(1)ノルブとは何者なのか 
                  宮本神酒男 

 ノルブといつどのように知り合ったか、まったく覚えていない。アテネでぼったくり被害に遭ったとき、私を店に誘導したキプロス人の青年は声をかけてくる前に私に狙いを絞り、声をかけるきっかけを探していた。それとおなじようなことがあったのではないかと思う。もちろんキプロス人は小粒の犯罪者だったが、ノルブは幕末の志士のような大きなヴィジョンを持つ青年だった。

ラサに入る前、青海省のゴルムドで入域許可を得るためツアーに参加し、十人余りの外国人とともにバスに乗った。5千メートルの峠を二度も越える40時間近くの過酷な旅である。高い料金を払っているにもかかわらずバスは貸し切りではなく、三分の二は一般の乗客だった。もっともヒップホップ好きのアメリカ人の青年たちがやかましい音楽を車内に流し、外国勢でバスをジャックしたかのようだったが。ラサに近づき、遠くにポタラ宮が見えてくると、車内中ほどにいた赤い袈裟を着たチベット人の中年の僧侶がすっくと立ち上がり、「おお、ラサだ、ポタラだ!」と興奮気味に叫んだ。このアムドから来た僧侶にとって、そしてすべてのチベット人にとって、やはりポタラ宮はなにものにもかかえられない聖なるものなのだ。

 このバスツアーにはラサ市内一日観光がついていたので、外国人数人とともに(ほかはラサに着くと同時に消えてしまった)ポタラ宮やデプン僧院、セラ僧院、ジョカン寺などをガイド付きでまわった。個人旅行を好む人にはわかってもらえると思うけれど、ツアーで観光名所を回っているときはつねに「これは本物の旅ではない」という感覚がつきまとってくるものだ。ツアーならではの「とびきりの情報」が得られるにもかかわらず。ポタラ宮は閉まっている時間帯に(つまりほかに入場者がいない状態で)貸し切りで見ることができたし、「秘密の部屋」を特別に開けてもらった。いいこと尽くしなのだけれど、何にも縛られないで自由に動き、チベットの空気を満喫したかった。

 なんといっても私にはマウンテンバイクがあった。このアウトドア自転車に乗ってラサ周辺をまわったあと、ネパール国境に向かって出発したかった。その準備にかからなければならなかった。まず買わなければならなかったのは甘味のないきな粉のようなツァンパ(麦焦がし)である。保存食としてこんなに便利なものはほかにない。遊牧民だけでなく、巡礼地へ向かって広大なチベット高原を移動する人々にとって、ツァンパは必需品だった。ふつうはお茶(バター茶)を混ぜて、捏ねて、お茶を飲みながら食べる。それほどおいしいものではないが、慣れればそんなに悪いものでもない。携帯食はおいしすぎても、まずすぎてもダメなのだ。

 ノルブと知り合ったのはツァンパ探しをし始めた頃だった。おそらくあらたにラサにやってきた外国人のなかから話しかけられそうな者を探していたのだろう。悪いことを目論んでいたのではない。あくまでチベットの窮状をひとりでも多くの外国人に知ってもらおうと考えていたのだろう。

 ノルブは自分のことを難民と紹介していた。現在はスイスに暮らしているという。もちろんそれが本当かどうかはわからないが、欧米に住むチベット難民であることに違いはないだろう。そんなに簡単に里帰りはできるのだろうか。私は質問をぶつけてみたかったが、もし答えがノーなら、踏み込んではいけないところに踏み出してしまったことになってしまい、躊躇した。私はノルブに連れられて彼の家族(あるいは親戚)が住む郊外の家を訪ねた。話題はチベット文化全体のことだったと思う。たとえばチベットの食べ物とか、バター茶、酒、寺院や尼寺の生活などで、政治的な話はしなかった。多くの外国人はバター茶を飲むことができないが、私はスープでも飲むような気構えだったので、けっこういけた。私は25杯くらい飲んだので、チベット人たちも驚いていた。あとで歩いたとき、おなかのなかがチャポチャポと音を立てて揺れた。

