山が神である郷 第1章 ネベスキ=ヴォイコヴィツ 宮本神酒男訳
第1章 ダージリン、雷電(いかずち)の地
わたしたちの飛行機、インディアン・エアウェイズの機体は1時間前、スケジュール通りにカルカッタを離陸し、北ベンガルのバグドグラ空港に到着した。インドの雨季独特のむしむしした、非友好的な灰色の朝とともにその日ははじまった。朝5時頃ホテルから出ると、蒸し風呂状態の狭苦しい部屋をのがれて、ホテルの玄関のトタン屋根の下にゴザを敷き、そこであくびをしたり、背伸びしたりしている、みすぼらしい服を着た数人のホテルの使用人の姿があった。
聖なる動物である一頭の牛が、その威厳のあるゆったりとした足取りで、疲れて腹ばいになった人々のあいだを抜け、ホテルの中庭に入ると、ゴミ箱からしおれたキャベツの葉を引っ張り出して、朝食としてもぐもぐと食べていた。
カーキ色の服を着たひげをはやしたシーク教徒の運転手が、彼のタクシーのクロム鍍金(めっき)のボンネットをピカピカに輝くまで磨いているとき、その隣ではリキシャ・ワッラー(力車運転手)が、彼の幌(ほろ)がぐらぐらになった力車を精一杯磨いていた。
少々退屈そうにそのふたりを立ったまま見ていたのは、雪のように白い制服を着た警官だった。しかしその光景を眺めているときに、古びたバスがやってきたので、私はそれに乗り込み、空港へと向かった。
空港に着くまで、ずっと土砂降りだった。空港の大ホールでほんの少し待たされただけで、目がくらむようなたくさんの赤い傘に庇護された飛行機にわれわれは案内された。
すさまじい突風にもかかわらず、飛行機は滑らかに離陸した。アクリル樹脂の防風ガラスに覆われたコックピットのなかに立って、私は9千フィート(300メートル)の高さから下界を、世界でもっとも豪華な景色、連なるヒマラヤの峰々を見た。目前の円錐形の山はシニオルチュだった。登山家たちによって世界でもっとも美しいと称された山である。これまでのカンチェンジュンガ峰にとってかわったのである。この2峰につぐのは、ネパールのゴサインタンにそびえるアンナプルナ、ダウラギリ、そしてそれらより高いエベレストだろう。氷と雪に覆われた地上でもっとも巨大な山脈は、水平線から水平線へ見渡す限りのびていた。
私は機内の自分の席にもどり、窓から外のふたたび現れつつある雨雲を眺めた。と、飛行機は不意に突風にあおられたかのように揺れた。私の前の席に座っていた女性が小さな叫び声をあげ、不安そうに自分の子供を胸に抱きしめた。しかしまもなくしてわれわれは厚い雲を抜け、黄色い光の海を滑るように静かに飛んで行った。
私はもう何年も、ヨーロッパの数多くの大学や博物館で、中央アジアの人々の歴史や言語、宗教などを学び、これからおこなおうとしている研究の準備を怠らなかった。いま、私のおもな目的は古代チベットの教派の宗教的な考え方や儀礼について調査することだった。その聖なる場所はヒマラヤのミステリーに抱かれていた。加えて、私はヒマラヤの知られざる部族の新しい素材を収集したいと願っていた。
私はこのプランを遂行しつづけるよう運命づけられていたのだろうか。その地は平和そのもののように見え、どこに行っても友好的だった。しかし隔絶した場所の住人もまたそのようであるという確証はなかった。つぎの2、3時間、私は漠然とした不安を感じていた。
最初の目的地はダージリンだった。しかし簡単に町まで行けるかどうかは疑わしかった。二か月前、ロンドンでインド行きの飛行機に乗るとき、「ダージリンに滝のような雨が降る」という新聞の見出しを見ていた。何百人もの犠牲者が空から町に降ってきたとそれには書かれていた。
2、3週間後、東ヒマラヤの端にあるアッサム州で大きな地震が発生した。震源地から何百マイルも離れたカルカッタでさえ激しく揺れた。地面があまりにも暴力的に揺れたので、パニックに陥った住人は家々で叫び声をあげた。当時私がたまたま滞在していた、カシミールのような遠く離れたところでも少し揺れた。
災害から一か月たった今、被害を受けた州やそれと接した地域は、なおも余震があり、揺れることがあった。その地域から漏れ出てくる情報は依然としてわずかだった。東ヒマラヤの未踏の地域を旅していた英国の植物学者が震災のあった頃に話してくれたことがある。まるで嵐の中、船の甲板にいるかのように、突然地面が揺れ始めたという。山の斜面から土砂が降ってきて、家ほどの大きさの丘が谷間に滑り落ちてきて、あたりを破壊しながら飲み込んでいった。
カルカッタで会った米国のジャーナリストもおなじような話をしていた。彼もまた震災のときアッサムにいた。どれだけの犠牲者が出たかはわからなかった。チベットとアッサムの間の未踏の地域で地震は起きたのだが、インドはその地域に十分な統治が及んでいなかった。
数人の英国の入植者は小さな飛行機に乗ってこの地域を上空から視察し、認識できなくなるほど風景が変わってしまった地区も見受けられたと報告している。
東チベットの南部における地震の影響についての詳細は何か月ものちまで知られていなかった。その頃には私はインド・チベットの国境地帯にある町カリンポンに腰を落ち着けていた。
