(2)パルコルの中を逃走 
                   宮本神酒男 

 朝、ラサの町はいつもよりずっと静かだった。遠くで犬の吠えたてる声が聞こえたが、すぐにまた静まり返った。おそらくデモがおこなわれることが告知されていたので(あるいはだれもが知っていたので)、店という店がシャッターを下ろすだけでなく、頑丈な板を張って閉め切っていた。泊まっているホテルはジョカン(大昭寺)から200メートルしか離れていなかったので、人がちらほらとそちらへ向かいはじめているのがわかった。私は意をけっし、その流れに混じって歩いていくと、ジョカンの前にはすでに人だかりができていた。

 当時はまだジョカン前の通りは整備されていなくて、「オームマニペメフーム」とマントラ(真言)を唱えながら、何百キロにもわたって五体投地をしてきた、額にたこができているような全身真っ黒によごれた本格的な巡礼者も珍しくなかった。数年後、路面に敷石が詰められ、花壇がつくられ、街灯が並べられ、こぎれいになったら、そういった修業者然とした人々は激減することになった。近所に全国チェーンのスーパーマーケットがオープンし、ジョカンの正面に入る四つ角にチキンバーガー・レストランができたときは「とどめを刺された」ように思えたものだ。

 当日の午前八時、ジョカン寺前に集まっていた人のかたまりがゆっくりと流れだした。私はもちろんその中にはいっていたわけではなく、二百人ほどの人の群れが列をなしていくさまを立ったまま眺めていた。なんとなくデモっぽくなっていった。人間には行進本能みたいなものがあるにちがいない。人の背中の後ろを歩いていると、両手を前後に振り、両足を交互に出しながら、前についていきたくなるのだ。集まっていたほぼ全員がこうして整列して歩き始めると、私も末尾にくっついて歩きだした。

 通りの左右には何十人もの「見物客」が立って眺めていた。友人や知り合い、なかには家族を発見して手を振る人もいた。デモの列から飛び出して、友人を引っ張って仲間に加えようとする者もいた。逆に沿道から飛び入り参加する者もいた。こうしてデモ隊は膨らむ一方だった。あっという間に数百人のデモ隊になった。はじめはあくまで気軽に参加できるイベントだった。「独立を求める命がけの反政府デモ」ではなく、イベント会場で開かれた参加型のイベントのようだった。

 沿道に立っている人々の大半はチベット人だった。なかには応援するだけで十分といった感じで声を上げている人々がいた。一方でむっつりとした表情をしている人や厳しい顔つきの人もいた。デモを苦々しく思っているのかもしれないが、みなチベットの民族服チュパを着ていた。漢族の姿はなかった。商店やレストランを経営している漢族は店を閉め、板を張り渡し、奥に引っ込んで息をひそめ、外に出ないようにしていた。関わらないのが一番、とでもいうように。

 広い通りを行き止まりまで進んでいく。現在の地図を見るとこの通りは宇拓通りだという。宇拓はピンインで書けば「yu tuo」、チベット医学の祖ユトクのことだ。チベット医学病院がもともとこの通りにあったので、尊敬される大医学者の名にちなんだのだろう。通りの名の半分くらいはチベット名由来である。とはいえ町の真ん中にズドンと北京路が通っているのは露骨すぎる。百年後、日本が中国の大家族のもとに戻り、銀座通りが北京路になっていたら……。

 行き止まりは(現在T路地はなくなり、道がつづいている)鉄の門で、そのずっと向こうにラサ市政府の建物があった。デモ隊は門の前に止まり、シュプレヒコールをはじめるとともに、一部の人が投石をはじめた。これはいかん、と思った。こういうのを「暴徒化」というのだろう。もっとも、建物は見えないくらいにずっと向こうだったので、門の警備の頭越しに小石が飛んでいくだけで、人的被害も物的被害もほとんどなかった。

