(4)アンボン島の偽りの平和 

                 宮本神酒男 

 ウォレスが天然の良港(ほとんど内海といってもいい入り江)であるアンボンを気に入っていたのは間違いない。「いにしえの町アンボン郊外の砂だらけの道や影の多い通りを、朝や夕方ぶらぶら歩くのは、何よりも楽しいことだ」という彼の感想は本心から出ているだろう。セーラム島の森で虫にかまれたあと、彼はアンボン島の自宅に戻り、一息つくことができた。

 私がアンボンを訪れたのはマルク諸島の宗教紛争勃発(19991月)よりもさらに十年以上も前のことなので、その記憶はベールのような霧の向こうで薄れかかっている。しかし着いた日の夕方、宿を出て、時間がゆったりと流れるこぎれいな波止場をぶらぶら散歩したのをよく覚えている。海を背にして陸(おか)を見ると、右側がイスラム教徒、左側がキリスト教徒の居住区のようで、平穏そのもの、うまく住み分けができているのだなあと感心した。それはいつ破裂するかわからない一時の平和だったのだけれど。

衝動的にイスラム教地区のなかに入ってみた。それほど豊かではなさそうな住宅地が丘の斜面に広がっていた。その合間の小道を上がっていくと、道は迷路のようになっていった。いつのまにか道はなくなり、気がつくと家の敷地内を歩いていた。不審な外国人そのものである。 

スケールはそれぞれ違うけれど、マラケシュやフェズのスーク、イスタンブールのグランバザールはもちろんのこと、新疆のウイグル人の町カシュガル、ジャカルタの下町、どこもイスラム教徒が暮らすところ、活動するところは迷路のようになりがちだ。私はそれを非難しているのではない。非難するどころか、イスラムの迷路に迷い込むのが好きでたまらないのだ。

 見かけがポルトガル人のタクシー・ドライバーを雇って、私はアンボン島をぐるりと回った。当時、観光客が少なかったのか、村々で私は歓迎された。ある村では、何人もの男たちが近寄ってきて、「タカハシ、ヤマダ、ノムラ、みんないいやつだったよ!」となつかしそうに声をかけてくるのだった。昔、日本人はここで悪いことをしたのではなかったのか? 太平洋戦争のさなか、1942年に日本軍はオランダの基地があるここアンボン島を攻略し、支配下に収めている。贖罪意識を植え込まれた日本人としてはひたすら申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、中国、韓国以外ではこのように反感の度合いが少ないと感じる場合もかなりある。

 ある小学校でもなぜか歓迎されて、教職員全員と記念写真を撮っている。みんながニコニコ笑みを浮かべていて、私は何か特別なミッションを帯びた人物のようだった。当時海外旅行をするアジア人は少なく、諸外国をめぐるとまるで日本代表のような扱いを受けることはしばしばあった。ここはクリスチャンの村だったが、簡素な建築の教会だけでなくイスラム教のモスクも訪ねている。どこでも私は古くからの友人であるかのようにもてなされた。なんというすばらしい島だろうか! キリスト教6対イスラム教4の割合だが、宗教対立はなさそうだった(上述のテルナテ島やティドレ島は住人のほとんどがイスラム教徒)。この島はそういう問題とは無縁のように見えた。それだけに12年後に勃発した宗教紛争のニュースに驚き、心を痛めることになった。

 実際、ジャカルタの教会が燃やされたり、ティムール島で反イスラム運動が起きたりと、他の地域では宗教対立が顕在化していたものの、1998年末の時点では、アンボン島は平穏そのものだった。彼らの「あたたかい、もてなしを好む、調和を重んずる気質」はアンボン・マニセ(甘いアンボン)という言葉で知られていた。しかし1999年1月19日、すなわちラマダン明けの日(イスラム教徒にとってもっとも重要な日)に起きた小さないさかいからほころびが見え始めた。クリスチャンのミニバン運転手とイスラム教徒のブギス人の乗客との間に起きた喧嘩が大規模な宗教紛争へと発展したのである。とくにイスラム原理主義民兵組織、ラスカル・ジハードが参加してから局面が変わった。紛争はマルク州北部に飛び火し、ハルマヘラ島やテルナテ島、ティドレ島でも抗争が起きている。死者は4千人を超え、難民も40万人にものぼった。一度火がつくと、それは燎原の火のように広がった。楽園のような島は地獄のような島に一変したのである。



P. S. 

 ブラックマンの『ダーウィンに消された男』に描かれるように、ダーウィンがウォレスのテルナテ論文を受け取ったときにあわてたことは間違いないだろう。進化論発見者という名誉からウォレスを除外するために画策を練ったという陰謀論めいた主張に同意するのには二の足を踏んでしまうけれど。ウォレスにとってダーウィンはあまりにも偉大な先達であるが、博物学における功績においてはだれにも負けないという自負があったのではなかろうか。

 ウォレスが英国に戻るのは、なんと彼がテルナテ論文を送ってから四年後のことだった。生きた二羽の極楽鳥とともに帰還した彼の表情は勝ち誇り、意気揚々としていただろう。すでにサミュエル・スティーブンス宛に送っていた箱の中には、数千の鳥、蝶、カブトムシ、陸貝などのさまざまな標本が入っていた。彼にとってはアカデミックな理論より、南洋の豊かな生命のほうがはるかに興味深かったのではなかろうか。