チベットのこの地域の寺院や村々は、住人ごと大地に突然あいた割れ目に飲み込まれた。いくつかの隊商は山崩れの下敷きになり、生き残った者も餓死寸前、半狂乱の状態で人里離れたところをさ迷い歩くはめに陥った。
チベット人がこの凄惨なできごとを、近くこの国に起こる悪い前兆であると解釈したのも無理からぬことだった。不幸にも、それはまちがいではなかった。
カルカッタに届いた報告によると、地震はダージリン地区にもダメージを与えていた。しかしこのカタストロフィーのような状況は、地震に先行する例外的な豪雨によってもたらされたものである。
ヒマラヤのシッキム人居住エリアは、世界でももっとも雨が多い地域である。モンスーンの時期はかならず最低でも日に2、3時間は雨が降るのだ。しかし最近の水害を見ると、天国の水門は二度と閉じられないかのようである。熱帯の洪水は休みなく発生しているのだ。
水を含んだ大地は大規模な山崩れによって地滑りを起こし始める。それは藪(やぶ)、丘、家々、そして森全体を引き裂くのだ。
「本当にいまダージリンに行きたいのですか」と私はカルカッタで聞かれた。「いまどうなっているか、ご存知ですか? ひどいありさまだっていうじゃないですか。道路はいたるところで寸断されています。道が通じて、もとの状態に修復されるまで何か月もかかるらしいですよ。平原とダージリンを結ぶ狭軌鉄道もズタズタになったので、おそらく修復不能です。山崩れによる犠牲者は300人ほどといわれています。町に運ぶ食料も、ふだん使わない密林の中のルートを、運搬人を使って運ぶしかないので、食糧不足が起きてしまっています。こういったことからわれわれはダージリンに行かないように勧告します」
これらすべての警告はわが頭の中をかけめぐった。実際に現地はどのようなありさまなのだろうか。まもなく私は知ることができるだろう。というのも飛行機はすでに機首を下げ、着陸態勢に入ったからだ。このあたりの大気は蒸し暑いことではカルカッタと変わらず、渇望している山の涼しい空気を吸い込むことはできないだろう。雪を冠した峰々は霧のベールに隠れてよく見えない。険しく切り立った山の中腹が見えるだけだ。
飛行場の端には郵便袋が山積みになっていた。それらは配達されない手紙がつまっていた。道の状態が悪く、配達できなかったのである。それにもかかわらずある官吏は、困難があろうとも一日でダージリンに行くべきだと言った。鉄道はいくつかの箇所で破壊されていたが、崖崩れの土砂はすでに片付けられていたので、ジープによって私は町から4マイルほどの地点まで行くことができた。
一方で、ティースタ谷からヒマラヤの王国シッキムの都ガントクまでの道はいまだ不通だった。2つの地点で斜面全体が崩落していた。このインドとチベットを結ぶ活気ある貿易ルートがいつ再開されるかは予測がつかなかった。
飛行場の出入り口には、戦前に作られたアメリカ産の2、3台の廃車寸前の車があった。そして3、4台のジープがあったが、オンボロという意味ではわからなかった。私はジープのなかから一台を選んだ。スリムな体型のドライバーはヨーロッパの服を着て、モンゴル系の顔立ちに友好的な笑顔を浮かべていたので、英語がうまいようにちがいないと確信した。ジープは私と荷物を道路が壊れている地点まで運んでくれた。
しばらく水がいっぱいにたまった穴ぼこだらけの道をはね跳びながら進んで、ようやく舗装された道路に出た。われわれは小さな村を通り過ぎた。村といってもいくつもの土砂の列が小屋を押し流し、その上には木々が倒れていた。大きなおなかを出した子どもたちがあたりを走りまわっていた。やせ衰えた背にこぶしのある牛に引かれた牛車がわれわれのところにやってきた。その後ろには数えきれないほどの金属の腕輪を茶褐色の腕にはめた、汚れたサリーを着たインドの農民の女たちがつづいていた。
ジープは擦り切れて光った線路をはねながら越えて、白い駅ビルを通り過ぎた。その向こうには木製の小屋が立ち並び、それを圧迫するように、近代的なコンクリートの建造物群が視界に入ってきた。
「あれがシリグリです、サーヒブ(旦那さま)」とドライバーは言った。「カルカッタから北に伸びた路線の終着駅でさ」
市の立つ日に当たったようで、通りは千の頭がばらばらな方を向いてにぎやかに、ごった返していた。白いドティを来た茶褐色の肌のベンガル人が依然として大多数ではあったが、背が低く、細い眼をした、カラフルな衣を着た近くの山岳地帯からやってきた男女が混じっていた。
道端には物売りたちがしゃがみ、茣蓙(ござ)の上にバナナやオレンジ、ひょうたん、わたしの知らないさまざまな野菜を山積みにして売っていた。ビンロウ売りは市場のコーナーのひとつをしっかりとおさえていた。市場は曲がったシュロに囲まれていた。
顧客の厳しい眼を前に、彼は注意深く、ビンロウの実の粉を香りのいいひとつまみのスパイスと混ぜた。そして芸術的にそれらを緑の葉に包んだ。顧客はコインを渡したあと、それを口に入れた。彼は唇をモゴモゴと動かしながらよく噛んだ。ビンロウ売りのまわりはシリグリの住人の半数が何日もひどい鼻血に悩まされているかのように、吐かれたビンロウの赤い汁が飛び散っていた。