 途中、中国銀行や民航オフィスなど公的なイメージのある建物にたいして同様にシュプレヒコールをしたり、石を投げたりしたが、抑制が効いているのか、被害らしい被害はなかったのではないかと思う。ただ、相変わらず参加者は増え続け、千人規模から二千人規模へと膨らんでいった。

 デモ隊はゆっくりと、まるでその雄姿を脳裏にとどめようかとするように、ポタラ宮を見ながら回っていった。ジョカンの前を出発し、ポタラを回って、ジョカンに戻ってくる。デモをするとなると、このコース以外に考えられないだろう。同時にそれは民族心を煽る行為でもあった。ジョカンの中心にはチベット人の心の象徴であるジョウォ釈迦牟尼像が鎮座する。しかしポタラ宮の玉座には観音菩薩(サンスクリットでアヴァローキテーシュヴァラ、チベット語でチェンレシグ)の化身であるあのお方がいらっしゃらない……。おそらくだれもが同じことを考えていただろう。

 ポタラ宮の向こう側の北京中路(デキヌプ通り)と林廓(リンカル)西路が交差するところにヤクの像のモニュメントがあり、二千人を超えるまでに膨れ上がったデモ隊はそこで小休止した。するとだれかが群衆の中央に踏み台を置くと、若い女性がその上にあがった。彼女は力強い言葉で語り始めた。私は内容を理解することができなかったので彼女や耳を傾けているデモ隊の人々の様子を観察することしかできなかった。おそらく油やバター、穀物などの値段が上がっていること、生活に関連した料金が値上げされていることなどへの抗議を述べていたのだろう。それがどの程度逸脱していたかはわからなかった。政府批判も軽いものであれば見逃してもらえるだろうけど、過激なものであったり、独立を示唆するようなものであったりしたら、彼女は投獄され、長く獄中で生活しなければならないだろう。いずれにしても彼女の勇気は尊敬に値した。女傑である。残念ながら彼女がどうなったかはわからない。

 ヤクのモニュメントからの帰り、勢いのついたデモ隊は道幅のある林廓(リンカル)北路を道いっぱいに広がった状態で行進しはじめた。私はずっと最後尾についていたが、多少気がゆるんで中ほどに出てきて歩くようになった。チベット人たちといっしょに歩きながら気勢を上げると、一体感を感じた。

 無防備に歩いていると、近くを行進していた若くて美しい女性数人のうちのひとりが前を見たまま近寄ってきた。

「気をつけて」と彼女は英語で声をおさえて言った。「沿道にはたくさんの私服公安がいるわ。あなたのことをチェックしているから、ここを離れたほうがいいわ」

「ありがとう」私は急に不安でいっぱいになった。沿道に立っていた仏頂面の男たちは私服公安だったのか。チュパ(民族服)を着ているとついついチベット人だからいい人だろうと考えてしまうが、もちろんチベット人以前に中国の公安なのである。ともかく、デモ隊は暴徒と化したわけではなく、平和裏に行進しているのだから、われわれ外国人もとやかく言われることはないだろうと決めつけていた。考えてみれば、これ以上デモに関わってあえてリスクを負う必要はないだろう。

 私は歩く速度を落とし、さりげなくデモ隊の中央から離れていって、ついには沿道の人込みに紛れ、歩道を歩いた。私はほっとした。このままジョカンまでデモ隊に混じって歩いていけばかなりやばいことになりそうだったが、ここで行進から離れれば目くじらたてられることもないだろう。

 デモ隊の先頭を右に見ながら私は人混みをかき分けつつ前に進んだ。そしてジョカンの前に通じる四つ角に近づいたあたりから、大きな横断幕を持った数人の若者が興奮して、踊っているかのように体を動かし始めた。こぶしを挙げ、何かを叫んでいるが、内容は理解できない。まさか「フリー・チベット!」ではないだろうが、それに近い危険領域の言葉だったかもしれない。

