一心に蜜を吸う。それからまた柔らかい空気に乗ってひらりひらりと舞う。と、突然すっと消える。数秒ののち、少し遠くの独竜江のせせらぎの上をモンシロチョウは舞っていた。瞬間移動したのだろうか。現実なのか、幻影なのか。こんなときに蝶は人の魂かもしれないと思ってしまうのだ。

国境の森で見た蝶と同種。紋様の複雑な美しさに恐れ入る。

 蝶のミステリーに頭を悩ませたのが、遊びや夢の研究で知られるフランスの思想家ロジェ・カイヨワだった。(『メドゥーサと仲間たち』)

 生物学からも、蝶の色調や紋様の説明がうまくできなかった。色調はまだなんとか説明できそうだとカイヨワは考えた。

「華美な色彩は、残像色としての作用をはたす」と彼はやや苦しい理論づけを試みた。派手な色彩をバタバタさせたら、その残像に捕食者は気分を悪くし、襲うのをやめてしまうかもしれない。だがこれはこじつけにすぎないだろう。

 
瑠璃色の小型蝶(左)は翅を閉じると薄茶色だ(右写真の左上)。木の葉蝶(? 右)は翅を閉じて美しさを隠す。

紋様となるとお手上げだった。紋様があることによって種の存続の危機を乗り越えることができた、とはとうてい言えそうにない。そこでカイヨワは、これは一種の絵画、すなわち芸術だと主張する。蝶の紋様が美しいのは、それによって何かをするのではなく、美しさ自体を求めていると言いたいのだ。

 思うに、蝶の美しさは生命賛歌ではないだろうか。人間にたとえるなら、美しく着飾ったり、化粧したり、ときには整形したりしてきれいになり、生きる気力を増した女性を思い浮かべてほしい。蝶だって、美しくあることで、あふれる生命エネルギーを満喫することになる。紋様は生命そのもののようにミステリアスで、はかなく、美しい。

 蝶が人の魂であるなら(もちろんそう信じることはできないし、現地の人も本気にはしていないかもしれない)それはいっそういとおしく、はかない存在に思えてくるものだ。