(3)緑色のウンコ、巨大ミミズ、洞窟のシンフォニー、そして岩壁から落下
というわけで私は月の山脈ルウェンゾリに向かうべく、カンパラにいた。このウガンダの首都で私を驚かせるのは、大樹に群がる巨大コウモリだろうと(故・今西錦司氏のエッセイを読んで)私は予測していた。たしかに日本のコウモリの数倍はあろうかという(しかも未知のコロナウイルスを持っていそうな)大コウモリが群れを成して移動するさまは強烈なインパクトがあった。しかし私を驚かせたのは巨大南京虫だった。
はじめ、私はそれをカメムシだと思った。カメムシはひどく臭くて迷惑千万この上ない害虫だけれど、タマゴが緑色の宝石みたいで美しく、好感度に若干プラスの得点を与えていた。(京都の元料亭の予備校寮に住んでいたとき、日本庭園に張り出した二階部屋の窓の外に下着の白シャツを干していたところ、エメラルドグリーンのタマゴが産みつけられた。あまりに美しかったので、孵化するまで洗濯物を片付けなかった)
ケニアのナイロビから年季の入ったバスに乗ってカンパラにたどり着いた私は、宿泊の予約などしていなかったので、いつものようにリーズナブルそうなホテル(こちらではインと呼ばれる)に宿をとった。初日の夜、私は明かりを消してベッドの上で横になった。しばらくすると背中の下がもぞもぞするので、私は跳び起き、シーツをはがした。するとそこには何千匹、あるいはそれ以上のカメムシが元気よく動き回っていたのだ。
のちに私はたびたび南京虫やダニの被害に遭うことになるが、このときはまだ慣れていなかった。小指の爪ほどのカメムシが南京虫であることに気づいた私は、しらみつぶしに(南京虫つぶしか。トコジラミともいうのでやはりしらみつぶしでいいのか)南京虫をつぶしては窓から外に放り投げた。まあ公共性が欠如していると言われそうだが……。しかしこれがまったく無駄な行為であることを悟り、私は観念して椅子に座って夜を明かした。似たようなこと(南京虫がシーツの下にいるために椅子に座って睡眠をとる)は、数年後のバンコク、十数年後のインド北部キナウル地方の道沿いの村でもあった。
睡眠不足のままルウェンゾリ登山の出発点、カセセに着いた。安宿の部屋のなかに蚊が一匹プーンと音をたてて飛んでいた。よく見るとマラリアを媒介するハマダラカだ。予防注射を受けているからって、安心はできない。半時間ほどしてようやく突然うなり声がやんだ。わが血液をゲットしてどこかへ去ったのだろうか。のちに中国雲南で40度以上の高熱を発し、緊急入院することになる私からすれば、こういう細かいことも気になってしまうのだ。なおこの宿で私は正義感の強そうな早稲田の学生H君と出会っている。彼は西アフリカからアフリカに入り、アフリカ大陸を横断してナイロビへと向かう途中だった。彼とはナイロビで再会するのだが、彼は意外な事件に巻き込まれていた。(後述)
登頂を含めたトレッキングのガイドとポーター(彼らはほとんどがバコンジョ族だ)をどうやって探したのか、よく覚えていない。宿の主人の紹介か(これが一番ありえる)、マーケットのような場所で探したのか、ともかくガイドと私は出会っている。名前を思い出せないので仮に「森の賢者」としておこう。実際、ポーターたちからはその知識量、智慧、人格等に関し、あきらかに一目置かれていた。彼ならば人生哲学や教訓を伝授してくれそうな気がした。老人というわけではないので、年齢は40歳くらいだったのだろうか。*ウガンダ国内のバコンジョ族の人口は約50万人。コンゴ民主共和国(旧ザイール)には400万人以上が住んでいる。
ここカセセはたんなる村のようだが、じつは(2008年にウガンダ政府から公認された)ルウェンゾルル王国の都だった。ルウェンゾルルに住む種族はコンジョ(Bakonzo)とアンバ(Baamba)だという。当時の私はそういった歴史的経緯も文化も知らず、長年ゲリラが山岳地帯に入って戦闘を繰り返してきたので、登山やトレッキングが許可されなかったということだけを知っていた。