 私のカメラマン魂に火がついた。まあ、私はカメラマンというわけではないけれど、わが内部の歴史の記憶をとどめたいという魂が熱くなった。この瞬間をレンズでとらえたいと思ったのだ。私は群衆をかき分け、横断幕を持ち上げた若者たちの前に飛び出た。二、三歩で蹴り飛ばされてしまいそうな至近距離に私はいた。わが広角レンズは若者たちの声を絞り出す口ぶり、らんらんと輝く目つき、飛ぶ汗、つばき、握りしめたこぶし、弾むバネのような足、はためく横断幕、それらを瞬時とらえた。彼らの表情は何かを必死に訴えていた。あがきに近い叫び声をあげていた。

一瞬時が止まった。一瞬ののち、一挙にすべてが動き出した。私は身を翻すようにして脇に退いた。ピューリッツァー賞ものの写真が撮れたはずだ。確信があった。しかし公安に見られていないわけがない。そう、私はすでに追われる身だ。逃げなければならない。どこへ? まず群衆だ。人混みの中に紛れるのがベストの方法だ。あえて人混みに体を押し込んでいく。どの顔も私の背後のデモ隊のほうを見ている。ぶつかってもだれも苦情を言わない。チベット人のおじさんやおばさん、年寄りをかき分けて進んでいく。

ジョカンの横からパルコルの小道に入る。コルラ(巡礼)の道以外は小道が迷路のように張り巡らされているので、逃亡にはもってこいだ。

 しかし小道に入った途端、「しまった」と心の中で叫んだ。群衆の表通りとはうってかわってひとっこひとり姿が見えないのだ。背後に人の気配がした。チュパを着てテンガロンハットみたいなチベット人好みの帽子をかぶっている。胸元に金属が見える。トランシーバーだ。私服公安に違いない。私は歩く速度を速める。50メートル先に男の姿があった。たんなる通行人かもしれないが、公安かもしれない。私は近くの角を曲がる。競歩の走者くらいに歩く速度をアップする。そしてまたつぎの角を曲がる。こうして何度も曲がって自分でもどのあたりにいるのかわからなくなった。左右どちらにも人の姿が見えないときは、数分間そこにとどまった。

 どうやらまくことができたようだ。逃げ回って30分、もう追っ手はいない。私は気を緩めて歩き出した。パルコルのはずれでは小さな麺(トゥクパやテントゥク)専門の食堂が開いていた。ほとんどのレストランや食堂がしまっていたので、ありがたかった。さきほど撮ったフィルムはカメラから出し、バッグに入れた。テントゥクを注文して出てくるのを待っているとき、チュパを着た男が入ってきた。彼は私の前にたちはだかり、「さあ、わかるだろう。一緒に来てもらおうか」と言い放った。

 このあと私は公安局に連行され、取り調べを受けることになる。もちろんフィルムは押収されてしまった。あの臨場感あふれる写真は陽の目を見ないまま終わってしまった。あとで隠す方法はなかっただろうかと考えた。しかし結果的には押収されてよかった。もしフィルムをうまく国外に持ち出したとして、それをどこかに発表したなら、たとえ匿名でもいずれつきとめられて、二度と中国には入国できなくなっていただろう。当時はくやしかったけれど、今になってみれば、逆にラッキーだったと考えている。

 当日公安局に連行されて取り調べを受けた外国人は相当に多かった。その意味で私は多数のうちのひとりにすぎなかった。ただもっとも早く拘束されて、もっとも遅く解放されていることから考えると、あやしまれてしまったのだろう。カメラを二台もっていたのだから、仕方ないかもしれない。取り調べは9時間から10時間に及んだ。お茶や水すら出ず、テントゥクも食べられなかったので、腹はペコペコだったけれど、異常な緊張のもとに置かれているため、空腹を感じることはなかった。むしろ下痢気味で、トイレに行ったときは係官がトイレの扉の前で待っていた。このとき窓を見ると二重の鉄格子になっていて、外の中庭には大きな銃を持った兵士が警備していた。