 私は農貿市場でツァンパを買うつもりでいたが、ノルブが言うにはもっと安くて質のいいものが手に入るという。ノルブのあとをついてパルコル(八廓街)を抜け、デキ・シャル通り(北京東路)に出た。門から中に入ったのだが、私にはそこが何かよくわからなかった。お店でもないし、食堂でもない。ノルブは出てきた愛想のいい若い女の人と話している。彼女は奥のほうに引っ込み、しばらくしてから穀物袋を持って現れた。

「ここのツァンパはほんとうにすばらしいんだ」ノルブは楽しくてたまらないといったふうに言った。「信仰心の分だけおいしくなるんだ」

 私は愛想笑いを浮かべたものの、ポイントがつかめずにいた。穀物袋には5キロほどのツァンパが入っているようだ。しかしここはどこなのか。店でも食堂でも穀物倉庫でもないのに、なぜ注文すればツァンパ袋が出てくるのか。しかも質がいい? 応対してくれた女の子もとても愛想がいい。まるでこのまま結婚してもいいかのようにさりげなく息がかかる距離に近寄ってくる。

 ここはギュメという場所らしい。ギュメ、聞いたことあるぞ。そう、ここは由緒あるモンク・アカデミーだったのだ。いわばチベット仏教のイートン校だ。この時点ではそういったことはわからず、私にとっては質のいいツァンパを輩出する不思議な場所だった。

 ギュとは密教、あるいはタントラのこと。メは上下の下。ギュメ・タツァン(rgyud smad grwa tshang)で下密教学院という意味になる。この地にはもともと8世紀の有名な国王チソン・デツェンが建てたメル寺があった(現在はギュメこと下密寺密乗修院の50メートル隣り)。17世紀中頃、ダライ・ラマ五世がツァン地方にあった(創設自体は1433年。ツォンカパの高弟シェラブ・センギェによる)ギュメ学院をここに建てたのである。

 文化大革命(19661976)の間に仏像や壁画はことごとく壊され、建物の内部は荒廃しきっていた。そしていくつかの家族が住んでいた。上海の租借地の豪邸にいくつもの家族が住んでいたのと似たような状況だった。1985年にこの建物はギュメに返された。しかし1993年の時点ではまだまだ修復が進んでいなかったのである。現在ネット上で画像を見ると、修復工事はとっくに完成し、立派なチベット寺院のようになっている。

 ノルブに導かれて私は建物の屋上に出た。

「ここの眺めはすばらしいだろう? ポタラもよく見えるし、ジョカンは目の前だ。しっかりと目に焼きつけておくといい。じきにこういった風景も変容していくだろうから」

 ここにいるとまるで古きよき時代のチベットに戻ったかのようだった。はじめて間近に見る勝利旗(dhvajargyal mtshan)には圧倒された。チベット寺院の屋上によく見られる金色の筒状のものは、旗に見えないが、旗なのである。チベット人が好む八吉祥(タシ・タギェ)、すなわち傘、黄金の魚、宝瓶、蓮、右旋法螺貝、吉祥結、勝利旗、法輪という縁起のいいもの八つのうちのひとつだ。四方のマーラー(魔)と戦い、勝利したことを表している。

「チベットのものはすべて破壊されてしまった。仏像は壊され、多くの人が命を落とした。中国は修復作業を進めていくだろうけど、元通りにはならない」ノルブは悲しそうな顔をした。

 翌年から私は何年かつづけてラサおよびその周辺を訪ねている。はじめは多くの寺院が廃墟のようになっていたり、大半が壊されながらも本堂だけ残っていたりと惨憺たる状態だった。同時に各地で修復作業が進んでいた。ポタラ宮殿は1995年のチベット自治区成立30周年に向けて急ピッチで工事が進められていた。94年だったか、宮殿に入ると、20人くらいの男女が歌をうたいながらザッ、ザッとリズミカルにステップを踏むように床を土で固めていくさまを見ることができた。この歌い踊りながら土木工事を進めていく壮麗なシーンはアムド(青海省)でも見たことがあった。歌はうまく、コーラスもしっかりしていて、このままレコーディングしてもいいのではないかと思えるほどレベルが高かった。