私は森の賢者とともにおおまかに十日間の行程を出し、マーケットに買い出しに行くことにした。私とガイド、ポーターふたりの食料を買わなければならない。ただし私は日本から持ってきたキャンプ用非常食やラーメンでまかなえる。ナイロビのガソリンスタンドでガソリンを買っていたので、持参のガソリン・ストーブが使えるはずだ。私たちはマーケットの野菜売り場にやってきた。
「まずはキャッサバだ。20キロ必要だな」
「20キロ? そんなに必要か? ぼくは食べないんだぞ」
「20キロごとにポーターをひとり増やさなければならない。だから主食のキャッサバが必要になるんだ」
「じゃあポーターは三人?」
「そうだ、三人だ」
20キロごとにポーターがひとり必要⇒ポーターが増えるので、もっとキャッサバ粉が必要⇒キャッサバ粉が増えるとポーターが増員される⇒……
これでは無限ループではないか。
「キャベツは一個でいいな」
「一個? 一個でいいの?」
「そうだ」彼は大きなキャベツを秤にかけた。「一個で5キロだ」
「5キロ?」
たしかに日本では見たことのない超巨大なキャベツだ。巨大なキャベツ畑人形が生まれてきそうだった。手に持つとずっしりと重い。
ピーナッツも大量に買った。彼らはピーナッツをすり鉢のような器に入れてすりこぎ棒でつぶし、キャベツとともに煮こむのである。道中少しわけてもらったが、このシンプルな料理はとてもおいしかった。キャッサバも十分においしかった。質素だが、私の宇宙食みたいな食事とちがって、彼らにとっての「食べ慣れた料理」だった。しかしこのキャッサバからとれるタピオカを使ったパールミルクティーが日本でブームになる日が来るとは夢にも思わなかった。もっとも、台湾で流行していた珍殊奶茶(パールミルクティー)を飲んでから二十年以上もたっていたのだが。
カセセを出発すると、すぐに景色は一変し、山道は古生代のような世界に入っていった。山肌はびっしりと苔類、地衣類に覆われ、まわりはシダ類に取り囲まれていた。雨がしとしとと降っていた。雨が降っているか、どんよりと曇っているか、そのどちらかしかないのだ。無数の小川が流れていた。あちこちに水が流れているといったほうがいいだろう。水の中に小石を見つけると、それを踏んで渡っていった。あるときは小石と間違って白茶けた泥に足をのせてしまった。するとずぶずぶと両足が沈んでいった。私が「助けてくれ!」とおおげさに騒ぐと、ガイドとポーターが駆けつけ、私の両手を引っ張ってくれた。底なし沼というわけではないだろうが、ひとりきりだったら、身動きできなくなった可能性もあるだろう。画像を見ると、尾瀬か戦場ヶ原のように板敷きの歩道ができているので、現在はこういった危険性がなくなっている。
森の中を歩いているとき、すぐ前にいた森の賢者が後ろを振り返り、「ちょっと前のほうで用を済ましてくる。このペースで歩いてくれ」と言うと、小走りに駆けだし、姿が見えなくなった。用便をすます、ということだろう。日本人なら「キジ撃ちにいってくる」と表現するところだ。
しかし何かが違っていた。野糞をしにいったのは間違いない。ただわれわれの常識とは少し異なっていた。
しばらく歩いて山道を曲がると、道の真ん中に湯気が立っているかのような新しいウンコがとぐろを巻いていた。しかも緑色である。パラック・パニール(ほうれん草チーズカレー)みたいな緑色。これは妙だ。野糞をするなら、ふつうは道からはずれて茂みの中で用を足すはずだ。茂みには毒蛇がいるのだろうか。蛇にお尻をかまれたら、冗談ではすまないのはたしか。だからといってなにも道のど真ん中にすることもないだろうに。あるいは何かのメッセージなのか。それともブラックマジックなのか。邪気退治なのか。病気なのか。野菜の食いすぎか。なぞは深まるばかり。