ほんの数歩離れたところには木製のブースがあり、そこにはタバコ売りが鎮座していた。彼は色鮮やかなヨーロッパのタバコのカートンや貧民区の貧しい人々によって持ち込まれたタバコの葉を薄く巻いたタバコを売っていた。このブースの壁は油絵風のハリウッドの美人女優やけばけばしい絵が描かれた雑誌の写真で埋まっていた。その上に、歯をむき出した悪魔たちの間で戦いを準備している武装したインドの神々のポスターが貼られていた。
黒い鼻筋とガラスのような目を持った水牛の群れが3人の農民に率いられて群衆をかきわけて進んでいた。彼らは容赦なく水牛の横腹を頑丈そうな杖で叩いていた。水牛のあとを追うように走っていたのは、宝石で飾ったご婦人らを乗せた2、3台のリクショー(力車)である。自転車に乗って力車を引っ張っていたのは、おとなになる手前の少年たちだった。
十字路で警官は、ごった返す群衆や動物、乗り物になんとか秩序を与えようとしていたが、無駄だった。警官の後ろでは、ふたりの道路清掃人が、輪になって取り囲んだ見物人の叫び声にせかされて、互いに嫌悪をむき出しにして殴り合いをしていた。
ジープはほとんど歩くほどの速さで、絶え間なく警笛を鳴らしながら、騒音と色彩となんとも言いようのないにおいの渦の中を進んでいった。われわれは少し静かな脇道に出た。群衆はやや減り、運転手はアクセルを踏んだ。数分後、シリグリの住宅地をあとにして、依然として雲の中に見える山岳地帯へ向かう整備された道路をスピードアップして走った。
道路の両側は丘だらけになり、灌木の波が繰り返しあらわれる濃い暗緑色のカーペットのような原野がつづいた。
ようやく最初のプランテーションに到達した。名高いダージリン・ティーはここで育てられているのである。半裸の運搬人たちが連なり、巨大な箱の下であえぎながら、道路のわきを小走りに走って行った。彼らの死んだような目は地面を見ていた。
道路からはずれた茶畑のなかに建物があり、その上にプランテーションの労働者のためのプレハブ小屋が立っていた。ほとんどの小屋がだれも住んでいないように見えた。屋根には穴があき、窓やドアは板が打ち付けられていた。青い煙が立ち昇る小屋もあり、子供たちの声が聞こえてきた。
運転手が言うには、建物の上に小屋があるのは、蛇や虎が恐いからだという。お茶のクーリーたちはとくに虎を恐れていた。ちょうどその頃、数週間前から人食い虎があたりをさまよっていたという。虎は公道で人を襲ったばかりだった。
3人のクーリーがシリグリに向かう途中、日没になり、道のわきの茂みで一夜を過ごすことにした。朝、ひとりが行方不明になっていた。ほかのふたりは探しに出たが、恐ろしいことに、すぐ近くで仲間の肉がなくなった遺体を発見した。
虎は夜の間に彼を襲い、彼の身体を音を立てずに引きずり出したのだった。ふたりは異変にまったく気づかなかった。
そのすぐあと、インド人警官がかろうじて同じ目にあわずにすんだ。彼は夜間、バイクに乗って旅をしていたが、虎にずっと追われていることに気づかなかった。命を落とさずにすんだのは運が良かったからだ。そのときちょうど反対方向から車がやってきた。ヘッドライトに目がくらんだ虎は追うのをやめ、ジャングルに消えた。車の同乗者はバイクの後ろから跳びかからんばかりの虎を確認していた。虎はヘッドライトが当たらなければ襲いかかっていたところだった。バイクがたてる音を虎は気にしていなかったので、たまたま対向車がやってこなければ、バイクに乗った警官は犠牲者のひとりになっていただろう。
私の同行者は以上の話を見事な英語で語ってくれた。どうしてこんなに流暢にしゃべれるのかたずねると、長年英国の官吏のために働いていて、とくに彼らが政府の仕事としてチベットへ行くときはよく同行したという。カリンポンにしばらく滞在していた英国官吏に同行したのが最後の仕事だった。私が2、3週間前、スコットランドで彼の前の主人の家にゲストとして泊まったことを話すと、この善良な人はびっくりしていた。
そうこうしている間にわれわれは山脈の最初の峠の入り口に達し、道路は上り始めた。道路のすぐ横には毛が逆立つような深い谷底が大きな口をあけていた。登山鉄道の線路は山肌を上がっていった。それが曲がるポイントでは5つか6つの緑色の車両から成る列車を見ることができた。それは旧式のエンジンをふかせ、丘を下りながら警笛を大きく鳴らした。客車、踏み台、そして屋根さえもが泥まみれの労働者に占められていた。彼らが線路の修復工事から戻ってきているのはあきらかだった。
登山列車が過ぎると、細い眼をした男たちをギュウギュウに乗せたボロボロのバスが降りてきた。そのよれよれになった屋根の上も労働者でいっぱいだった。
後方はるか南にはパステルブルーの地平線が見え、ぎらぎらと照る太陽の光の中にベンガル平原が横たわっていた。その端の山脈の麓には緑の茶畑がつづき、その向こうには広大なチェス盤のような田んぼと牧草地が広がっていた。
村々はだんだんと小さく点のようになり、私たちが通ってきた騒がしいシリグリでさえ、大きな家が白く見える灰色がかった斑点のようだ。左のほうには大きな川があらわれ、丘の麓を取り囲むように流れている。その泥の多い川の水はこの流域全体を水浸しにしている。これこそシッキム最大の川、ティースタ川のちがいなかった。それは山脈の中に源を発し、この地域まで流れているのである。
