40度以上の高熱でダウン、緊急入院。枕元に現れた女性は幻影ではなく、日本人残留婦人だった。雲南弥勒 (1991年) 

                宮本神酒男 

 三度も公安に拘束された経験を持つ私ではあるが、意外なことに、公安の人にはいままで何度も、何人からも、考えられないくらい親切にしてもらったり、窮地で助けてもらったりしている。彼らにたいしては感謝の気持ちでいっぱいだ。

1991年夏、私は雲南省の昆明から東南へ180キロの弥勒県というところにいた。弥勒県は町の中心部の決められたホテルにのみ滞在が可能な外国人準開放地区だった。この県の山の上のほうで農暦(旧暦)六月二十四日、二十五日におこなわれるアシ族(イ族支系)の火把節(たいまつ祭り)を見ようと考え、とりあえず町にやってきたのである。伝説によれば、彼らの祖先は金沙江(長江上流)の川岸に住んでいたが、大理近くの洱海(アルハイ)地方の奴隷主によって塔の建設に駆り出された。不当に虐げられた彼らはアチェンというリーダーのもと反乱を起こし、奴隷主を殺した。自由になった奴隷たちが解放を祝ったのが祭りの起源だという。私にはこの伝説がどうしても改変されたもののように思えてならない。奴隷主というのはおそらく南詔国の国王であり、支配されていたイ族が反乱を起こし、南方へ逃げたのだろう。共産党中国のもと共産主義的な(階級闘争的な)物語に変わっている。

さて、町中の少しいいホテル(といっても一泊2千円ぐらい)にチェックインした私は外に出て、旅行社を探し、アシ族の祭りの情報を得るつもりだった。

 ところが腰を上げようとすると、体中溶けた鉛がまわったかのように重く、手も足も思うように動かせなかった。目に見える世界が熱を帯び、裂け目から蒸気が上がった。そのうち部屋の壁も室内灯もベッドもみなゆがみはじめた。そして鼻孔から火炎を噴射した。

 やばい、これは相当変調をきたしているぞ、と私は厳しく問いかけるように自分に言った。そのとき、部屋の扉が叩かれた。

 なんとか体をもたせて扉をあけると、やさしい目つきの中年の公安(警察)の男が立っていた。

「えらくすまんが、外国人はここに泊まることはできん。賓館のほうへ移ってもらわんと」

 私がまっすぐ歩けないことに気づいた彼は、左肩にわがバックパックを掛け、右肩にわが左手を回させ、私をかかえるようにして、ゆっくりと歩き始めた。超人的なパワーの持ち主である。半時間かけて外国人が泊まれる賓館に着いた。チェックインなど手間のかかることは省かれて、部屋に入れられ、私はベッドの上に転がった。世界が休止してしまったかのように静まり返った。しばらくすると扉の向こうのほうから数人の人の気配がやってきた。公安の男は白い清潔な服を着た医師らしい初老の男を連れていた。医師はまず体温計を私に手渡し、体温を測らせた。目盛りを見た医師は表情を変えずに「かなり熱があるようだ」と言った。

 私自身も数字を見た。予想とかなり違っていたため、目はなかなか数字をとらえることができなかった。40・3という数字はシュールすぎた。中国の体温計と日本の体温計は違っているのではないかと思った。

「ひどい熱だ。病院でゆっくり休みなさい」かくして私は即入院ということになった。

 人民病院の薄暗い病室で点滴につながれたまま、私は何時間まどろんでいただろうか。終わりのない夢を見つづけていた。おそらくずっとうなされていた。混濁した意識のなかで私は影が枕元に近づいてくることに気がついた。影は言った。

「あなたは日本人ですね」

 不意打ちを食らったかのようで、私は顔を動かさずに影のほうを見た。夢でもなく、幻でもなく、たしかに初老の女性がそこにいた。ぎこちない日本語から、公安が日本語の少しできる人でも呼んだのかとぼんやり考えた。私は声を絞り出そうとした。

「わたしも日本人なんですよ」

 私の気持ちを見透かしたかのように女性は言った。どういうことだろうか。日本人ひとりだと寂しいだろうからと、公安が気をきかして日本人を呼んだのだろうか。すっかり目が覚めた私は体を起こそうとした。しかし彼女がしぐさで、そのままでいいから、と示したので、私は頭を枕に戻した。