森の中を歩んでいくと、山道の曲がり角があり、灌木の枝葉がそこに差し掛かって、腰をかがめて進まねばならなかった。頭を下げたまま枝葉の下を歩いているとき、突然足元の水たまりに30センチほどの蛇が姿を現し、私は飛び上がらんばかりに驚いた。しかしよく見るとそれは巨大ミミズだった。思わず立ち止まって見ていると、ミミズはひゅるひゅると短く、太くなった。もはや蛇ではなく、丸々としたソーセージである。巨大南京虫や巨大コウモリもそうだったが(友人はアフリカで巨大ゴキブリを見たと言っていた)、規格外サイズはアフリカならではある。
ルウェンゾリの森で、生まれてはじめて野生のカメレオンを見た。コスタリカに棲息するカメレオンのような派手な色を持っているわけではないが、カメレオンには違いなかった。カメレオンは基本的に背景の中に姿を隠しているので、われわれに見つからないという前提において生きている。それだけにひとたび見つかってしまうと、すぐに万策尽きてしまう。「やばいなー」といった表情を浮かべながら、あわてて、しかしスローモーションで、こちらをチラチラ見ながら爬虫類特有の前脚をかき出していく。この小動物にたいしてなぜわれわれは「かわいい」と思うのだろうか。
山小屋まであとどのくらいなのだろうか。夕方になり、早く落ち着きたいという気持ちが強くなりはじめた頃、森の賢者は言った。
「さあ、着いたぞ」
「ここは……」目の前に洞窟の小さな入り口があった。「この洞窟で休憩ですか?」
「いや、今夜はここで寝ることになる」
「山小屋ではなかったのですか」
「おまえの歩くのが遅いから、山小屋に着きそうにないのだ」
歩くのが遅かったせいで、私は得難い経験をすることになった。食事をすましたあと、疲れもあって、寝袋に体を入れると私はストーンと眠りに落ちた。しばらくすると、私は夢の中で楽団が演奏するシンフォニー(交響曲)を聴いていた。いつまでも、いつまでも、シンフォニーはやまない。はっと夢から覚める。夢ではなく、たしかに奏でられているのだ。どこから聞こえてくるのだろうか。どこかにラジカセがあるのだろうか。それは地中から浮かび上がってくるかのようだった。地中?
シンフォニーは地中から聞こえるのだった。頭を起こすと音楽は小さくなった。ふたたび耳を地面に着けるとシンフォニーは盛り上がりをみせた。あきらかだった。洞窟のすぐ下に空洞があり、信じられないほどたくさんの水が流れていたのだ。おそらく地下は多孔状態になっていて、水が孔(あな)を通るたびに音を発していたのだ。一度にたくさんの音が発せられるので、一斉に吹奏楽器を鳴らしたかのような重層的な音響が生まれていたのだ。
このシンフォニー体験は私にとってもっとも大きな成果のひとつといえた。地理学会に提出できるようなエビデンスではないが、尋常でなく降雨の多いルエンゾリの山塊の中を大量の地下水が流れ、各支流や湖、ナイル川本流そのものに注ぎ込んでいるのだ。ギリシアのディオゲネスやアレクサンドリアのプトレマイオスは正しかったのだ。もちろんこれはシロウト考えなので、根拠がないどころか、戯言の可能性もあるけれど。
30メートルはあろうかという大木が連なる熱帯雨林のあと、なぜか竹林があり、そこを抜けると巨大なツクシのようなロベリア・ウォラストニイがニョキニョキと生えた草原が広がっていた。「密林」の雰囲気を醸し出しているのは、ジャイアント・ヒーサーの森。緑のカツラを被ったパイナップルの木のように見えるのがジャイアント・グラウンドセル。この木の幹の中は空洞になっていた。とても珍しい木だが、乾燥した倒木はたきぎとして利用することができた。海抜3200メートルから3800メートルのあたりは、まるで恐竜が生きていた時代のような奇妙な植物だらけだった。密林を抜けるちょうどそのあたりの上空には、極楽鳥のような赤や青の入った大きな鳥が舞っていた。太陽鳥の一種だろうか。
