ナイルの源流を求めてアフリカの高山へ、そして岩壁から落下(1990)
宮本神酒男
(1)少年時代、私は町を流れる川の源流を探した
冒険にはだれもが憧れを抱くものだ、たとえそれがささいなものであったにせよ。私の最初の冒険は町中を流れる川の源流探索だった。中学二年生のとき私は山口県徳山市(現在は周南市)に住んでいた。私にとってのデミアン(ヘッセの小説のタイトルであり、登場人物の不思議な同級生の名前)は同級生のI君だった。ある日川沿いの歩道を並んで歩きながらI君は静かな口調で言った。
「この川の最初はどうなっていると思う?」
「どうって……」私はそんなこと考えたこともなかったことに気がついた。「やっぱりどこかに水が湧き出ているのかな」
「そうかもしれないね。でもそうではないかもしれない」
「そうでないって……。ほかにどんなことがありうるの?」
「じゃあたしかめに行こう。今度の日曜日に源流を探しに行こうよ」
じつは2004年のことになるが、私は西チベットのカイラス山からそう遠くない地点でインダス川(サトレジ川)の源流とブラマプトラ川の源流(両者は目と鼻の先にある)に行ったことがある。本流の最長地点が源流だとすればこれらは源流とは呼べないかもしれないが、支流も含めていいのなら、これらは源流である。両者とも湧き出る泉のような源流だった。半砂漠のような荒涼とした丘の上なので、源流の泉はシンプルだった。
それに比べると町中を流れる川の源流は深い森の中にあり、さかのぼればのぼるほど姿が見えがたくなった。私たちは自転車に乗って、ある程度は山の上のほうまで行けたのではないかと思う。そしてどこかに自転車を置いて、車道を離れ、森の中へ入っていったのだろう。川から離れすぎないように気をつけながら、木々のあいまを縫っていった。暗い湿っぽいところにはヒルがたくさんいた。残虐だった子ども時代、川のヒルを捕って道路に並べるイタズラをしたことがあったが、そのヒルは巨大な川ヒルで、これは山ヒルだった。暗褐色の尺取虫のような虫は、枝の上から人に襲いかかるのである。後年、ミャンマー・中国国境上の森の中で、私は山道の両側の草の葉の上にぶら下がり、めったに来ない通行人や獣を待ち構えているヒルを観察したことがあった。泉鏡花の『高野聖』にも、主人公が妖怪のような山ヒルと出会う場面がある。鏡花は「濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣(いぼ)胡瓜のような血を取る動物」と表現している。
地図を見ると、旧徳山市街から北へ上がっていき、源流のある山の向こうへ越えていくと、金峰(みたけ)という村がある。2013年に、横溝正史の『八つ墓村』を地で行くような陰惨な連続殺人事件が起きた村である。「つけびして 煙よろこぶ 田舎者」という殺人犯の妙にうまくできた短歌が印象に残っている。事件から六年後の様子を収めたNHKのドキュメンタリー番組を見たけれど、村の周辺の鬱蒼とした森はわが少年時代の源流行の森とほぼおなじだった。
さて、私たちが森の中に入ると川は小川に姿を変え、自然にできた溝のようなところを勢いよく流れていた。両足を広げ、V字の溝をまたぎながらさかのぼっていくと、ところどころ側面から水が噴き出していた。溝はしだいに細く、浅くなっていった。この調子でいけば、どこかに泉があり、水が滾々と湧き出しているだろう。そう考えはじめた矢先、流れは突然消え、あたりは沢になった。沢になると、もはや川ではない。あちらこちらから、石の合間、芹や苔の下から水があふれるように湧き出していた。ここが探し求めていた源流だった。いかにも源泉といった泉があるのではなく、大小さまざまな泉から水があふれだしている沢が追い求めていた解答だった。神秘というものは、明らかにされたとき、神秘ではなくなる。しかし神秘ではなくなったとき、あらたな神秘(この沢の水はどこから来るのか)が生まれるものなのだ。