平原の暖かさはほとんど感じられなかった。冷たい大気の息が、ちぎれ雲を押し流しながら、木々の頂を鳴らし、森の中を通り過ぎた。寒さにふるえながら、私はバッグからセーターとスカーフを取り出した。
ジープはふたたび上り始めた。突然、頭部が赤い緑がかった蛇が車の前を横切り、それをひき殺さないように運転手はハンドルを切って道端に止めた。タイヤは大きなキーというきしみ音をたて、車体はひどく揺れた。その瞬間、道路の端を越えて、車は谷間に向かってジャンプしたのではないかと思った。
「お許しください、サーヒブ(旦那さま)」運転手は申し訳なさそうな表情を浮かべ、私を見ながら口ごもってそう言った。そして自分を裁くかのように彼は最近死んだ彼の叔父の例を持ち出した。
この叔父はほかの家族のメンバーとおなじく仏教徒だったが、それほど熱心ではなかった。相談をもちかけられたあるラマに言わせれば、それは嘆かわしい罪であり、仏教の教義によればつぎの生では動物に生まれ変わる可能性が高かった。
「だからおわかりでしょう」と運転手は結論づけた。「どうして私が蛇を殺したくなかったか。あなたは言えないでしょう……」
しばらくして崖崩れのあと石を撒いて固めた道路を通った。男女の労働者が忙しくシャベルで残っていた土や瓦礫、大きな石を除去しているところだった。ジープが近づくと彼らは手を止めて立ち上がり、道を譲った。彼らは明るい褐色の肌をもち、細い目をしたネパール人だった。よれよれのヨーロッパ式のジャケットとズボンを着ている者もいたが、大半はネパール式の服装をまとっていた。もともと白かったが汚れてぴったり足首にくっついた、長いリネンのズボンをはき、シャツのようなジャケットを着ていた。
多くは腰にリネンの帯を巻き、そこからククリ刀の入った黒い皮の鞘(さや)が飛び出ていた。労働靴を持っている人はごくわずかにすぎなかったが、一方でほぼ全員が丸い「薬箱」型の帽子をかぶっていた。
女性たちの服装も貧しいものだった。よれよれの上衣を着て、腰にはリネンの幅広の帯をぐるぐる巻きにし、その端はかかとまで届いていた。そして大きな頭巾のスカーフは肩を覆い、背中に垂れていた。道具のシャベルに体重をかけていた彼女らは、その茶色の顔をこちらに向けた。まるで木の彫物のようだった。彼女らは興味深そうにわれわれを眺めた。彼らの中には腰が曲がった年配の婦人もいたが、まだ子供のような少女もいた。
大多数はあきらかに、モンスーンによる災害の損害を修復する仕事で忙しかった。多くの人にとって豪雨は苦しみと破壊を意味した。しかしほかの人にとって、それは道路修復工事の職を得ることであり、歓迎されることだった。
状態の悪い道路を歩くような速度で切り抜けたが、数マイル先で車はとまることになった。作業は急ピッチで進められていた。道路上の瓦礫は撤去され、一群の若い男女が重量のある地ならしローラーでガタガタになった上りの路面をならしていた。二つの長い列を作り、腰を深く曲げ、はだしの足をぬかるんだ地面に埋め、まるでゲームをするかのように、笑ったり、おしゃべりをしたりしながらロープで重機を引っ張っていた。
突然野太い男の歌声が発せられた。そして甲高い少女らのコーラスが呼応した。シンプルなメロディが2、3回、上がったり下ったりしたかと思うと、突如止まった。ローラーがやや下りに動くと、歓喜の声が発せられた。このあと彼らはふたたびロープを取り上げ、人間の鎖が上方へ上がると、おなじ単調な歌がはじまった。
少し離れた男のグループは道路のわきの溝から小石をシャベルで汲み出していた。私は彼らの中にふたりのチベット人が混じっていることに気がついた。ふたりとも履きふるしたチベット靴をはき、膝に達する長いコートを着ていた。冷え冷えとした風が路上を吹ききよめたが、チベット人が呼ぶ「雪の国」から来たものにとっては、ここはむしろ暑いくらいだったろう。彼らはコートを半分脱いで、あいた両裾を腰に巻いて、体の前で結んだ。彼らはふたりとも中国服でもまとうように、胸の横にボタンがついたリネンのシャツを着ていた。ひとりはワタリガラスのように黒い髪を二つに分け、赤いリボンでおさげのようにまとめ、頭上で巻いた。もうひとりは幅広の刺繍がほどこされたカーキ色の帽子をかぶっていた。その下から長いおさげが背中の上に垂れていた。
正午頃、われわれは丘の上の小さな町、クルセオンに着いた。ほかの場所とおなじように、ヒマラヤ山脈の山腹に建てられた町で、英国ラジャの時代に繁栄を享受した。英国の官吏や軍官吏の妻たちは、平原の酷暑を避けるため、暑い時期、家族とともにそこへ行った。
ミッションスクールや細々と営業を続けている小さなゲストハウスはほとんどがこの時期にスタートしていた。クルセオンは、チベット人からはカルサン、すなわち善城と呼ばれていた。そこはチベット人の宗教生活が、すなわち小さな僧院が営まれる居留区だった。ここでもネパール人やインド人、若干のヨーロッパ人に混じってチベット人のあまたの神々のうちの一柱が住んでいる。これが小さな仏教寺院の守護神であるカルサン・ギェポ、善城の魔王である。