「日本人が入院したと聞いて、心配して病院に来たのです。もう何十年も日本人には会っていなかったのです」

「それはどういうことですか」やっと声が出た。

「戦時中、看護婦として満州に渡りました。当地で知り合った中国人男性と結婚し、戦争が終わったあと、ここ雲南弥勒の夫の実家に移ってきたのです」

 いわゆる残留邦人であることがわかった。彼女の身の上話は小一時間つづいた。後日わかるのだけれど、阿恵(アホイ)こと五十嵐美恵さん(中国名伍恵珍)はすでに中国ではよく知られた存在だった。鐘一夫という作家が86年に彼女の数奇な生涯について書いたルポルタージュ文学を発表していたのだ。そしてこの作品を原作としたテレビドラマシリーズ『阿恵』が二年後の1993年に放映され、彼女の知名度は一躍全国区となった。さらに同年に『雲南故事』(邦題は雲南物語)という映画(監督は女性で張暖忻氏。95年、惜しくも癌のため55歳で亡くなった)が作られた。(おそらく)日本での上映に合わせて「ニュースステーション」で彼女の特集が組まれた。96年には帰国しているという。(そのあたりのいきさつはよく知らない) 

 ドラマや映画によると、恋に落ち、結婚した男性はすぐに亡くなり、彼女は男性の弟と再婚している。彼女はその後40年以上にわたって雲南省弥勒県の山間部で働きながら子育てをしていくことになる。日本人であることを隠して動乱の時代を生き抜いていくのには並々ならぬ苦労があっただろう。

 さて、私はもっと長く弥勒に滞在したかったが(40度を超える高熱を発しているのだから一週間は入院すべきだったと思う)当時私は中国の少数民族をきわめたいと思っていたので、石林のサニ族の火把節(たいまつ祭り)を逃したくなかった。翌日38・5度にまで熱が下がったので、私は病院長に頼んで退院し、石林行きのバスに乗った。その翌日の祭り当日には37度台にまで下がっているので、移動しながら治していくという無茶な方法が功を奏すというかたちになった。結局病因はわからずじまいである。弥勒に来る前は亜熱帯気候のシーサンパンナにいたので、デング熱にかかったのかもしれない。しかしまあ、謎の感染症が多いといわれる雲南なので、未知の風土病であってもおかしくない。最近ではハンタウィルス感染症の報告があった。作家のブルース・チャトウィンは自分の病気のことを「雲南でかかった真菌感染症」と呼んでいた。実際、彼はエイズにかかっていたのだが。

 のちに私は香港に戻り、水戸市在住の彼女のご両親に宛てて手紙を書いている。しかしやはり日本から離れているので、彼女のフォローを十分にすることができなかったのは心残りだった。彼女を帰国させるためのサポート体制が整ったということを聞いたので、私がこれ以上何かをする必要はなかった。彼女は煙草公司の単位(タンウェイ)で不満のない暮らしをしていた。五人のお子さんたちも大きくなりそれぞれ家庭を持ち、老後を母国で暮らすという選択をすることができた。「日本の味の何が恋しいですか」と問うと、彼女は迷わず「辛子明太子」と答えた。帰国後、もはや日本食に焦がれるということはなくなっただろう。逆に、日本の中華レストランでは味わえない中国の食事が恋しくなったはずだ。

 四川南部のどこかにも日本人残留婦人がいると聞いたことがあった。しかし五十嵐さんのように陽の目を見ることはなかったようだ。ドラマ化するほどではなかったにしても、日本人でありながら文化大革命などの動乱の時代を生き抜いていくのはたいへんなことだったろうと思う。人の一生というのはほとんどの場合「数奇な生涯」とはならない。どうして彼女たちだけが特殊な人生を歩むことになるのだろうか。

 ところで2005年、最初に弥勒を訪れてから14年後、私はこの町にふたたびやってきて、山間のアシ族の地域でおこなわれる火把節を見ることができた。火把節はいろいろなところでおこなわれるが、半裸のボディにペイントするというまさに稀有なインプレッシブな祭りだった。弥勒の町ではあの親切な公安の人に会いたかったが、町の中が変わりすぎて、もはや次元の違う世界に迷い込んだかのようだった。最初のホテルも、あとのホテルも、入院した病院もどこにあるのか、あるいはあったのかわからなかった。