ラサ入りの前、青海湖で考えた (1993年)
宮本神酒男
(1)チベットの独立について
はじめに断っておきたいのは、私はチベットが中国の領土の一部であることに対して異議を唱える者ではないことである。私はデモに参加した嫌疑で当局に拘束され、罰金を払い、国外退去処分を受けた。このように処罰も受けているのであり、官憲から逃げ回っているわけではない。
チベットの独立性に関し重要なポイントとなるのは1914年のシムラ会議だ。2003年から2011年まで何度も訪れている町シムラは、私にとって第二の故郷といってもよいほどなじみがある。大雑把にいえば円錐形の丘の麓から中腹にかけてインドの庶民の商店やレストラン、家があり、山頂あたりを削って作った天界のごとき別天地に、英国人が瀟洒なコロニアル・タウンを建設している。Hill Station(避暑地)という言葉がぴったりの美しい街だ。ここに英国、チベット、辛亥革命(1911年)を経て成立したばかりの中華民国の代表団が参加してチベットに関する会議がおこなわれた。
結局清朝が持っていた権利をそのまま継承しようとした中華民国とチベットの独立を認めさせようとしたチベットおよび英国との間で折り合いがつくわけがなかった。このときに中華民国抜きで決められたチベットとインドの国境は英国の全権代表にちなんでマクマホン・ラインと呼ばれる。
中華民国を継承した共産党中国は(都合の良いときだけ継承している感があるが)当事者が合意していないシムラ条約は無効で、ブータンの東、マクマホン・ラインの南側の九州の倍以上の面積を誇るアルナーチャルプラデーシュ州は中国に属するべきだと主張する。普通に考えて、この論理はおかしい。清朝がアンバン(駐チベット大臣)をラサに置き、チベットを属国としたのは1727年のことであり、それから200年近くがたち、清朝が滅んだ時点でなぜ駐屯する権利(外交を担う権利)があると考えなければならないのだろうか。
じつは1727年頃はモンゴルとチベットがフビライ汗の頃のようにタッグを組み、清朝に負けないような強大な国を作ろうとしていた。これに先立つ「偉大なるダライ・ラマ」ダライ・ラマ五世(1617-1680)の時代、チベットはその版図を急速に拡大しつつあった。このとき軍事面において強大なモンゴル軍の力を借りていた。明朝と清朝のはざまであともう少しでチベット・モンゴル連合国ができるところだった。もう一歩のところで清朝中国に押しつぶされてしまったのである。
私がなぜチベットとモンゴルの関係を持ち出すかといえば、中国人が編纂する歴史のみを残してしまうと、歴史上の大きな流れが見えなくなってしまうからである。元朝の頃、チベット仏教サキャ派が政治宗教上の力を得ていたチベットは、たんに中国の一部であったというより、モンゴル帝国との特殊な関係下にあったと考えるべきだろう。モンゴルのフビライ汗とチベットのパクパ(パスパとして知られる)の間には皇帝と国師という特別なチューユン(mchod yon)関係があった。ダライ・ラマ五世の頃、彼らモンゴルとチベットはその関係の復活を夢見ていた。
1914年から1959年(少なくとも1951年)までチベットは久しぶりに独立を謳歌することができた。異なる時代の政権(清朝)がチベットを属国として支配していたからといって、つぎの政権(中華民国)がチベットを支配すべきだと主張するのは無理があった。しかし言うまでもなく、「ラサの春」は長くはつづかなかった。