(2)スラウェシ島へ 

             宮本神酒男 

 ジャカルタ経由で私はスラウェシ島(セレベス島)のマカッサル(当時はウジュンパンダン)に立ち寄った。おそらく近い将来この島の中央部の特異な風習を持つトラジャ地方に行くつもりでこの町で情報集めをしようとしたのではないかと思う。念願のトラジャ旅行は15年後に実現する。

 マカッサルの住宅地の奥にあるドイツ人のブント氏の屋敷のオーキッド・ガーデンを訪ねた。エリック・ハンセン著『ラン熱中症』(2001)には、アジアでランを育てているラン・マニアとして、スマトラのシャーナス・オーキッドやクーロン(九龍)のダイアモンド・ファームとともに、スラウェシのCL・ブントが挙げられている。通の間ではよく知られたランのガーデンでありナーセリー(種苗所)なのだ。世の中にはさまざまなコレクションがあり、コレクターがいるわけだが、ランというのはきわめて特殊である。ランに熱中することを「ラン譫妄(せんもう)」という。ランにとりつかれると、もはやそこから抜け出せなくなるのだ。

強く印象に残っているのは、女主人(ブント氏の妻か令嬢かよく覚えていない)が知的でミステリアスな雰囲気を持った白人美女であったことだ。私がランの花々を眺めながら歩いて回っているあいだ、彼女はモニターを通じて神経質なほどこまかく私の動きを見ていただろう。ラン愛好家は、ときには簡単にラン泥棒になってしまうのだ。しかし本当に価値があるもの、珍しいものは、目につかないところに置いていただろう。
 15年後にこのオーキッド・ガーデンを再訪したとき彼女は年を重ねていたが、なおもきりっとした美しさがあった。はじめて訪ねたときにはなかったが、このときは珍しい貝殻を売っていた。ドネーションをするような気持で私はいくつかの貝殻を買った。これだけのランを栽培するのは財政的に困難であろうと推測できた。ネット上で見つけたブログによれば、2006年までにはブント氏の屋敷もオーキッド・ガーデンも壊されたという。いったいどういういきさつでこうなったのか、ブント家の人々がどうなったか、今後調べていきたい。

 オーキッド・ハンター(ランの収集家)になるのは容易ではない。新種の野生のランとなると、丈が30メートルの熱帯雨林の上のほうにでも行かないと見つからないのだ。東京ドームで開催された「世界らん展」に、ラン栽培を趣味とする両親とともに行ったことがあるけれど、それは園芸の大会であり、野生の新種を披露する場ではなかった。2011年、大自然のなかでランの花をたくさん見る機会があった。7月、つまり雨季、中国雲南省とミャンマー・カチン州の国境上の亜熱帯雨林の森の中を歩いているとき、濡れそぼった樹木の太い枝の上に何度も鮮やかな黄や白のランの花を見かけた。野生のランはやはり野生にあってこそ生き生きとしているのだ。

 

 私はマカッサルからスラウェシ島北部のメナドへと飛んだ。メナド(コタ・マナド)はダイビング・スポットとして有名で、海中だけでなく、トロピカルで風光明媚な島々も美しい。じつはウォレスは1859年にこの街を訪れたとき、「小さな町だけれど、東洋でもっとも美しい」と絶賛している。

 町の郊外をぶらぶら歩いていると、見知らぬ男女に声をかけられた。「こちらを見てください」目の前には巨大な体育館のような古い建物があった。請われるまま中に入ると、格納庫のような薄暗い空間があったが、隅のほうだけ明るく、大きな台を囲うように衛生的な格好をした十人ほどの人が立ち、何かを仕分けし、詰める作業をしているようだった。近づくとよく知っている甘い香りがフワッと押し寄せてきた。台の上には数百、数千の褐色のサヤインゲンのようなものがあり、それが香りの正体だった。

「バニラビーンズですよ」

「え、バニラ……」

 バニラといえばアイスクリームの種類のひとつくらいに考えていた私は、この干からびたサヤインゲンがバニラビーンズと言われてもピンとこなかった。しかしたしかにこの香りはバニラだ。バニラとは豆だったのか。コーヒービーンズがじつは豆ではなかったはずだから、これも豆ではないのか。*海南島ではじめてコーヒー園で栽培されているコーヒーの実を見てグミみたいだと感じ(1988年)、ルエンゾリ山に登るときにはじめて野生化したコーヒーの木を見つけた(1990年)。それにしてもバニラはなんという甘い魅惑的な香りだろうか。かつて味わったことのない心をとろけさせるような香り。それまではアイスクリームを買うときも、バニラ味を選ぶことはなかった。バラも似たようなものだ。バラの香りはあまり好きでなかったが、ブルガリアで(1998年)はじめてバラの谷に行って以来、それが好きになった。バニラやバラの香りも、あるいはココナツの香りも、どこか人工的な感じがして好きでなかったが、現地で本物に接してみて、逆にもっとも好きなものに転じている。これは固定観念や偏見の問題だ。われわれはある人物を(それが有名人であれ、身近な人であれ)枠の中に勝手に当てはめて好きだとか嫌いだとか言ってみたりする。しかし実際に会ってみると、イメージとちがってすばらしい人間、好みの人間であることが往々にしてあるのだ。

 なぜこの話を長々としたかといえば、心のどこかに、その申し出に乗ってみるという手もあったのではないかという気持ちがいまだにくすぶっているからだ。私はサンプルとしてもらった20本くらいのバニラビーンズをしばらく部屋の中に置いていた。半年くらいは香りが強く、一年後もまだ香りを放っていた。バニラの粒をアイスクリームにのせたり、お菓子作りを趣味にしたりしてもよかったのだろうけど、部屋に置いておくだけで心が休まった。バニラで商売をしてもよかったのではないかとときどき考えたけれど、もちろん現実的には週刊誌の仕事が忙しくてそれどころではなかった。

 ウガンダ(現在のコンゴ)のカンパラでは、地元の若者からミキサーを買ってフルーツジュースを作って売ろうと話を持ちかけられたことがあった(1989年)。これもまた現実的には無理な話だが、アフリカで商売するのもなかなか面白そうだとは思った。こういった転機になるかもしれない話は人生の中でたくさん転がっているものだ。大概は現実性がなく、時が経過するとともにあったことさえ忘れてしまうものだけれど。

でも1988年に香港の長洲という離島に行ったとき、そこが激しく気に入り、「ここに住むなんてことはできないだろうか」とぼんやり考え、「いや、無理だろ」と自らに言い聞かせたものの、3年後に本当に移り住んだのである。移り住んだだけではなにも成し遂げていないではないかといわれるかもしれないけれど、ひとつ願望成就しただけでもたいしたものではないか。

                               (宮本神酒男) 



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