 私はのちにメリー・クレーグの『血の涙 チベットの叫び』を読んで感化され、中国はけしからん国だ、と心から思った。たとえばカム地方で巡回診療車が各地を回るのだが、それはチベット人女性の不妊手術や堕胎手術を強制的に行っていたという亡命した当事者の医師の話が載っていた。こんなひどいことが本当におこなわれていたのだろうか。ありえなくもない話であると思う。実際アムドで、90年代末、知り合いの女性が三人目の子供を産んだ。一人っ子政策はあったものの、少数民族は3人まで許されていた。しかし4人目は許さないと、当局の男たちが土塀(このあたりの土塀は3メートルくらいあり、要塞のように見える)を越えて侵入してくると考えられたので、彼女は急いで他の県に避難した。最近まで強制不妊や強制堕胎が行われていたのである。

 しかし同時に誇張やフェイク情報に気をつけなければならない。中国の巨大なプロパガンダに対抗するために、チベット亡命政府もプロパガンダを用意しているだろう。たとえば100万人のチベット人が殺されたと主張しているけれど、いくらなんでも誇張しすぎだろうとつねづね思っている。

 文化大革命に関してチベット亡命政府はどうとらえているのだろうか。アムドのある村で会った現地の初老の人は「ここにも紅衛兵がいた」と語りはじめた。目の前の麦畑を指し、「寒い冬、村の者はみなここに並べられ、長時間立たされたんだ」と言う。「紅衛兵が怖くて、身動きすらできなかった」

「それはさぞつらかったでしょう」

「いや、そうじゃないんだ」

 彼のいたずらっ子のような目を見て私は気がついた。彼は立たされていたんじゃない。紅衛兵のひとりだったのだ。紅衛兵であったことを彼はどうやら誇りに思っているようだった。

 話は単純ではない、ということだ。中国人がやってきて仏像を破壊するのなら、外国人から見れば白黒はっきりしている。ところが中国人がひとりのチベット人に仏像を破壊するよう命じたら、われわれはだれを責めればいいのか。もちろん中国人を責めることはできるが、命じられたチベット人に対してどうすればいいのか。

 また90年代はじめに雲南省のシーサンパンナを訪ねたとき、ほとんどすべてのタイ族の上座部(テーラワーダ)仏教の仏像が破壊されていた。文化大革命の間(19661976)に「毒」呼ばわりされた宗教は徹底的に弾圧された。ではチベットの寺院や仏像が破壊されたのは、文化大革命の一環ではなかったのか。チベット亡命政府としては頭の痛い問題で、文化大革命のなかで起こったことと認めれば、国内問題ということになりかねないのだ。国を奪われたのだから、国際問題のはずなのに。

 つぎの日ノルブと私はラサ市街地南のキチュ川の川中島を散歩した。いま地図を見るとそこは仙足島と呼ばれていて(もとの地名はわからない)島全体が整備され、市の建物、アパート、レストランなどが立ち並んでいる。一昔前は開発地だったのだろう。私たちが歩いた頃はほとんどが砂地で、まばらな松林に覆われていた。まるでパラレルワールドに生きていたみたいだ。われわれは砂をキュッキュッと踏みながら松の間を抜けていった。ノルブはいろいろとチベットについて教えてくれたのだけれど、妙に鮮明に覚えているのは、そこで見かけた明るい衣装を着た若いチベット人女性だ。彼女は砂場で遊ぶ少女みたいに砂地にうずくまり、顔を伏せたまま、小枝で砂遊びをしながら歌をうたっていた。

「何をしているんだろう」ノルブの話の腰を折って私は聞いた。

「あれは男を探してるんだね。チベットは貧しい家庭が多いんだ。中国はたくさんの奴隷を解放したと言ってるけど、あらたな奴隷が増えただけだ」

 意味を理解するまで時間がかかってしまった。野外で春を売る仕事をしているということなのか。顔を見ることはできなかったが、二十歳くらいの若い女だ。ほとんど人影を見かけないのに、商売が成り立つのだろうか。私は余計な心配をした。