 取り調べに際し、私はありのままに話した。物見遊山でデモ隊の後ろについたけれど、それが何であるかはわからなかったと私は話した。大昭寺の前で写真を撮ったけれど、それ以外は撮っていないと正直に述べた。取調官によると、私は西蔵チベット自治区の条令の何条だかの「外国人は遊行(デモ)に参加してはいけない」に引っ掛かるのだという。いきなり外国人を規制してしまう文言が条例に入るのは、中国ならではといえるだろう。逆に言えば地元の人が参加するのは合法ということになる。

 夜中近くになってようやく解放された。出入口の外にはランドクルーザーが横付けされていた。運転していたのはホテルの人だった。「まるでたいへんなVIPみたいだな」と私は自らに自嘲気味に言った。あとで聞いた話ではホテルが2000元の保釈金を払って私を引き取ったらしい。あくまで噂だけれど。当時、ガセ情報が飛びまくっていた。ポタラ宮の裏手でチベット人の何人かが銃殺されたらしい、という衝撃的な噂も出回った。こういうフェイクニュースっぽい情報はどこから出てくるのだろうか。

 ホテルの門はえらく頑丈な板で閉じられていた。まるで堅固な要塞のようだった。外は昼間の騒ぎも終わり(群衆に向かって催涙弾が撃ち込まれ、けが人も出ていた)戒厳令の夜らしく、ひっそりと静まり返っていた。私がトントンとノックすると、板が少し開いて(その瞬間騒々しい音が漏れてきた)西洋人の男が顔をのぞかせた。「やあ、おかえり」

 どこかの部屋に入ると、まるで乱痴気パーティーのようだった。やかましい音楽をガンガンかけて、みな(国際色豊かな20人くらい)缶ビールを手に持って踊ったり、大声でしゃべったりしていた。部屋の中は煙が充満していて、ロサンゼルスあたりで開かれているマリファナパーティーを髣髴とさせた。いや、実際マリファナの匂いが立ち込めていたのだ。持ち込んだのはイスラエル人だろう。彼らは兵役を終えたあと、社会に出たり、大学に入ったりする前に長期で海外を旅行する場合が多い。軍隊生活が厳しすぎたため、つい羽目を外してしまうのである。
 国外退去を言い渡された私は沈鬱な気分になっていた。一方、多くの人にとっては「特別な日」、「特別な夜」であり、興奮せずにはいられなかった。もうみなが友だちだった。だれもがとなりにいる人に自分の体験を語った。驚くべきことに外国のメディアと関係している人(ヨーロッパ人)も何人かいた。「なんだよ、みんな正体を隠してたのかよ」と私は叫びたかった。私はアバンチュール気分に浸り、楽しくなってきたが、この匂いはさすがに「やばい」と思い、そっと部屋を抜け出て、喧騒の扉を閉めた。

 日本人も何人か拘束されていた。ある人はホテルに逃げ込み、屋上にのがれたが、屋上の端まで追い詰められて、捕まった。ある人は他人の部屋にうまく隠れたが、公安に探し当てられ、捕まった。こういうふうに日本人5人が拘束されたので、みなで車をチャーターしてネパールへ抜けることにした。結局三日後、この5人にスイス人を加えて6人で旅立つことになった。スイス人の青年は取り調べを受けたとき、係官にたてついて論じ伏せようとしたので、三日以内の国外退去を命じられていた。じつは私はその様子を遠めに見ていた。気持ちはわかるが、「担当の係官に罵詈雑言を浴びせたところで何の意味があるんだ」と言ってやりたかった。バスに乗れば三日以上かかるし、飛行機の便もすぐにはなく、車をひとりでチャーターすればたいへんな金額になるので、われわれのランドクルーザーに便乗させてもらうことにしたのである。

 その夜、1時を過ぎていたが、私はひそかに外に出た。電話局に行って北京の日本大使館に電話をするためである。ホテルの前の通りはほとんど車がなく、暗く、ひっそりとしていた。左を見ると、二百メートルくらい先に、公安の車がぽつんと街灯のセピア色の光の中にとまっていた。電話局はその先にあった。夜中の二時までここの電話局はあいていた。時計を見ると1時40分。ぎりぎり間に合う。しかしこのまま公安の車のほうに向かうとふたたび拘束される恐れがあった。

