『王統明鏡』の猴祖神話

宮本神酒男 編訳

 

 観音は神変の猿(spre’u)に具足戒を与え、雪の国チベットで修行するように命じた。猿は命令を守り、黒洞(brag rog po)で修行した。猿は慈悲と菩提心について学び、深遠なる空性の法を信解(しんげ)した。

あるとき縁のある岩魔女(brag srin mo)がやってきて、媚びるようなしぐさをして猿を誘惑しようとした。ついで岩魔女は着飾った女に化身し、猿に近寄って言った。

「お猿さん、わたしたち、夫婦の契りを結びましょうよ」

 猿はこたえる。

「わたしは観音菩薩の持戒の弟子であります。もし夫婦の契りを結んだら、それは戒律を犯したことになります」

「もし夫になってくれないなら、わたし、自害して果てますわ」

 そう言うと岩魔女は猿の前でばたりと倒れた。しかしまもなく岩魔女は立ち上がり、猿に言った。

 

「ああ、猿の大王さま! わたしの話をお聞きください!

業(ごう)によってわたしは魔女になりました。

欲望の炎は燃え盛るばかりです。

愛欲がこうしてあなたを求めてしまうのです。

もしいま夫婦になることができなくても

いずれあなたは魔女と結ばれることになるでしょう。

一日あれば、万の衆生を傷つけることができます。

一晩あれば、千の有情を食べることができます。

もし無数の妖魔の子を生めば

この雪国は、羅刹城になり

あらゆる衆生は妖魔に食べ尽くされてしまうでしょう。

そんなわたしを不憫に思ってください」

 

 そう悲痛のことばを発し、岩魔女は涙を落とした。それに対し猿菩薩は言った。

「もしあなたと夫婦になったら、戒を犯すことになります。それはこの上ない大逆の罪なのです」

 そう言うと瞬時にポタラ山へ飛び、観音菩薩の前で言った。

 

「ああ、衆生を守る慈悲深いお方、

私は命のごとく具足戒を守ります。

けれども魔物の羅刹女が愛欲をあらわし

あの手この手でわが心を揺るがし

まとわりついて戒を破らせようとしております。

戒を守るためにも

どうかよくお見守りください」

 

 このように猿は言った。すると聖者はつぎのようにおっしゃった。

「おまえは岩魔女と夫婦になりなさい」

 このとき金剛憤怒仏母とターラの二尊者が空中から「それはすばらしいこと」とおっしゃった。

 こうして聖者は猿と岩魔女に加持をお与えになり、夫婦の契りを結ばせた。この加持によって雪の国は三つの功徳をもつことになった。すなわち未来世において、如来の教えはおおいに広まり、長く世間で依止(えじ)されるだろう。善智識が相次いで現れ、宝蔵はつねに開かれるだろう。幸福と利益(りやく)は十方に満ちるだろう。

 六道では有情の者は投胎されるので、猿と岩魔女が夫婦の契りを結んだあと、六匹の小猿が生まれた。六匹の性質はおなじではなかった。地獄から投生した者は顔が黒く、苦労によく耐えた。餓鬼から投生した者は容貌醜く、がつがつと食らった。畜生から投生した者は愚鈍で頑迷で見かけも悪かった。人から投生した者は聡明で鋭敏で、慈善の心を持っていた。阿修羅から投生した者は凶暴で、嫉妬心を持った。天から投生した者は温和でやさしく、善良だった。

 父の猿菩薩は六匹の小猿をチャツォク(Bya tshogs)の森の果樹に三年放置した。三年たったところで父の菩薩猿は様子を見に行った。業のなせるわざか、繁殖して小猿は五百匹に増えていた。しかし果実は食い尽くされ、ほかに食べ物もなかった。父母は食べ物をやっていなかったので、小猿たちは父に「なにを食べるの」と聞いた。また母にも「なにを食べるの」と聞いた。両手を差し出して訴えるさまは凄惨だったが、これも食べ物がないためである。

 父の猿菩薩は、「いまだに煩悩の道に入らず、聖者の命に従っているのに、どれだけの小猿が生き残るというのだろうか」と考えた瞬間、ポタラ山へ行き、観音菩薩の前で懇願した。

 

「ああ、この三界の牢獄の家で、魔女の誘惑にたぶらかされ、

私は輪廻の泥濘に落ち、毒の葉を貪って悟りを得るはずもなく

いとおしさで私をだまし、ついにはとてつもない苦しみを受け、

煩悩の毒を食べ、苦しみが生まれるばかりです。

ああ、慈悲深い主よ、どうやって子どもを育てたらいいのでしょうか。

聖者のおことばに従います、

この餓鬼城をどうにかしてください。

地獄に落ちるのは防ぎようがありません。

慈悲を恵んで私を助けてください」

 

 聖者はおっしゃった。

「汝の子孫は我が育てよう」

 聖者は立ち上がり、須弥山の隙間(khong seng)からチンコー麦、小麦、豆、蕎麦、大麦を取り出し、地上に撒いた。その地には種まきをしなくても、香りのいい穀物が自生した。父の菩薩猿は小猿たちをこの地に連れてきて、この自生する穀物を食べさせた。それゆえこの地はソダム・ゴンポ・リ(Zo dam gong po ri)と呼ばれた。

 幼い小猿たちはこれらの穀物に満足した。すると毛は短くなり、尾は縮み、ことばがしゃべれるようになり、ついに人間になった。このように、種まきをしないで成る穀物を食べ、木の葉を衣とするようになった。

 こうして雪の国の人々は、猿を父、岩魔女を母として生まれ、繁栄した。それゆえ二種類の性質をもっている。

 父の菩薩猿は、おとなしく善良で、信心が堅く、あわれみの心を持ち、勤勉で、品行がよく、話し方も穏やか、言うこともよかった。これらはみな父親の特性である。

 一方母の岩魔女は、貪欲で怒りやすく、性格は激しく、商い好きで、営利をむさぼり、仇をとりたがり、あざわらってばかりで、たくましく勇敢で、おこないは定まらず、気が変わりやすく、思い煩うことが多く、敏捷で、五毒がさかんで、他人をのぞくのが好きで、悩みやすかった。これらはみな母親の特性である。

 当時、川から水があふれると、水はいくつにも分かれ、野を潤した。その野の上で子孫たちは農業に従事し、町を建てた。しばらくしてニャティ・ツェンポという者が出て、チベットの王様となった。臣民が分かれるようになった最初である。