一時間後に着いたのはグーム村だった。この村には歴史の古い僧院があり、すでに仏教の聖地となっていた。20人の僧侶はチベット最大の教派黄帽派(ゲルク派)に属していた。グーム村の家々はほとんどがみすぼらしい木製の小屋で、ダージリンに向かう尾根沿いに伸びる両側が切り立った崖の道路際に建てられていた。
村は徹底的に陰鬱な印象を醸し出していた。 太陽がダージリンの近くで輝いているときでさえ、グーム峠のあたりに来ると渦巻いた。地元の人は、グームという名よりグルーム(陰鬱)のほうがふさわしいという始末である。
グームの目印になるのは3つの円錐形の丘だった。それらの頂上には仏教僧院の建物があった。グームの黄帽派の僧院の名はチベット語で「たのしい魂の宗教的大陸」という意味だった。僧院は一階建ての四角い建物で、壁は黄色く塗られ、屋根は中国様式で曲線を描いていた。
入口の上には2匹の竜の漆喰像がのたうちまわり、僧院の扉の両側には木製の枠組みに入ったマニ車の長い列がのびていた。これらはいわゆるランザ文字で書かれた真言が表面に記された金属製の太鼓であり、なかには経文が書かれた無数の紙片がつめこまれていた。
大講堂に通じる小部屋があり、その壁には仏教の世界の4つの面の守護神(四天王)が描かれていた。寺の鉄の扉はとても重く、あけるときしんでギーギーという音をたてた。かび臭い空気が波のようにやってきて訪問者を迎えた。線香や腐食した紙、灯明のにおいがそれに混じった。最初は何がそこにあるのかわからなかった。部屋には窓がなく、暗かったのだ。
屋根にあいた一つか二つの穴からわずかに青暗い光が射していた。祭壇の上でほのかに揺れる小さな灯明だけでは、すべての壁龕や部屋の隅の暗闇を駆逐することはできなかった。それでも訪問者はしだいに彼が大きな部屋にいることがわかってくる。その部屋は、二列の巨大な木柱群によって、中央部と両側の狭い身廊に分けられた。
講堂の端には巨大な金色のブッダの像がそそり立っていた。その半分閉じられた目は、入ってきた人をじっと見つめて質問を浴びせかけるかのようだった。かすかな、神秘的な笑みがその口元にほころんでいた。このブッダは歴史的なブッダではなく、チベットの数多いブッダのひとつ、未来の救世主であるジャンパ(byams pa 弥勒)だった。足を交差させて坐る瞑想ポーズのほかのブッダと違い、椅子に坐るかのように膝を立てた姿でジャンパは表された。
座布団二列が寺院の入り口から大仏の足元まで並べられた。これは僧侶たちの席だった。入口近くは新入り僧のために薄い座布団が置かれ、中央に向かって高位の僧のための座布団は厚くなっていった。そして弥勒仏のすぐ前には、寺の座主のための玉座のような席があった。擦り切れてなめらかになった座布団の上には僧侶たちの赤いショールが置かれた。
二列の座布団の合間の通路には、低い卓があった。その上には鈴、小さな銀の椀、その他さまざまな儀礼用の器が置かれた。
壁には壁画が描かれていた。ただし煤で黒ずんでいたため、絵の内容は判別しがたかった。装飾された柱からおびただしく垂れさがっているのは、名高いタンカ、すなわち巻軸画だった。これらのタンカはチベット芸術に特徴的なもので、絹やリネンの下地に細密画が描かれたものである。これらが見られるのは寺院や僧院のなかだけではなく、大きな私人の屋敷のなかにもあった。それらには一般的に、仏教の天国や善悪にかかわらずその住人が描かれた。
タンカに描かれる絵は、何世紀にもわたって厳格な規則と規定に従ってきた。これはまた巻軸画の外形にも適用されてきた。その上辺と下辺には、装飾されたノブが両端にはめられた丸い木の棒がつけられる。絵自体は錦織で境目がつけられ、両側には赤や黄のリボンが垂れている。このリボンは虹を象徴し、タンカを見る慈悲深い人と遠くの天界とを結びつける。この絵において天界の神秘が見る人に啓示されるのである。
タンカは2本の棒を使えば簡単に丸めることができる。この巻軸画は絹のベールによって、たしかでない目から守られ、チベット寺で毎日燃やされるバターの灯明の煙から出る煤から守られている。儀式のときに、信仰心の篤い人々に見せるために、タンカのベールがあけられる。絹のベールは巻軸画の上辺につけられていて、一種の天蓋のように見える。
僧院の外壁には狭い階段があり、そこを上がると上の階に出る。そこは千仏堂だった。ここに長い木の棚があり、その上には身体が金で頭髪が輝く青色の小さな仏像が無数並んでいた。それらに捧げられた線香は砂で埋まった器に挿され、火がつけられていた。この器はまた寄付箱の目的もあり、砂にはコインがたくさんはさまっていた。それは神々や寺院共同体に献じられたものだった。
晴れた日々、僧院は正面を明るく塗り替え、黄色の旗がはためかせて、楽しい、色彩豊かな装いを見せる。しかし私がはじめてそこを訪れたとき、天候が悪く、灰色に渦を巻く霧の中に僧院はそそり立っているようだった。旗は旗竿からだらりと垂れ、旗布は破れ、印刷された経文は雨でほとんどかすれて消えていた。