海抜3800メートルのコバルト色の湖、ブジュク湖を超えると、限界に挑むかのようにエーデルワイスのような高山植物(エヴァーラスティング・フラワー)の白い花々が咲き乱れていた。最後の花だと思ってのぞき込んだとき、私はギョッとした。花と思ったところに白いうじ虫のような虫が数匹、ゴニョゴニョとうごめいていたのだ。ノッペラボウでも見てしまったみたいに、驚いて私は駆け出してしまった。あとで考えるに、花びらがあるべきところに虫がいるはずもなかろうから、なにかの見間違いだろう。花びらが落ちてしまったあとの萼(がく)が虫のように見えたのだろうか。
私がルエンゾリに行ったころは、海抜4千メートルを超えたあたりで粉雪が降ってきて、4200メートルあたりが積雪ラインだった。現在はこのラインが4500メートルまで上がっているという。4500メートルといえば山小屋があり、万年雪の下限でもあった。氷河も大部分が消失してしまったという。ヒマラヤやカラコルムの氷河もこの十年、二十年の間に大幅に縮小している。温暖化は想像以上に進んでいるのだ。最近、南極で気温20度が観測されたという。気候変動はすでに始まっているが、今後ますます激化していくのではなかろうか。
粉雪が舞い始める前、私は森の賢人に連れられて見晴らしのいい崖の端まで行った。断崖絶壁よりも怖かった。私は雑誌の取材の折、池袋のサンシャインビルの屋上の端に立ったことがあった。それと同じくらい、あるいはそれ以上に怖い体験となった。というのもそこはプレッツェルのような構造になっていたからだ。穴と穴の間の平均台のようなところを進んで崖まで出ると、眼下に信じがたいほど美しいコバルト色の湖が広がっていた。ブジュク湖である。ためしに穴に小石を投げ入れたが、小石は闇の中に吸い込まれていき、音を立てなかった。足を踏み外したら、どこまで落ちていくのだろうか。山頂近くの氷河にはヒドゥンクレバスが多いという。この山は海綿のように穴だらけなのだ。
ポーターたちは3800メートル地点から上に行かないで、つぎの地点で待つことになった。私はわがバッグパックを背負った森の賢者とともに山小屋まで登った。森の賢者もバッグパックを山小屋に置くと、下に降りてポーターたちのところへと向かった。山小屋で私はひとりきりになった。離れる前に森の賢者はどこから山頂へ登っていくか説明してくれたのだが、ややぞんざいな感じだった。翌日、間違って山頂ルートでないルートを選択してしまったのである。この初歩的なミスのために私は落下してしまうことになる。
山小屋の横に小さな炭焼き小屋があった。酸素が薄く、手持ちのガスヒーターは機能しなかった。わずかばかりの枯れ木にガソリンをかけて火を作ったが、揮発性が高く、一瞬で火は消えた。そのため私は生ぬるい紅茶を飲み、麺がガシガシと硬いインスタントラーメンを食べるしかなかった。
日が沈み、山が暗闇に包まれてしまうと、気温が急激に降下した。空に赤い帯が見えるほど赤道直下なのに(私は冗談めかしてよくそう言った)気温は零度を何十度も下回った。現在は消失してしまったが、氷河はすぐ近くにあった。とくに未明になるといっそう寒さは厳しくなり、体が芯から冷えて激しい震えがやってきたほどだった。低体温症の一歩手前である。
あまりの寒さにてきぱきした動きが取れず、出発が遅れたのは大きな失策だった。しかも私はルートを間違っていた。断っておくが、私は登山に関してはまったくのシロウトである。なぜ落下してしまったかといえば、コースの間違いだけでなく、すべてにおいてドシロウトだったからである。私はある程度登ったところでコースを間違えていることに気が付いた。しかし下に降りてからもう一度スタートするのがいやだったので、私は岩壁を真横に移動することにした。これが間違いに間違いを重ねることになってしまった。はじめ、テラス状の張り出し部分の上を、岩壁に貼りつきながら左のほうへ移動した。しかししだいに張り出し部分は小さくなり、ついにはなくなった。右へ戻ろうかとも思ったが、つい先ほどは苦も無く足をかけていたのに、思った以上に張り出しの面積は小さかった。しかも岩壁はほぼ垂直だった。戻りかけたとき、私の体は岩壁から離れ、空中に躍り出ようかとしていた。
