ウイグル人のシャーマン儀礼調査、直後に公安に拘束される (2007年)
宮本神酒男
(1)七人の制服公安が部屋になだれこんできた
ダンダンダン! ダンダンダン! ダッダッダッダッ! ダダダダダダ!
地獄の扉が叩かれるときはこんなけたたましい音がするのだろうか。来るだろうとは思っていた。ここハミ市(新疆ウイグル自治区哈密市)のホテルの部屋のドアがノックされることは予期していた。ただこんなにも激しく、しかも何人もの拳が鉄の板にくぼみができそうなほど乱打されるとは予想していなかった。内側のノブを回しながら私の頭の中は後悔でいっぱいだった。
この三年前、リス族の祭り(十年前、わが頭が変調をきたしたため行けなかった刀杆節という祭礼)を見るべくミャンマー国境に近い雲南省の村に滞在していたとき、夜中に三、四人の公安の突然の訪問を受けたが、大事に至らなかった。こんな辺鄙なところに来るのは麻薬取引のためにちがいないとにらんだのかもしれない。そのときも「悪いことをしているわけでもないのに、何をビクビクしているのだ」と自分に言い聞かせた。
しかしそのときと今回はまったく違っていた。なぜ後悔していたかといえば、数時間前、私はある人物から警告をうけていたからである。具体的に指南されたにもかかわらず、私はいま、鳥黐(とりもち)に捕らわれた鳥のようになすすべがない状況に陥っていた。
この日のお昼前頃、部屋の電話が鳴った。タクシー運転手からだった。二日前、たまたま拾ったタクシーが彼の車だった。彼をパッと見たときは漢族かと思ったが、話しはじめてすぐにウイグル人だとわかった。私はこのタクシーをチャーターし、砂漠の中にある村(ハミ市から70キロのロプチュク村)でとても珍しい、いわば絶滅危惧種のシャーマン儀礼を見ることになる。まずシャーマンを探し(先代のシャーマンは何年か前に物故していた)、必要なものを買いそろえるなど、こまごましたことまで協力してくれた。私はシャーマン儀礼をあやしげな宗教活動とはみなしていなかった。むしろ保存すべき伝統芸能であり、共同社会の潤滑油の役目を果たしていた。しかしイスラム教以前の太古の昔からあるシャーマニズム文化は、共産主義者だけでなく、身内のイスラム教、とくに原理主義者からも忌み嫌われていた。
「やあ元気か」タクシー運転手の声とすぐにわかった。
「はい、少しおなか壊しているけど、まあ元気です」
「ちょっと出てきてくれないかな。ホテルから遠くない空き地で待っている」
こちらが返事をする前に電話は切れていた。私はこの人物が好きだったので、もう一度会えることになってうれしかった。おそらくお昼ご飯をいっしょに食べようということなのだろう。
ホテルを出てしばらく歩くと空き地があり、そこにタクシーが止まっていた。小走りに近寄り、後ろの扉をあけ、滑り込むように中に入って後部座席に座った。エンジンがかけられ、市内のレストランに向かって出発する、とはならなかった。運転手は後ろを向くこともなく、抑揚をつけないで語り始めた。
「ここから出ていけ」
「え?」
「バスでも列車でもいい、とにかくどこか、たとえば敦煌に行くといい」
「敦煌?」
「敦煌は甘粛省だからな。新疆から出ていってくれ」
「ええ、まあ」
「いま公安がおまえを血眼になって探している。市内の反対側からホテルをしらみつぶしに当たっているという。11か12の外国人が泊まりそうなホテルすべてだ。いずれ彼らはここに来るだろう。幸いもう少しだけ時間がある。だがそんなにあるわけでもない。だから今すぐ荷物をまとめ、チェックアウトして、この町から出ていくのだ」
「ええ、わかりました……」
「ではすぐにホテルに戻ってくれ」
結局彼の顔を見ることはなかった。どんな表情だったかわからなかったが、おそらく相当に険しいものだったろう。私のほうはといえば、まだ呑気なところがあった。運転手の言葉どおりだとしたら、公安はまるで重大犯罪をしでかした逃走者を追いかけているかのようではないか。シャーマン儀礼のどこが犯罪だというのか。宗教学者ミルチャ・エリアーデ(名著『シャーマニズム』の著者)が泣いて喜びそうなシンボリズム(たとえば宇宙樹、世界軸)にあふれた儀礼のどこに犯罪性がある?
それに私は公安の訪問に慣れていた。ほとんどが「ここは外国人に対して未開放の地域だから出ていきなさい」と注意されて終わった。公安は大概真夜中にやってきた。雲南省南西部の瀾滄県のホテルに泊まっているときも、夜中の二時に公安がやってきた。革ジャンを着て鍵の束をジャラジャラさせている暴走族風の男が公安に見えず、私は身分証の提示を求めねばならなかった。上述のように、ミャンマーとの国境近くの村の宿に滞在しているときは、真夜中、三、四人の制服公安がやってきた。おそらく私は麻薬の取引をしているヤクザと思われたのだろう。そうでなければこんな辺鄙な場所に何をしに来る?(リス族の祭りは一か月のちだった) ラサではデモに参加し、雲南のクリスチャンのチベット人村ではクリスマスを過ごし、拘束された。しかしそれ以外は口頭で注意を受けただけだった。
私はホテルのフロントを通じてバスや列車を探した。バスは午後以降の便がなかったし、列車もすべて座席や寝台の空きがなかった。ハミは大きな町だったが、途中駅のため、なかなか当日の空きがなかったのである。しかも腹痛がますますひどくなっていた。私はドンとかまえて公安を迎えることにした。犯罪者でもないのに、逃亡する必要があるだろうか。昆明市の宿泊しているホテルに戻るとき、門近くの多数の売春婦が群れている歩道を歩いていた。そのときサイドカー付きの公安のバイクがやってきて、歩道に車体を乗り上げ、彼女らを一斉に検挙しようとした。キャーと叫びながら逃げ惑う彼女らに混じって私は走っていたが、思い直して、立ち止まった。走ったら、売春婦を買っている客みたいではないか。言ってみればそのときとおなじで、犯罪者ではないのだから、逃げないほうがいい、そう思ったのである。しかしこの判断は軽率で、まちがっていた。取り返しのつかない、大間違いだった。
部屋の扉が開くと、防波堤を越えた大津波のように七人の制服公安がなだれ込んできて、私の体を弾き飛ばした。