ワ族の女性県長とともにミャンマー側のワ族を国境まで出迎えに行く (1993年) 

 

 30年たってはじめてわかることもある。

1993930日、すなわち農暦815日、仲秋の日に雲南省西盟県で、ミャンマー側のワ族200人を迎え、中緬ワ族合同の新米節(豊收節)が行われた。盛大に行われたにもかかわらず、中国内でさえほとんどニュースにならなかった。この祭典について知っている日本人は私だけだったろう。

 仲秋の日の朝、私は女性県長が運転するパジェロの助手席に座り、町から15キロのミャンマー国境まで行って、ミャンマー側のワ族の人々を迎えた。国境近くで待機していた荷台にぎっしりとワ族の人々を載せた数台のトラックが中国側に入ってきた。

 トラックが停まり、代表者が降りてきて、迎える県長と握手をし、挨拶を交わした。町に戻ってから、派手な歓迎式典が挙行された。その後祭典が始まった。県長自身が民族衣装に着替えて踊り始めたのには驚かされた。彼女はまだまだ若く、全身からエネルギーが迸っているかのようだった。アメリカのネイティブの女首長のように、圧倒的なオーラを放っていた。


 ところでなぜ私が県長と親しくしているのか、不思議に思う人がいるかもしれない。今の私自身、どうしてそうなったか、よくわからない。その8か月前に私は中国内で大きな怪我をしていた。頭を怪我したことは、あとでわかった。

どうやら脳細胞を損傷し、人格が変わっていた。私は大胆で外交的な人間になっていたのである。私は地元政府の漢族の幹部とも懇意になり、家に招待され、ごちそうをいただいたのを覚えている。

 

 中国に招待されたワ族の人々の8割は女性だった。群衆が民族衣装を着て、派手に踊るのが何よりも重要だったからである。男の中の三十代の若きリーダーと話をする機会があった。バンコクに行って出稼ぎをしていたことがあるらしく、ブロークンな英語を話し、世界の情勢に通じ、民主主義を理解していた。

 彼によると、1989年に中国からの支援がストップし、経済的にかなり厳しくなっていた。そのためにケシ栽培の生産性を高め、財政立て直しを図っていると彼は語った。しかし私はいぶかしく思った。ワ族が居住する丘陵はゴールデントライアングルの中にあり、もとからケシ畑だらけのはずである。70年代、ミャンマーのケシ畑の80%はCPB(ビルマ共産党)の支配下にあったとされる。このリーダーが語ったことが何を意味していたか理解できたのは30年後、つまり最近のことだった。

 

 それについて話す前に、基礎的な知識について述べよう。ビルマ共産党(CPB)とワ族兵士はなぜ同一視されるようになったのだろうか。それには紆余曲折の歴史があった。

 共産党は1939年頃結成された。初代共産党書記長は、驚くべきことに、のちに建国の父と称せられたアウンサン、すなわちアウンサンスーチーの父親である。意見対立からすぐに辞任したが。

1940年代にはすでに、共産党の活動地域は各地にできていた。しかしミャンマー全土に拠点ができて、共産ゲリラとして国軍との戦いを拡大したのは、1970年頃のことと思われる。

 しかし共産ゲリラは拠点を失い、次第に追いつめられ、シャン州北東部の中国国境に沿った帯状のエリアだけになった。このエリアとワ族の居住区がたまたま重なったことから、新たな歴史が編み出された。

 ビルマ共産党軍兵士の3分の2がワ族だったという。残りはカチン族(中国側のジンポー族やリス族)、コーカン族(華人)、シャン族、ラフ族、アカ族(アイニ族)などである。2025年頃も各地で反政府地元勢力が国軍と戦っているが、彼らの一部は共産党軍の残党ではないかと思うことがあるが、確証は得られない。

 雲南南西部からミャンマー・シャン州、ラオスにかけて、プーラン族(布朗族)、ワ族(佤族)、タアン族(徳昂族)といったモン・クメール語族、つまりカンボジア人の親戚が分布している。このうちラオス国境に近い西双版納(シップソーンバンナ)に居住するプーラン族と雲南西端からシャン州にかけて分布するタアン族はテーラワーダ仏教を信仰する仏教徒だった。

 ワ族だけが仏教徒ではなかった。彼らは首狩り族として名を馳せていたのである。

 

 1989年に共産党が分裂し、共産党軍が分解したあと、軍のワ族兵士はそのままワ州連合軍(UWSP)の兵士となった。彼らはたんなる少数民族の武装勢力ではなく、近代的な武器をある程度そろえた近代的な軍隊だった。

