(3)湖の心臓 

                   宮本神酒男 

 順序は忘れたけれど、われわれは青海湖の西方にある茶塩湖(チベット語では塩田を意味するツァカ)でトロッコに乗って塩湖を横断し、青海湖西端の鳥島で数万羽(最大222種、16万羽)の鳥がつどうさまを眺め、そのあと緑の絨毯のような牧草地を散歩した。グループにかわいらしい妹的な存在の女の子がいた。彼女がそっと真っ白の羊の群れに近づくと、群れは彼女に気づかず、普段どおり草をむしゃむしゃと食んでいるように見えた。しかしじつは気づいていて、わずかに移動しているのだった。こうして女の子が羊の群れに近づいても、永遠に手で触れるほどの距離に接近することはできなかった。すぐにできると考えているようなことにかぎって成し遂げることができない、という教訓のようだった。*私はチベット高原で何度か野生のキャン(野生のロバ。ロバと馬の中間という感じ)の群れにそっと近づこうとしたが、やはり30メートル以内には近寄れなかった。キャンがこちらに気づいているとは思えなかったのだが。

 数万羽の鳥を眺めているときも、牧草地で白い羊を見ているときも、じつは湖の中央の小島が気になって仕方なかった。とくにきれいというわけでもないし、観光施設が建てられるという雰囲気もない。でも私はそこに行ってみたいと強く思った。

 同じ年、私は青海省同仁県(レコン)の新華書店で、チベット語で書かれた『シャブカル伝記』(下巻)を買った。わがチベット語能力では「楽しんで読む」のはほぼ不可能だったが、それが興味深く、面白そうであることはわかった。上巻を見つけたら買おうと思っていたのに、ついに書店で目にすることはなかった。この本は下巻だけでも大著だった。もし日本語に訳したら、2千ページ以上になってしまうだろう。そうこうするうちに、英訳が出た。訳者は『僧侶と哲学者』などで知られるマチウ・リカールである。二段組、大型本で700ページだからやはり相当の大著だ。

レコンに生まれた(下巻を買った新華書店は地元だった!)ニンマ派ヨーガ行者シャブカル(17811851)は天性の語り部である。彼はアンニマチェン山やツァリ山、カイラス山などさまざまな場所で修業し、巡礼の旅をつづけていく。彼は青海湖でもしばらくの間修業をした。その場所は――青海湖のどまんなかの島、ツォニン島(mtsho=湖 snyin=心臓、心)だった。私が気にしていた島である。冬の間は湖面が氷結するため陸地に行きやすく(そのかわり猛烈に寒い)、夏の間は島から容易に出られなくなる。意外にも修行にもってこいの場所だった。

 シャブカルは伝説上の人物ではなく、二百年前に実在した、チベットのあらゆる聖地で瞑想修業をした人物である。そんな彼が青海湖の小島において修業をし、瞑想の中で変身していく様子を自ら具体的に描写する。

 

 自身を神として想念したときに生まれた智慧から、鞍を着けていない白い雌の雪獅子が現れ、私はそれに乗った。そして金剛亥母(ヴァジュラヴァーラーヒー)の導きのもと、四肢を四方向の守護神に担がれた雪獅子に乗ったまま、私は天空へと上昇する。

 私はつづけて象、聖なる馬、ガルダ、竜、太陽、月に乗り、さらに高みへと上昇する。

 わがカタ(ショール)を両の翼とし、湖を渡り、峰から峰へと駆け、飛翔した。天空に私は水晶やエメラルドの長い梯子をたて、それを登っていった。するとそこは天界だった。そして私は梯子を降りる。

 すべての山や岩ははっきりと見えるがまだ実体化していない虹のようだと想像する。私はその中を出入りした。岩を泥と想念する。そして私はその上に手のあとと足のあとを残した。また岩をパン生地のようにこねて、いくつかの小さなかたまりに分けた。

 私はときには上半身が逆巻く水であると、下半身が燃える炎であると想念する。火を消す水はなかったのだけれど。私はダメージを負うことなく自分の体を裏返した。私はそれをウールのようにけば立たせ、水のようにそそぎ、如意宝や大いなる富の瓶、如意樹に変身させた。そしてそれらは必要とするすべてのものに雨として降り注いだ。

 私はつぎつぎと変身する神々を想念した。それは最後に現れた神が空の虹のように消えるまでつづいた。そして私は想念を越えた状態、すなわち天空のような空(くう)に落ち着いた。

 

 日本人の多くは瞑想法といえば阿字観を思い浮かべるかもしれない。シャブカルの瞑想法は上級者ならではのものであり、危険を伴っている。しかしそうはいっても、青海湖のようなチベットの絶景のなかで修業に励むことができるのはうらやましいかぎりだ。風景観みたいなものはないのだろうか。そう言っている時点で堕落の坂を転がり始めているのだが。