僧院の前庭はがらんとしていて、扉は閉まっていた。私のガイドが叫ぶと、隣接する建物の扉があき、わずかな隙間から頭を剃った僧侶があらわれた。と思うと、すぐ消えた。奥のほうでなにやら言葉がかわされ、赤いトーガ(古代ローマの服装)のような衣をまとった年老いたラマが外をのぞいた。あきらかに邪魔をされるのを快く思っていないふうだったが、ラマは仰々しく扉をあけ、われわれを中に導いた。
私は何度も立ち止まり、壁に何の神々が描かれているか、あるいは儀礼用の美しい器を見ながら、ドタドタと後ろを歩くラマを連れて、ゆっくりと寺院の中を歩いた。
遠い壁に二つの大きなシルクのカーテンが掛けられていることに気づいたのは、この堂を出ようというまさにそのときだった。そのどちらも壁画を隠しているのはあきらかだった。私はカーテンの向こうに何があるかどうしても知りたくて、ラマを説得してそれをあけてもらうよう懇願した。しかしラマは頭を横に振って拒み、なにやら言葉を発したが、私には理解できなかった。
私の運転手は困惑したような笑みを浮かべながら、ここに描かれているのが僧院の守護神であるため外部の者に見せることができないのだと説明してくれた。信仰のない者に見せたら、守護神は怒るにちがいないというのである。神々はラマにたいしても、僧院の共同体にも怒りをぶつけてくるかもしれないのだ。
交渉のすえ、ラマは絹のベールをほんのわずかの間、あけることを了承した。最初に彼は扉の左側のカーテンをあけた。そこにあるのは壁の湿気によってひどくダメージを受けた壁絵だった。中央に描かれているのは、半裸の青い肌の女神だった。彼女の顔は怒りにゆがみ、身体は炎と煙に取り囲まれていた。茶色のラバに横に坐り、見る人のほうに顔を向け、手や足、人の首などが浮かぶ血の色をした波を横切って進んだ。
この悪魔のような女神は右手に杖を持って振り回し、左手に子供の頭蓋骨を持って胸の前で保持した。女神の眉毛のあいだには巨大な一つ目があった。そしてその上に5つの頭蓋骨がついた王冠があった。半分あいた彼女の口の角から4本の長い牙が出ていた。彼女の首からは、いくつかの首がつらなる首飾りが下がっていた。ラバは並外れているように見えた。脚は3本しかなかったが、それを補うかのように脇腹に目があった。その勒(ろく)は緑の蛇でできていた。鞍の左側にはチベット人がサイコロ遊びをするときのように、3つのサイコロが下がっていた。鞍の敷物の下からは人の皮膚が出ていた。その手は血の海の乱れた表面をなぞっていた。
この中央の人物はより小さな悪魔のような姿のものたちに囲まれていた。この絵がだれなのか特定するのはむつかしくなかった。それはペルデン・ラモ、至高の女神、チベット仏教のもっとも重要な守護神である。この神に関する伝説は無数にあった。
彼女はかつて地下世界の神の妻だったという。彼女が夫から逃げたとき、夫は無数の矢を放った。そのうちの一本がラバの横腹に刺さったのである。彼女はその傷を目に変えた。
地獄の支配者との結婚からひとりの息子が生まれた。未来を見ることのできる大きな目のおかげで、彼女は息子がいつか仏法の敵となることを知っていた。そうならないように、彼女は自分の手で息子を殺し、皮をはいだ。そしてその皮を鞍の敷物に使ったのである。チベット人が言うには、ペルデン・ラモはその夜、墓場でサイコロを振って人の運命をみた。
ラマは私がこの女神の名を知っていたのに驚いた。彼はまた、その眷属である海の怪物の頭を持つ女神や、儀礼的な肉切りナイフや血で満たされたドクロ杯を運ぶ女の獅子頭の悪魔の名を私がしっていることを認めると、何度も「ア・レ、ア・レ!」という言葉を口にした。
その絵の下のほうに私はほかに4つの小さな神を確認することができた。それは四季の女神たちだった。春の女王はラバに、夏の赤い女王は水牛に乗っていた。秋の女王は孔雀の羽根で作られた上衣を着て、鹿に乗って雲の上を駆けた。冬の青い女王はラクダに乗っていた。
ラマは私がいかにしてこれらの名を知ることができたかたずねてきた。私は通訳を通して西欧にはたくさんの本があり、本からチベットについても神々についても学ぶことができるのだと説明した。彼はこの説明に納得がいかないように見えた。彼の意見では、はるか遠くのエウロペやアメリカは自分で旅行したり、飛んだりする驚異のマシンにしか興味はないはずだった。外国人は雪の国で説かれるような真の宗教を気にかける時間などないはずだった。彼はたくさんの白人と会ったが、チベットの神々の名を知っているのは私が最初だったという。彼は私が前世ではチベット人で、はるか遠くの外国の地に生まれ変わったのだと考えた。善行を積んだその報奨として仏教の影響が濃いこの地域に導かれたのだという。
この老いたラマはもはやもうひとつの守護神の絵を見せることに躊躇はなかった。彼が絹のカーテンをあけると、驚いたことに、その悪魔のような姿はいままで読んだチベットに関する本には載っていないものだった。