 本当に余計な心配だった。数分とたたないうちに陰から中年の男が飛び出してきたのだ。教師のような雰囲気を持った漢族の男である。男のベルトがもう緩んでいるような気がした。この構図は悲しかった。チベット人の女を買う漢族の男。いや、おそらく、構図以前に根深い問題があるのだろうけど。

 

 翌日、ノルブに連れられてパルコルのはずれのチベット人専用の食堂に入った。中に入るとテーブルに座っているチベット人の客全員が前方を見ていた。視線の先にはテレビがあった。どうやらインド映画をみなで見ているようだ。食事の時間以外はこうやって庶民向けシアターになるのだ。われわれもここでインド映画を見るのか? それも悪くはないだろう。

 と思ったらノルブはテレビと客たちの間をずかずかと歩いて過ぎていった。私も客たちのほうに「ちょっとごめんなさい」といった表情を浮かべながらあとについていった。

 ノルブはそのまま厨房の中に入っていった。休んでいたらしい食堂の主人が立ち上がりながら、「おう、よく来たな」と笑みを浮かべて小さな卓をあごで示しながら、木椅子を二つ持ってきた。われわれが座ると主人はお茶の入ったコップを二つ置いた。

「ここならだれにも邪魔されない」ノルブは秘密クラブに案内したかのように感情を押し殺して話し始めた。

「5月23日が何の日か知ってるかい?」

「いえ、わかりません」

「チベットがすべてを失った日だ。1951年5月23日、この日に中国とチベットの間で17か条の合意がなされた。これはだまし討ちみたいなものだ。チベット政府が何も合意していないというのに、おどされた代表団が北京でサインしてしまった。これでチベットは独立を失ってしまった。悲劇がはじまった日として5月23日はとても重要なんだ」

 数年後、私はブラッド・ピット主演の大ヒット映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を見て、「ああこのことだったのか」と納得した。映画の中にンガワン・ジグメという人物が実名で登場する。はじめは主人公のことを心配してくれる愛想のいい好感の持てる人物として描かれるが、土壇場で裏切って中国の側に立ち、17か条協定をまとめるのに重要な役割を果たす。実際、その後国の要職につき、2009年に99歳の生涯を全うするまで、文革時代の不遇を除けば、つねに共産党の大物でありつづけた。中国のテレビのニュースでも私は何度もその姿を見ている。

 17か条協定とは、結局、チベットが主権を失い、中国の一部になるということだった。第1条には「チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族に戻る」という一文がある。40年ぶりに独立した地位を捨てよ、ということである。しかし清朝の時代、チベットは完全に中国の一部であったわけではなく、属国だった。
 問題は、ヤートンに避難していたダライ・ラマ法王とチベット政府の許諾がないまま協定が結ばれてしまったことだった。締結時に使用した国璽は偽造されたものだったともいわれる。もっとも、チベット政府が直接交渉に乗り出していたとしても、強圧的な中国政府の前に抵抗するのはむつかしかったかもしれない。

「もうすぐ5月23日だ。この日にはデモが行われるだろう」

「デモ? 独立を求めるデモですか?」

「いや、生活の改善を求めるデモだ。油や穀物が高すぎるからね」

「エスカレートすることはないですか? 独立を叫んだりしないですか?」

「さあ、それはわからないね」

 中国はじつはデモの国、ストライキの国といえる。それほど(年間10万件とか20万件とか)デモやストライキ、暴動が各地で発生している。社会主義国家としては、労働争議は認めざるを得ないのだ。国への陳情申し立て(信訪制度という)もさかんだった。だから公安(警察)や場合によっては武警(武装警察)が鎮圧に乗り出すことはあっても、大騒ぎにはならない。ただそれがラサで発生したとなると、同列に論じることはできなくなる。