あとはスローモーションのようにゆっくりと進行した。私は自分の体が落ちていくのを冷静にとらえていた。時間はおそろしくゆったりと過ぎていった。10メートル以上は落下しただろうか。私は雪の斜面にバウンドしながら、大きな岩の横の雪のかたまりに突っ込んだ。背中が激しく痛んだが、ケガといえるほどのケガは負わなかった。今なら雪がほとんどなく、私の体は岩にまともにぶつかっていただろう。
繰り返すが、ルートを間違えるという初歩的なミスを犯したために、岩壁から落下し、軽いケガですんだものの、時間を無駄に消費することになってしまった。天候はすばらしくよかった。私は雲上の人だった。白雪の上をテンポよく上がっていった。はるか下のほうを大鷲が舞っていた。ここは最高神キタサンバが住まう聖なる場所だった。なんという自由だろうか。解放感で天空を舞うことだってできそうだった。
しかし出発が遅かったことと、ルートを間違えて岩壁から落下してしまったことのつけが回ってきた。下から白い霧が湧いてきたのである。あっという間に世界は真っ白になってしまった。自分の手の先さえ見えないほどの濃霧に包まれてしまった。もう右も左も上も下もわからない。途端に歩んでいるルートがまったくわからなくなった。いわゆるホワイトアウトである。まったくの無風だったが、しだいに風が起こってきた。危険すぎる。今日は山小屋まで下りたほうがいいだろう。一度、足元の雪が崩れ、あぶなく落ちそうになったことがあった。なんとかピッケルを雪に刺して落下を防ぐことができた。それがヒドゥンクレバスかどうかはわからなかった。やっとのことで山小屋にたどりつくと、すでに森の賢者が私を待っていた。翌日もう一度チャレンジすることもできたが、スケジュールがタイトだったので、今回は無理しないことにした。登頂にはあと一歩で成功しなかったが、山のシロウトにしては健闘したほうだろう。*H・W・ティルマンの『赤道直下の雪』(1937)を読むと、ルウェンゾリが容易な山ではないことがよくわかる。筆者らはアレクサンドラ峰に登頂した翌日、最高峰マルゲリータ峰をめざすが、尾根に到達したあと雪上に足跡を発見して驚愕する。もう一組、登山隊がいたのか? もちろんそんなはずはなく、それは前日の彼ら自身の足跡だった……。このエピソードを紹介したからといって私のシロウトぶりがクロウトぶりになるわけではないけれど。
下山途中(登るときとは違うコース)の深い森の中で、崖のような急斜面を根っこをつかんだり、飛び出した石に足をかけたりして苦労しながら這い上がっているとき(下山といっても上りもある)下から森の賢者が大声を発した。「待て!」私は左手で枝をつかもうとしている状態で動作を止め、振り返って下を見た。彼は目で「気をつけろよ」と言っている。あらためて左手の先を見ると、枝にとぐろを巻いているのは鮮やかなエメラルドグリーンの蛇だった。グリーンスネークだろうか。「ここに毒蛇はいない」と彼は断言していたが、とりあえず見かけは毒々しかった。私は音をたてないようにしてゆっくりと斜面下まで降りた。私は蛇にたいしても憐みの情を抱いてしまう(蛇に罪はない)が、彼は無残にも蛇の頭を杖の先でつぶしてしまった。蛇を殺したあとも彼はその周辺で何かを探していた。
「何をしているんだ?」私はいらだってたずねた。
「この蛇の相方を探しているのだ」