 2008年には、ミャンマーはワ州連合軍を国境警備隊(BGF)に編入しようとした。2025年春にミャワディの詐欺園区が話題になったとき、カレン族の国境警備隊に注目が集まった。その国境警備隊である。ラウカイでさえ華人コーカン族の一部はBGFになった。しかしワ族はそれを断り、国境警備隊(BGF)に編成されることはなく、国軍と距離を置き、独立性の強い自治の道を選んだのである。

 私が会ったワ族のリーダーが語った「ケシ栽培を中心に生きていく」とは、ゴールデントライアングルの中核をなすワ州の丘陵地帯のケシ栽培の生産量を高めるだけでなく、南方に新しい開拓地を作るということだった。

ワ族が住む地域を我々はワ州と呼ぶが、正式にはシャン州第二特区である。面積は1.7万平方キロメートルで、東京都の面積のおよそ8倍である。ミャンマー側のワ族の人口は60万人ほどで、中国側の43万人の1.5倍ほどになる。彼らは90年代はじめからタイ国境付近の、ラオスにも接するエリアを力ずくで奪い、1996年には入植を始めていた。もともとのワ族のエリアは北ワ州、開拓地は南ワ州と呼ばれる。南ワ州は1.3万平方キロメートルもあり、東京都の面積の6倍にもなる。この広大な地域を開墾し、ケシ栽培を行なったものとみられる。

 しかしごく最近の中国側の資料によると、1999年から2002年にかけて、40万人のワ族が南ワ州に移住し、入植したという。ケシを増産するどころか、ケシ栽培をやめ、新しい土地では水稲、ゴム、茶の栽培をはじめたという。このあたりの情報は中国が明らかにしたものである。ケシの生産量が減っていないこと、メタンフェタミンの生産量が増えていることから、これらのデータをうのみにすることはできない。何かの意図があって、ワ州をクリーンな地域に仕立てようとしているように見える。

 

 この数年のうちに中国側のワ州に関する説明が大きく変わってきている。ワ州(シャン州第二特区)はミャンマーの一部であることに変わりはないが、ミャンマーの統制下にはないという。ワ州はたんなる自治区でなく、実質独立国家に近い自治区なのである。ミニ中国といってもよく、あらたに制定された憲法は中国の憲法に似ていて、貨幣は人民元が流通していて、多くの人が中国語を学び、話すことができる。画像で見るかぎり、街中は漢字の看板があふれていて、「小中国」という別称にふさわしい。

 ワ州は元来中国の領土だと中国は主張する。唐代、南詔の領土だったが、中国は南詔を「古代中国の少数民族政権」とみなしている。南詔の新しい国王が王位に就くたびに、唐王朝の認承を得ていたので、南詔はあくまで中国の古代の地方政権と考えたのだろう。しかしそうしてしまうと、周辺の臣下の礼を取った国すべてが中国の一部、あるいは属国ということになってしまう。古代日本も、5世紀の倭の五王の時代、臣下の礼をとり、南朝から柵封を受けている。しかしそれだけでは日本が中国に従属していたとはいえない。

南詔のあと、大理国が引きついだ。その後「タイ族世襲土官」が統治していた。おそらくこのタイ族は西双版納(シップソンパンナー)を統治してきたタイ・ルー族と同一だろう。しかしこれらは南詔国や大理国は中国の一部だったとする解釈が必要で、見方を変えるなら、ワ州は一度も中国の領土でなかったことになる。

そして英国がミャンマーを植民地にしたあと、英国は1886年にワ州をミャンマーに編入してしまった。しかしシャン州自体がシャン族の地域であり、タイ族がシャン族と同一であることを考えれば、中国の領土とみなすことはできない。「タイ族世襲土官」とはシャン族のことである。南詔国や大理国もイ族や白族の祖先が統治した国であり、その後彼らが中国人になったからといって、中国の一部とみなすことはできない。

 

 さて、話を19939月の仲秋の日まで戻そう。

 当時の私はワ族に近づきすぎることがいかに危険なことか、十分に認識していなかった。黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)のケシ畑といえば、ワ州の丘陵地帯のケシ畑のことだった。ここから別の場所に運ばれ、そこの工場で精練された薬物が中国国内に流通した。これが何十年もの間、中国当局を悩ませる頭痛の種となった。実際、かつては中国で年間何千人もの死刑が執行されていたというが、死刑囚の罪状のほとんどが麻薬絡みだった。