炎の舌は守護神のまわりをなめていた。この神は人間のような姿をしていたが、額には第三の眼が光っていた。その身体は雪の国の高僧ラマのような高価な衣をまとっていた。頭に載っているのは金の装飾が施された幅広の帽子だった。また、履いているのは角ばった白いブーツだった。 右手には波打つ刃の輝く短剣を持ち、左手は血が流れる神像を自分の胸に当てていた。右腕のひじの内側には長くて輝く色のリボンがついた儀礼用の杖がかかっていた。前腕には茶色がかったマングースがのっていて、その口からは宝石が流れ出ていた。
氷河に生きるトルコ石のたてがみをもった白いメス獅子の後ろにいるのは魔物である。怪奇なるものたちの軍団は守護神のまわりに集まっていた。手に輝く色のリボンをつけた投げ矢をもつ白い魔物は6本の牙をもつ象に乗っていた。その後ろを走る虎には、肉切りナイフを振り回す緑色の守護神が乗っていた。ずっと下のほうの雷雲を駆け抜けている甲冑を着た者を追いかけているのは炎の舌をもつ竜に乗った赤い魔物だった。
これらの神々はだれなのだろうか? 幸運にもラマは私をテストしようとはしなかった。自分の知識をひけらかす機会を得たラマは、それぞれの神格の説明をはじめた。
不幸にも彼が何と言っているか私にはほとんど理解できなかったが、中央にいる神格の名前がドルジェ・シュクデン(原文はシュンデンとなっているがおそらく誤植)、すなわち「力強い雷電」であることはつかめた。これは黄帽派の大守護神だった。私は当然のごとく、この興味深い神についてもっと知りたいと思った。しかし私の運転手は、時間がないから行こうと促した。もう日暮れが近かった。ダージリンまではまだかなりあり、道も悪かった。私はラマに別れをつげなければならなかった。
黄昏時、われわれは道路の終点に着いたが、そこは何もない場所だった。朝、小さな崖崩れを見たが、それとは比較にならない崖崩れがここで起きていた。
数百メートルにわたって岩壁全体が道路や線路もろともに崩落し、深淵に消えていた。道路はスキー・ジャンプ台のように断裂し、線路は曲がって谷間の霧の中に伸びていた。
道路の端と端が、踏みしめてできた細い道でつながっていた。崖崩れの柔らかい土砂を踏みつけながら、道の両側に張られたロープをたどって進んだ。
崩壊現場の数十メートル手前で、ダージリンに生活必需品を運ぶトラックが立ち往生していた。多数の箱や袋を運ぶ運搬人の行列ができていた。彼らは滑りやすい道を、蟻のような勤勉さでよじ登ったり下ったりしていた。インドの警官の制服を着た丈夫そうなネパール人たちが、すべて秩序よくおこなわれているかどうか見守っていた。
私は荷物を下ろし、運転手に賃金を払った。15分ほど苦労して柔らかいしゃめんを上り、硬い地面に到達した。こちら側で待ちかまえていたジープに私の荷物は置かれた。ダージリン近くまでの残りの旅は、何の問題もなかった。
私は欧州式のホテルを見つけることができ、そこに一泊した。たまたまゲストは私ひとりだった。
翌朝は涼しく、どんよりとしていた。乳灰色の雨雲が風景を包み込んでいた。ときおり霧のベールに切れ目ができることがあった。そこに見えるのは、はるか下方の市場であり、散らばった家々であり、町の郊外の茶畑だった。崖崩れによって土砂が運ばれ、茶畑に醜く筋が入り、全体的に暗緑色になっていた。
市場のずんぐりした石造りの家々から離れたところに仏教寺院であることを示す黄色い曲線の屋根が見えた。そこから遠くないところにパゴダの形をした塔が見えるが、それはネパール人の寺院だった。さらにその先にはキリスト教の教会があった。教会の鐘の音は異教徒の鈍い銅鑼の音とないまぜになった。ダージリンは疑いなく、私が知るなかでもっとも宗教的な町である。
暁(あかつき)の最初の光から夜遅くまで、銅鑼の音と鐘の音は響き渡り、仏教寺院ではマニ車が回り、インド、チベットの神マハーカーラに捧げられた町でもっとも高い丘の祈祷旗の森は、風の中いっせいにはためいていた。
夜明け前、バザールの喧騒がやんでいるとき、長いトランペットのめざましの音が谷間の仏教僧院のほうから沸き起こった。
ダージリンという名前はチベット語のドルジェ・リン、すなわち「雷電の地」から来ている。これはかつてマハーカーラの丘に建っていた仏教僧院の名前だった。
1828年、二人の英国人官吏がこの地方に赴任してきた。彼らはドルジェ・リンの気候が涼しく、風景が美しいことから、酷暑の時期のリゾートとしては最適であると考え、すぐにそのことを関係当局に提案した。
しばらくしてインドの新しい支配者と良好な関係を持ちたかったシッキムの国王は、この土地の一部を英国に贈った。この土地の所有権が国王に属していたかどうかは議論されていたのだが。ともかくこうしてダージリンは英領インドの地方の行政上の都となり、魅力的なヒル・ステーション(避暑地)として繁栄を極めた。
しかしチベット人にとってはこうした勝手なきめごとは迷惑千万だった。権利もないのにチベット人の土地を外国人に割譲したとしてシッキムの国王を非難した。しかし彼らの抗議は何の影響も与えなかった。いまもそうだが、チベット人は無力なのである。
ダージリンは英国のベンガル総督府の夏の避暑地となった。壮麗な別荘、ホテル、オフィスビルなどが建てられ、7210フィート(2700m余り)の高さの町に至る登山鉄道が敷設された。
