哲人のようなギリシア人に10万円盗られた (1991年) 

                    宮本神酒男 

 

(1)ギリシア人と各地をめぐり、祭りを見る 

 そのギリシア人の苗字は今でも憶えている。カツァギリス。こんな覚えにくい名前を三十年たっても忘れないのは自分でも意外なことだと思う。さて、クイズ。「逆噴射」で世間を騒がせた羽田沖日航ジャンボ機墜落(1982年)の機長の名は? 答えは片桐機長。ある程度歳の人ならばだれでも知っているだろうし、若い人ならまったく知らないだろう。

 はじめて会ったとき、ギリシア人は「わたしの苗字は覚えにくいだろうから、日本人に会うと片桐と呼んでくれって言うんだ」とニヤリと笑いながら語った。「わたしはよく築地の寿司屋に行ったもんだ。そこでカタギリの名を出すと、みんな友人の名前でも出されたかのように喜んでくれたよ」

 逆に覚えているはずの彼のファーストネームをすっかり忘れていた。この一か月ときどき「なんだっけ?」と自分に問い合わせて、ようやく思い出した。テッドである。でもアメリカ人じゃないのだから、それは愛称のはずだ。本名はおそらくテオドロスだろう。アメリカに渡ったなら、セオドアと呼ばれるはず。セオドア・ルーズベルトのセオドア。セオドアの愛称がテッドだ。

 90年代はじめ、四川省成都の真ん中を流れる錦江(ジンジャン)の畔のオープンカフェは外国人、とくにバックパッカーのたまり場だった。私は近くの交通飯店というホテルに宿を取り、どこかへ出かけるとき以外はここでコーヒーを飲んだり、食べたり、本を読んだり、欧米のバックパッカーとおしゃべりしたりした。

 ここは欧米のキリスト教布教グループの拠点ともなっていた(もちろん客の大半はごく普通の観光客や市民だ)。当時、中国内には公に認められたガバメント・チャーチとアンダーグラウンド・チャーチ(地下教会)があった。布教グループからすれば、地下教会のメンバーだけが真のクリスチャンだった。このあたりのことは別項で詳しく書きたい。ともかく、錦江の畔には、貧乏旅行者だけでなく、中国の庶民と接したい西側諸国の旅行者もたくさん集まっていた。一方で西側の文化のことを知りたい中国人もたくさんやってきていた。

 そのなかでテッド・カツァギリスはスターだった。年齢は四十代後半と、バックパッカーのなかにあってはいささか年を食いすぎていた。しかし映画『薔薇の名前』で主人公を演じるショーン・コネリーのように知的で、渋く、背が高く、行動的だった。ともかくもギリシア人はヨーロッパ人(つまり価値観を共有する人々)であり、同時にギリシア哲学を生み出した土地柄の人たちだった。それに彼は世界中を旅していた。彼はその目で世界のあらゆるものを見てきたのである。英語もうまかった。経験に裏打ちされたエピソードを、知的で、洗練された話しぶりで、流暢に英語で語ることができた。しかも彼は写真家だった。アーティストなのである。愛機はいかにも高価そうなライカだった。使っているのがニコンF4であれば「なかなかいいカメラですね」と気軽に声をかけたくなるけれど、ライカともなれば、「もしかして高名な写真家さまでは」とビビってしまう。

 はじめて彼と会ったのは貴州省凱里の姉妹節の会場だった。農暦三月十五日だから四月下旬である。私は朝早くから祭り会場へ向かう銀細工で飾った民族衣装を着た少女たちの様子をカメラに収めたりしていたが、肝心の踊りのシーンはわずかしか撮らなかった。というのもいっしょに来ていた施洞村のミャオ族の娘が「こんなの見たってつまんないでしょ」と言って私を野山に連れ出したからだった。この日は万葉時代の日本のように野山であいびきして歌を詠みあう游方(ヨウファン)あるいは馬郎(マーラン)と呼ばれる風習が実践される日だった。

別項に記したように、ママチャリに乗って貴陽を出発したものの、自転車が壊れたので、私はトラックをヒッチし、その助手席に乗って凱里までやってきた。凱里からバスで施洞村へ移動するとき、トン族の若者と親しくなった。この彼が訪ねようとしていたのがこのミャオ族の娘だった。彼女は貴州電視台のテレビクルーが姉妹節に絡めた番組を作る際の現地の紹介者兼出演者だった。というわけで、翌日、テレビクルーが入った施洞村の姉妹節を見ることになった。

 最終日(凱里に来て三日目)だけ私は凱里のホテルに泊まった。このときテッドと部屋をシェアした。彼とはじめて会い、何時間も話をしたのである。

 翌朝私より一足早く、彼は貴陽、昆明へ向けて旅立っていった。彼が去ったあと、ベッドを見ると、シーツの上に鉄のチェーンが転がっていた。首に巻くのか、手首に巻くのかわからないが、装飾品のチェーンである。私は「なんかわざとらしいな」と思ったのを覚えている。貴重品というほどのものでもないし(つまり最悪なくなってもかまわない)、置き忘れるにしては目立つ場所である(つまり意図的に置いた)、そういうことから、私にみつけさせようとしていると感じたのである。

 貴陽市内や花渓公園をぶらついたあと、一日遅れで私は昆明に着き、茶花賓館にチェックインした。そこでテッドと再会した。チェーンを持ってきたことを知ったテッドはいささかおおげさに喜んだ。

「ああすばらしい! ありがとう! 置き忘れたことに気づいて、がっかりしていたんだ。でもあの日本人なら持ってきてくれるにちがいないと思ってたんだよ」

 私は漠然とこれは何かの布石ではないかと考えた。実際、あとで考えればそうだったのである。しかし彼が私に求めていたのは、第一にインフォーマント、すなわち情報提供者だった。彼は英語こそたくみだが、中国語はまったく話せず、もちろん漢字は読めなかった。当時私はそれほど中国語が話せなかったといっても、漢字は読めたし、祭りの情報も持っていた。

