ブレーキがきかないママチャリに乗って急勾配の下り坂を激走、吹っ飛んで水田へ。そしてヒッチハイク (1991年) 

「自転車はダメだ」私は奈落の底に落とされた。香港から中国(深圳)に入る国境上の税関で思ってもみないダメ出しを食らったのである。「なぜダメなのですか」この日のために10万円のマウンテンバイクを買ったのに、なぜ持ち込むことすらできないのかと、突っかかろうとしたが、国境の職員に聞いたところでまともな答えが返ってくるはずがなかった。「戻ってきたときにその引き換え証を出しなさい。自転車は保管庫に保管されますから」と職員はやさしく言ってくれたが、むしろつっけんどんに言ってくれたほうがましだった。
 仕方なく私は70リットルの大きなバックパックを背負い、カメラを入れた小さなデイパックを手にもって、つまりふだんのバックパッカー・スタイルのままで中国に入国した。そして列車で広州から貴州省の省都貴陽へと移動した。私は一人用の小さなテントやコールマンのガスストーブまで持参していたので、目的地であるミャオ族の中心地凱里までの自転車旅行をあきらめるつもりはなかった。貴陽市内でまず向かったのは自転車屋だった。

 通常ならば当時の中国人のイメージそのものと言っていい人民自転車を買っただろう。私もそのつもりでいたのだけれど、以前レンタルで乗ってみた人民自転車はサドルが高すぎて乗りづらく、チャイナ・クオリティーというのか、すぐ壊れた。私は目についた白地にピンク色が入ったこぎれいなママチャリを選んだ。人民自転車だけでなく、最近はこういうポップな感じの自転車も出ているのかと、少し中国を見直した。値段も手ごろ。じつは見た目がきれいということは、人民自転車よりもクオリティーが低いことを意味するのであったが。

 翌朝早くに出発するとき、私はあふれ出る開放感を抑えきれず、天まで届けとばかり両手を広げて背伸びした。ペダルを踏み、風を切る。わがママチャリの乗り心地はよかった。人民自転車にしなくてよかった。凱里までは300キロくらいだろうか。平均時速15キロで走れば20時間。ここは雲貴高原であり標高は1500メートル以上で、もちろん山をいくつも越えなければならない。変速ギアがついていないママチャリなので、上り坂は相当に苦労するだろう。それでもなんとか三日で踏破しよう。

 毎度ジョギングするときもそうだが、10キロ走くらい楽々と思うのに、走り始めたとたん体が重くて「しんどい、もうやめようか」と弱音を吐くことがある。このときもそうだった。さすが雲貴高原だけあって、いきなりアップダウンが多く、なかなか平地を走るようにはいかないのだ。

 ふと、ブレーキがあまり効かなくなっていることに気づく。よく見ると右ブレーキの接続部分が断裂していて、効きが悪いどころか、まったく効いていなかったのだ。走り始めて3時間。それほど使っていないブレーキが早くも壊れてしまった。左ブレーキもかかりが悪かった。なんとか凱里までもってくれ。この一か月はこのママチャリで乗り切ろう。

 峠まで登り切ったところで夕暮れになったので、私は道から少し離れた木の下にテントを張った。テントは不思議なものだ。勝手に空間を仕切っただけなのに、そこはゆるぎない自分の領地である。道路はほとんど車が通らず、近くに民家はなかった。私は小川で水を汲み、コールマンで湯を沸かして紅茶を飲んだ。はじめからマウンテンバイクなどなくても(シマノのスペシャルなマウンテンバイクで、本体だけで10万円くらいした)十分ツーリングできるではないかと思い始めていた。

 夜が白々と明け始めると、私はもう一度お湯を沸かして紅茶を飲み、カロリーメイトを朝食として食べた。そしてふたたびママチャリに乗り、でこぼこの舗装された山道を進み始めた。しばらくゆっくりと坂を上がっていくと、今度は下っていた。下りながら、加速がついていったとき、私は恐ろしいことに気がついた。このあと二百メートルくらい急勾配の坂を下っていくと、そこで道が終わっているのだ。たぶん左に直角に折れ曲がっているのだ。曲がり角の向こうには水田が広がっているようだった。ママチャリは加速がついてものすごいスピードで走っていた。ブレーキは両方とも効いていなかった。倒れるべきか? いや倒れたら大ケガをしてしまうだろう。まっすぐ進むしかなかった。風はビュンビュンと音を立て、気体から固体に変化しようとしていた。坂道の先には側溝があった。わがママチャリの前輪は側溝に引っ掛かり、それを軸として私の体は放物線を描いて飛んでいった。私は背中から落ちた。水の中ではなく、土の褥(しとね)の上にドサッと。水田ではなく、あぜ道だったのだ。新品のママチャリはあちこちにゆがみが出て無残な状態だったが、ブレーキ以外はさほど問題ないようだった。私はここで負けてなるものかと、ママチャリを持ったまま、トラックをヒッチすることにした。

 そう、ママチャリの両ハンドルを握ったまま道端に立ち、ときおりやってくるトラックに手を挙げることにしたのである。ママチャリはトラックの荷台に載せればいい。

 一台目。手を挙げたが、トラックは気づかないのか、無視しているのか、通り過ぎていった。二台目、三台目も同様。ヒッチハイクをしたことがある人なら理解いただけると思うが、ひたすら忍耐が必要である。百台無視されても、へこたれてはいけない。しかし百台に無視されたなら、何か根本的に問題があると考えなければならない。

 四台目、私が手を挙げると、運転手は親指をグイっと上げて、「イエーイ!」と叫んだ。私をたんなる自転車冒険野郎と認識したのである。たしかに自転車を持っている青年はヒッチハイカーに見えなかった。

 そこで私は重大な決断を下す。それは買ったばかりの自転車を捨てるということだった。粗大ごみを捨てていくのかと不快に思う人がいるかもしれない。しかしそれは粗大ごみどころか最高のプレゼントだった。だれかが言っていたが、中国では、自転車は買ったときには十分でなく、何度も壊れて、修理をしていくたびによりよいものになっていくと考えられていた。わがママチャリのブレーキは壊れているが、簡単に壊れるのは普通のことで、ここから状態のいい自転車にグレードアップしていくのである。近所の農家の人がこの自転車を見つけて喜ぶ姿を私は思い浮かべた。

 自転車から離れて道端に立った私はさらに何台かのトラックに向かって手を振り、十台目くらいの小さめのトラックをようやく射止めることができた。捨てる神あれば、拾う神あり。ヒッチハイクの鉄則だ。無謀な若者が好きな人はどこの国にだっているのだ。そこから数時間、私は四十代の運転手と彼の家族のことや日本、中国の情勢について漫然と語り合った。運転手は漢族だった。「中国西南少数民族」との長いつきあいは、ミャオ族の都ともいわれる凱里、さらにはその東の台江県施洞に着いてから始まろうとしていた。

                   (宮本神酒男)