 私は裏通りを歩くことにした。パルコルに近いが、厳密にはパルコルの外である。路地に入ると、街灯もなく、いっそう暗く、静かだった。しかししばらく歩くと左の暗闇の中から何か異様なものが近づいてくるのがわかった。ドドッという足音、多数の激しい息遣い、無数の唸り声。野犬の群れだ。数十匹の野犬がうなりながらこっちへ向かってきているのだった。そして右の暗闇のほうからも数十匹の野犬の群れが走ってきた。こちらもみな歯をむき出したまま、唸り声をあげて近づいてくる。これは相当にやばかった。仁義なき戦いが私の目の前で勃発しそうだった。裏通りなので狭く、逃げ場がない。よく見ればどこかの家の玄関が少し奥まっていた。ここに逃げよう。私は玄関先に身を隠した。

 実際目の前で両軍は激突した。一匹一匹がぶつかり、かぶりついた。ガウ、ガウ、ガウ! 激しい、くんずほぐれつの肉弾戦が繰り広げられた。右の軍団のほうがやや優勢で、戦闘の場は左のほうへずれていった。私はその様子を見ながら、右の暗闇のほうへと歩いていった。

 ちなみに翌年ラサに戻ってくると、野犬はほとんどいなくなっていた。夜が安全になったという点では評価されるべきだろう。一方でポタラ宮近くの農貿市場に行くと、犬肉がたくさん並んでいた。チベット人は犬肉を食べないので、あの荒くれものの野犬たちは漢族の胃袋におさまったようである。

 われわれがチャーターしたランドクルーザーは出発して三日目にカトマンズに到着した。ふたたび拘束されることはないにしても、国境を越えるまでは何があるかわからないという不安な気持ちを払拭することができなかったので、正直、安堵した。

 しかしカトマンズに着くと、とくに日本人が多く泊まるタメル地区の日本人がよく行くレストランやおみやげやに「以下の者は日本大使館に連絡するように」という張り紙が貼ってあることに気がついた。5人の名が丁寧にも記されていた。われわれはそういう店一軒一軒を回って、「これ、もう終わりましたので」と頭を下げながらはがしていかねばならなかった。考えてみれば私が真夜中に電話局まで行って北京の日本大使館に連絡をしていたのだった。仕方なく、われわれはカトマンズ市内の大使館に電話をし、市内のレストランで公使と会食をしながら報告をした。

 ところで、デモの翌朝早く(朝5時頃)ホテルの門まで出ると、そこにはノルブがいた。どうなったか心配していたという。ゆっくりと、じっくりと話したかったが、彼は急いでいるふうで、「ではまた会おう」と言って立ち去った。しかしノルブとは二度と会うことがなかった。

 翌年、不安を感じつつも私は中国に入国し、ラサに戻ってくることができた。外国人がよく泊まるホテルの入り口には大きな告知板があった。ツアーを自分で作ったり、他者の作ったツアーに参加したりするのに、この告知板は便利で、必要不可欠だった。当然いつものように告知板を見て、私は驚愕した。よく知った顔の写真が貼ってあったからである。ノルブである。A3ぐらいの大きさの顔写真の下には赤い文字で「WANTED」と記されていた。このパサンという人物に要注意と書いてあった。パサン? ノルブというのは偽名だったのだ。この手配書を貼ったのはもちろん公安局だった。

 このときはじめて私は彼が地下組織の人間、しかもリーダーであることを知ったのだった。前の年、彼は姿を消したが、文字通り地下に潜ったのである。ラサにはチベットの独立を求める地下組織があると聞いたことがあったが、まさか本当にあるとは、しかもそのリーダーと自分が会っていたとは、夢にも思わなかった。ノルブ、いったいどういうことなのか、ちゃんと説明してくれ!