ベルリンの壁崩壊、さっそく壁を壊しに行った(1989)
宮本神酒男
ベルリンの壁が崩壊したとニュースで知った私はいてもたってもいられず、ベルリンに飛んだ(厳密にいえばフランクフルトに飛んで列車で移動した)。ハッと気がついたとき、私は現場の人に貸してもらったハンマーをふるって壁を壊していた……。
熟慮を重ねることなく、無鉄砲で軽率な行動をとったあと、後悔するのが私のお決まりのパターンだ。しかしこのときは軽はずみによって結果的に歴史を目の当たりにすることができた、ともいえる。
私は飛行機でフランクフルトに飛び、鉄路でベルリンへ移動した。ベルリンに着くと、Sバーンに乗り、どこかで地下鉄に乗り替えた。記憶が薄れているというよりほとんど記憶に残っていないので、ネットで地下鉄路線図を調べる。おそらくUバーン6路線に乗ったのではないかと思う。東西に分断された1961年以来28年ぶりに西から東へ、あるいは東から西へ行けるようになっていた。西と東の境界では乗り換えねばならなかった。検閲所の官吏(?)のなんともいえない複雑な、浮かない表情が印象的だった。
ふたたび地下鉄に乗って、たぶんフランツェージッシェ・シュトラーセ駅で降りた。地上に出てしばらく歩くと、目の前にどこかで見たことのある大きな門が現れた。ブランデンブルク門である。門の近くで数人の若者が踊っていた。喜びと解放感だけで、音楽なしで踊るのを見るのははじめてだった。東側の若者たちだった。彼らは日本人を、つまり私を見ると手を振って「イエーイ」と叫んだ。私も喜びの輪のなかに入って踊った。
壁の前に着いたときには日がとっぷりと暮れていた。熱量が色で表示されるモニター画面を見たなら、そのあたりだけ真っ赤になっていただろう。無数の人々が手にハンマーを持って壁を壊していたのだ。カンカンとかトントンといった音が重なり、工事現場のような大きな響きになっていた。みんながニコニコと笑っていた。泥んこ遊びをしているときみたいに、解き放たれて、何にも縛られることなく破壊活動にいそしむことができるのだ。だれもが友だちであり、仲間であり、同志だった。私を見るとだれからともなく、指から指へ、手から手へ、ハンマーが回ってきた。そのハンマーで私は壁に一撃を与えた。すぐにいくつかのコンクリの塊を得ることができた。これらは私の「ベルリンの壁」である。しかし無地のコンクリの塊では、そのへんの工事現場からくすねてきたものみたいだった。まわりを見回すと、スプレーを吹き付けて、アートになった壁の部分を壊している輩がいた。こういうにわかスプレー・アーティストはたくさんいた。私もスプレーを借りて壁面にスプレー・アートを描き出した。それを壊したとたんに、ベルリンの壁アートが生まれたのである。どう考えても即席の「ベルリンの壁」である。しかし無地のコンクリの塊よりは、はるかに本物っぽいベルリンの壁なのである。
1994年、インド北部ダラムサラの森の中のリトリートセンターに滞在したとき、ともにチベット仏教の実践を学んだドイツ人は8人もいた。そのうち東側出身は女性ひとりを含む2人のみだった。当時、西ドイツ人(彼らはそう自称していた)は東側出身者を差別していた。経済格差があったし、ロシア語はしゃべれても、英語はろくにしゃべれなかったからだ。もちろんメルケル首相やサッカーのミヒャエル・バラック選手(2012年に引退)らが東側出身者であることを考えれば、そういった差別は時間の経過とともに消滅していくことになるのだったが。