現在、すべては変わった。まったく変わってしまった。英国がインドの統治権を失って以来、ダージリンはその重要性を失ってしまったのである。たしかに町はその有名な紅茶によって名士の地位を享受しているかもしれない。また数多くのヒマラヤ登山隊のベースとして価値を有しているかもしれない。
それにもかかわらず一年のうちのほとんどは、ダージリンは打ち捨てられた町のように見える。ホテルやゲストハウスはがらんとしていて、欧州風のビジネス通りの店の多くは閉まっている。そして町の民間の家の多くも不吉な「売り出し中」の看板を掲げている。しかし買い手はそれほど多くないようだ。長い間日光と雨にさらされて、看板の文字がかすれてしまっているのだ。
一年に一度、秋のはじめの2、3週間、ダージリンは過去のよき時代のように元気を取り戻す。この季節、インド全体が最大の祭礼であるカーリー・プジャを祝うのだ。この祭礼は女神カーリーのために催されるもので、数週間つづく。
このとき町のホテルは満室になり、通りは祭りの衣装を着た訪問客であふれかえる。岩の先に作った小さな競馬場でさえも昔のにぎわいを取り戻す。みすぼらしいチベットのポニーもこのときだけ誇り高い競走馬に変身した。貧しいネパール人も貯金をはたいて馬に賭けた。
レース当日は「かなり」のどんちゃん騒ぎだった。「かなり」というは表現は正しかった。地元の人々は、この競馬は小さく、世界にはもっと大きな競馬場があると主張していた。口さがない人はそれに付け加えた。国王のスポーツのなかでは、もっともここが邪悪である、馬という馬は興奮剤を飲まされ、騎手は賄賂をもらっているのだからと。
カーリー・プジャが終わるや、ダージリンはまたもとの魔法がかけられたまどろみのなかに戻った。店主たちはこの数週間の収支を計算しながら、来年の秋もおなじように迎えられるか心配をしなければならなかった。
ダージリンにはじめて来た道はヨーロッパ人の墓地に通じていた。そのもっとも古い墓のひとつは柱状の墓だった。その銘文には、「アレクサンダー・チョマ・ド・ケレシュ、1784年4月4日生まれ、1842年4月11日逝去が埋葬される」と記されていた。彼は生涯を東方研究に捧げた。彼は多大な年月を費やして研究に励み、窮乏にも耐え、知識を獲得した。そうしてチベット語の辞書や文法書などを編纂したのである。いまチベット学の父として称賛されるこの男の人生は、小説のように読むことができる。
彼はハンガリーのハロムズク地方の小さな村ケレシュで生まれた。若い時から彼はマj−ル人の源流の問題について気にかけていた。36歳のとき彼はハンガリーを離れ、先祖の故郷を探す旅に出た。遠回りをしながらもシベリアに至り、それからアラブ人に扮し、隊商とともにモスルにたどりついた。彼はそこから筏に乗ってバグダッドに着いた。そこからまたさまざまな隊商に加わり、テヘラン、カブールをへてインド北東の町(現パキスタン)ペシャワールに到着した。そしてカシミール、さらにチベットと接する地域に踏み入る。
そこで彼が発見したのはマジャール民族揺籃の地ではなく、それ以上に彼の好奇心をつかむんだもの、つまりチベットのミステリアスな人々だった。彼は雪の国の住人の言語や文学を研究するという役割を自身に課して、とてつもなく勤勉に、忍耐強く仕事をした。数年間、彼はラダック南西部の僧院で困難な環境のなかで生き抜いた。英国の官吏と軍人が、インドに戻る旅の途中、凍った山脈に住んでひとりで学んでいる、ラマに扮したこの奇妙なハンガリー人と会い、そのことについて記している。
この時期にカヌム村でチョマ・ド・ケレシュと会った人々のひとりは彼についてこう記している。
「ひどく寒い。それなのに彼は頭から足先まですっぽり羊毛の布に包まれて、朝から晩まで、休憩を入れたり暖を取ったりすることもなく、口に入れるものといえば量はあるもののバター茶だけで、冬の間ずっと書き机にへばりついているのである。
しかしカヌムの冬は、チョマが丸ごと一年を過ごしたヤンラの寺院と比べると取るに足らないとさえ言えた。ここの3ヤード(2m70)四方の部屋に、彼と教師のラマ、召使が閉じ込められたのである。彼らは外に出ようとはしなかった。なぜなら外は雪が積もっているし、気温も零度をはるかに下回っていたからだ。彼は羊皮に包まれ、腕をたたみ、朝から晩まで火もなく、陽が沈んでからは明かりもなかったが坐って本を読みつづけた。むきだしの地面が彼の寝床だった。激烈な気候から守ってくれるのはむきだしの壁だけだった。
1831年、チョマ・ド・ケレシュはカルカッタにやってくる。そして彼は二年間、シッキムの国境地帯に滞在する。カルカッタに戻ってくると、彼は研究分野を広げるためにいくつかのインドの言語を学び始めた。そして文法書と辞書を出版するのだが、これはチベット研究にとってとてつもなく重要なものとなった。
彼のもともとの目的はチベットの言語研究だったので、1842年のはじめ、彼は希望通り旅に出る。ラサへの旅は彼のライフワークの有終の美を飾るはずだった。しかし運命は別の道を用意していた。
ベンガル北部の平原を進んだとき、熱帯性マラリアにかかってしまったのである。ダージリンに着くや彼の症状は重篤になり、数日後に逝去した。チベットの境界まであと数マイルにすぎなかった。