まもなくして潜んでいたもう一匹の蛇を杖ではじき出し、容赦なく殺した。蛇の夫婦の絆は強く、片方が殺されればかならず生き残った蛇は人間に復讐するのだという。さすがに長年戦闘をおこない、ゲリラ活動もいとわない部族の賢者である。情にほだされることがあってはいけないのだ。とはいえ、何も悪いことをしていない蛇の夫婦を殺してしまったことに私は一種の罪悪感を覚えてしまった。手の先の枝にいたというだけでなぜ幸福な暮らしだけでなく、生命まで奪われなければならないのか。納得のいく答えは今も見つからない。
ルウェンゾリ登頂アタックのあと、数日かけて私は下山し、カセセからバスを乗り継いでケニアのナイロビに戻った。ウガンダで出会った早稲田の学生のH君は日本人の常宿リバティハウスに泊まっていた。少ししょげているのでどうしたのかと尋ねると、だれもが知っているような手口に引っ掛かり、200ドルほど損してしまったという。先にナイロビにやってきた旅人の間では有名な手口だが、西アフリカから陸路でやってきたH君はまったく聞いたことがなかったのである。
彼がナイロビの通りを歩いていると、前を歩いていた人が何かを落とした。それを拾い上げると、札束がぎっしりと詰まった財布だった。そこへ横を歩いていた男が近づいてきた。
「おい、すげえお金だな。山分けしようぜ」そう言って男はH君を路地へと導いた。
そこへ別の男が近づいてくる。
「おい、おまえら。拾った大金を山分けしようとしていたな。おれは警察だ、逮捕する」
「ええ、それは困ります」とH君は懇願した。
「それなら200ドルでどうだ。見逃してやるぜ」
牢獄にぶち込まれることを恐れたH君は仕方なく200ドルを渡した。問題は200ドルの被害以上に、みんなから笑われてしまったことだった。これは世界中に広がった旅行者をだまして金を巻き上げる有名な手口だったのである。実際私もこのあと中国の貴州省凱里で、また広州市で、同様の体験をしている。歩道橋を歩いているとき、前を歩いていた男が札束の詰まった財布を落としていく。拾い上げたところへ別の男が近づいてくると思われるのだが、私は無視してそのまま歩いていった。するとまた別の男がやってきて、おなじように財布を落としていった。またも私は無視する……。
私の友人はやはり中国内でおなじ手口でやられそうになったという。彼は勇敢にも、いや無謀にも、財布を拾い上げると、猛烈にダッシュして走っていった。すると何人かの男たちが追いかけてきた。路地裏で彼はボコボコに殴られてしまったという。
ナイロビに着くとリラックスして、私はリバティハウスでトランプゲームに興じた。H君のほか、旅のカメラマンのK君やエロチックな旅の写真を撮っていた写真家と、もうひとりすごくまともそうな雰囲気を持ったA氏らがメンバーだった。このA氏が裏の顔を持っていることがわかり、私は驚かされた。
ガールフレンドのキクユ族のアブドラに言わせると、A氏はナイロビの娼婦の家に転がり込んでいて、夜になると街頭で男性相手の「立ちんぼ」をしているという。
「まさか、そんなことはないだろう。同性好きにも見えないし」
「ほんとなんだから。夜、見てみましょ」
私はアブドラといっしょにホテルにしけこみ、窓から娼婦らが立つあたりを眺めた。するとたしかに、ある時刻になると、A氏が立っているのである。私は自分の目が信じられなかった。
「ああ、ほんとうだ。でもどういう客をとっているのかな。黒人? それとも白人?」
「黒人よ。黒人にも日本人が好きなのもいるのよ」
客を取るところまでは見ていないが、地元の黒人娼婦に混じって立っているということは、ほんとうに同性相手に商売しているのだろう。商社マンと言われれば信じてしまいそうな謹厳そうなA氏は、なぜアフリカまで来てこういうことをすることになったのだろうか。そしてそのあとの彼の運命はどのようなものだったのだろうか。紆余曲折の人生を歩む知られざる人物がいたということである。
宮本神酒男