 上述のようにワ族がビルマ共産党軍の兵士であったことも、中国にとってワ族が特別な存在であったことの理由の一つである。1970年代後半、ビルマ共産党の年間予算は5600万チャットだったが、その25%は中国からの支援だった。1989年に党は分裂したものの、関係は切れていなかった。もしかすると関係は一度切れ、この合同祭典のときに関係が修復されたのかもしれなかった。私は壁に耳をあててはいけなかったのだ。

 

 なぜ私が公安の監視下に置かれることになったか、わかっていただけるだろう。国家機密に関わることを知ってしまってもおかしくなかった。この日の夕方、公安の二人に誘われ、モニュメントを作製した彫刻家とともに酒を飲みながら楽しい時を過ごしたのである。もともと鈍い私は気づかなかったが、この時間にワ族のリーダーたちと北京からやってきた人達の間で会談の場が設けられたかもしれない。私はそうした動きにはまったく気づかず、「なぜこんなに歓待されるのだろう」と訝しく思いながら、劃拳(かくけん)や猜拳(さいけん)と呼ばれる一種のジャンケン遊び(負けると白酒を飲まなければならない遊び)に興じていた。

 ワ族との関係は切れかかっていたが、中国はこのとき(もちろんこのときだけではないだろうけど)修復したのだろう。ビルマ共産党ゲリラは長い間ミャンマー国軍と戦ってきたので、彼らを助けるのはミャンマー軍政からすれば敵対的行為である。しかし一方で、中国はビルマ共産党が瓦解したあと、敵であるミャンマーとの関係も改善しようとしてきた。中国とミャンマーの関係は非常に複雑で、「中国はミャンマーを裏から操っている」といった陰謀論的な単純な図式で見るべきではない。

2024年頃から中国は、関係が冷えかかっていたミャンマー軍政を積極的に支援するようになり、反政府武装勢力に対しては抑制を呼び掛けている。ワ族に対しても武器を他の少数民族勢力に売らないよう要請している。言い換えるなら、ワ族に対して武器援助を行ってきたということであり、それが各少数民族武装勢力に流れていたということである。

 

 公安二人と私、芸術家の4人はパジェロに乗って、一泊二日の旅を終え、昆明に戻った。途中、落石があり(小型車くらいの大きさの岩が道路の真ん中に落ちていた)、それをどかすのに三十分かかったくらいで、検問所も当然フリーパスで通り、何ら障害はなかった。私と芸術家は護送されていたともいえるが、元来鈍感な私は気づいていなかった。実際私は危険人物ではなかった。結局何が起きているかよくわかっていなかったのだ。

 私は別の年の水かけ祭り(4月1315日)の頃、モン・クメール語族のデアン(徳昂)族の村に滞在したことがあった。彼らからは温和で、おとなしい仏教徒という印象を受けたけれど、すぐ近くの国境の向こう側で同じ民族の部隊がミャンマー国軍と戦っていたのである。

 2023
1027日に始まった三兄弟同盟による1027作戦の三兄弟の一つはタアン族(デアン族)のTNLA(タアン民族解放軍)だった。勇ましい、戦闘を得意とする民族だった。1027作戦によって三兄弟同盟はシャン州北東部の国軍のほとんどを駆逐した。しかし2025年11月、中国の圧力によって、TNLAが支配していたいくつかの主要の町を軍政に返還せざるを得なくなっている。

 1994年、タアン族の村に滞在したとき、公安の人はとても親切で、祭りの見所や風習や民俗についてもいろいろと教えてくれた。しかし私は気づかなかったけれど、監視をしていたのは間違いない。あとで報告書くらいは提出しただろう。「(ミャンマーの戦闘地帯に近い村に)日本人が滞在したが、無害なり」とそれには記されただろう。

 三十年後、1027作戦にワ族およびワ州連合軍がまったく関与しなかったのは、国軍と戦っていないことを意味する。実質的に中国がバックにいるので、国軍はワ族に手が出せないのだ。ワ族は攻撃を受けないかわりに、国軍を攻撃することはない。こうしてワ州は独立国家のような自治領になったのである。

 

 今、ある程度の知識をもってあの時代(1993年)にタイムスリップすることができるなら、ワ族の若きリーダーに根掘り葉掘り聞きたいところだ。ビルマ共産党が潰えたのち、兵士たちは何をしているのか。ワ州連合軍の兵士は、ふだんは農民(ケシ栽培農民)なのか。ミャンマー政府とはどういう関係なのか。中国とは実質的なつながりがあるのか。

 当時の私は、1940年代末まで残っていた首狩りの習俗に興味があり、ミャンマーの国内の戦争にはほとんど関心を持たなかった、しかし2千キロのミャンマー国境の向こう側で繰り広げられている国軍と反政府武装勢力の戦争が興味深くないわけがなかった。