「これからどこへ行くんだね?」

「イ族の祭りですよ。大姚県ってとこの」私は凱里でその話をしていた。姉妹節はガイドブックに紹介されているかもしれないが、こちらの服装節(あるいは賽装節)はきわめてマイナーだった。知られざる祭りということは、希少価値があるということだ。彼がいっしょに行きたがっていたので、私は喜んで同意した。知らない土地にひとりで行くのはやはり不安だったのだ。

 服装節が開かれる農暦三月二十八日より少し前、三月二十四日に牟定(ムーディン)で牟定三月会が開かれるという情報を得ていたので、われわれはひとまず昆明から150キロほど西方の大きな町楚雄にバスで移動した。楚雄の名の由来はよくわからないが、春秋戦国時代の大国楚の領域の南端に位置するらしい。牟定は楚雄から50キロほどの山に入ったところにある小さな町だった。

 昔、牟定の町の郊外に竜潭(竜が棲む池)があった。ここに棲む竜が三、四月になると暴れだし、周囲の田園に膨大な被害を与えていた。そこで知県(昔の県長)は民に命じて燃える炭を竜潭に持ってこさせた。まずそれらを池に投げ込み、そのあと泥や石を入れて池を埋め立てた。これによって災害はなくなった。このことを祝して人々は埋め立て地の上で踊り、歌い、祝福したのが三月会のはじまりだという。基本的にはイ族の祭りだが、白族、ミャオ族、チベット族、漢族も参加した。

 牟定についてすぐわかったのは、祭りがおこなわれるのは三月二十四日ではなく、服装節とおなじ二十八日ということだった。誤植を信じて来てしまったのである。われわれは仕方なく牟定の町をぶらぶら歩いてみたのだが、この町はほかの町とどこかが違っていた。小さな町なのに、人がたくさん出歩いていて、しかも歩いている人の多くが老人で、老人の女性の多くが纏足(てんそく)であったことだ。纏足なんて清の時代の話だと思っていたので、ひどく驚いた。われわれはひとりの纏足のおばあさんに話しかけ、写真を撮らせてもらった。

 楚雄から大姚までは100キロほどだが、山道を上がっていくのでバスで4時間以上を要した。町自体が山間の奥にあり、隠れ里のようだった。このイ族の祭りにも由来があった。主人公はミポロンという名の美しい遊牧民のイ族の娘である。このあたり(三台という地域)の黒いロロ(イ族)の王は田畑をつぶして銅の鉱山の開発を進めようとしていた。さらにはミポロンを妻にしようと目論んでいた。彼女は三月二十八日、きれいに着飾って王を誘い、池にともに飛び込んだのだった。わが身を犠牲にして村人を守ったのである。勇気ある彼女の行為を記念して、この日、娘たちは着飾るようになった。

 三台地区に入るところでメガネをかけた30歳くらいの漢族らしい女性とばったり会った。「How old are you?(おいくつですか)」中学校の英語教師らしい彼女は緊張のあまりまとはずれなことを言っていた。彼女はテッドを見てアメリカ人だと思ったのだろう。欧米人がこんな山の中に来ることはほとんどなかった。テッドはどこに行っても騒動を巻き起こしていた。

 ミャオ族のような華やかさはないにしても、民族衣装を着た娘たちが森の中をたくさん歩いている光景は壮観だった。女の子たちの写真を撮るのは簡単だった。私のことを写真屋だとみな思ったのだ。私に料金を払おうとする人もたくさんいた。私が「料金はいりません」と言うと、着飾った娘のお父さんたちは「え?」と怪訝な顔をするのだった。

祭り自体はそれほど魅力的ではなかった。踊りや歌などは体育館のステージでおこなわれるという。自然のなかで生き生きとした娘たちの姿や歌、踊りを見たかったわれわれは早い時間に退散することにした。

 三台から森の中の道をずっと歩いて大姚の町へ向かった。途中、クルミの林があり、そのなかにある家に招待された。その家は蜂蜜農家でもあった。われわれは無数のクルミの殻を石で割って実を食べ、さらにおなかいっぱい蜂蜜を食べた。強壮ドリンクを10本飲んだかのようだった。血糖値が上がり、頭が暴発しそうだった。クラクラしながらわれわれはふたたび山道を歩いて町になんとかたどりついた。

 つぎの目的地は四川省康定(ダルツェンド)だった。農暦四月八日、町の近くの山、跑馬(パオマ)山で転山会(チベット名パルコル)と呼ばれる祭りがおこなわれるのである。われわれはバスで楚雄、昆明へと戻り、列車で四川省成都へ移動した。上述のように、成都に数日間滞在し、「バックパッカー・サロン」というべき錦江畔のカフェでテッドは欧米人旅行者の間ではつねに人気者だった。数年後、このカフェはなくなる。西側文化の温床と当局がみなしたのかもしれない。

 ギリシア人にはすっかり気を許すようになっていた。当初から持っていた彼に対する疑問点のことはどこかへ行ってしまっていた。どうしたらこうやって長い間旅行することができるのか。いや、もちろん、可能である。当時の中国の地方の物価はおそろしく安かったのだ。ドミトリー部屋に泊まれば、一日10元(150円)以下ですむ。麺一杯1元(15円)程度なので、一日の食費は数十円しかかからない。多少の貯えがあれば数か月旅行するのはそんなにむつかしくなかった。しかしそれはあくまで理論上のことだった。

 テッドがどういう人生を送ってきたのか、もう少し想像してみるべきだった。



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