(2)本気の狂犬に噛まれる
宮本神酒男
私は雲南北部のシャングリラ郊外の納帕(ナパ)海という湖を散歩していた。もちろん水の中を歩いていたわけではない。この湖は夏の間だけ姿を現し、冬になると草原に姿を変えるのである。私は毎年冬になると、海抜3200mの中甸(現在のシャングリラ)を通ってナシ族の地白水台に行き、祭天儀礼を見ていたので、冬の姿しか見ることはなかった。
道というものはないが、草がはげて道っぽくなったところを歩いていた。まあ、公道ではないのだから、どこをどう通ろうが、文句を言われる筋合いはなかった。
しかしすさまじい勢いで近づいてくる犬の姿があった。犬はどうやら私がここを通るのがお気に召さないようである。
「まあ落ち着いて。私は長居をする気はさらさらないので」
顔が認識できる程度まで犬が近づいてきて、恐怖におののいた。目は真っ赤で、涙が流れ、唸り声を上げる口元からよだれが垂れ、牙がむき出しになっていた。私は何度か犬に襲われたことがあるが、恐怖の度合いはその比ではなかった。狂犬に噛まれたら、人はかならず狂犬病になるのだろうか。私は自分が狂犬病になった場合のことを想像していた。おそらく狂犬のように四つん這いになってそのあたりを走り回り、見境なく人を噛みまくるだろう。
狂犬はすさまじい勢いで突っ込んできた。ガブっ。その牙がわが足首に突き刺さった。私は地面の上を転げまわった。上半身を起こして狂犬のほうを見ると、その姿はもうなかった。いやとおくに走っていく姿が確認できた。もうこちらのことは眼中にないようだ。
あらためて足首を見る。最近は履くことがないが、当時はトレッキングシューズを履いていた。牙は足首の部分に穴をあけていたものの、肌には到達していなかったのだ。なんというラッキー。これで狂犬病にかかるという余計な経験をせずにすんだのである。