チベットの本
ダージリンにはラマ教寺院が 3 つある。私はそれらを頻繁に訪れているので、そのすべてに精通している。市場の近くには、チベット仏教を信仰するネパールの少数民族、タマン族の寺院が建っている。
人類学者はこれまで、タマン族の歴史と伝統についてほとんど解明できていない。周辺の民族からはムルミとも呼ばれるこの部族の大部分はネパール国境内に居住しているが、ダージリン地域、シッキム、そして隣接するブータン王国の国境地域にも居住地が見られる。タマン族は人種的にも言語的にもチベット人と近縁であり、チベットの文字体系を採用している。
私が見たタマン族の集落は、仏教のモニュメントがいくつかあることを除けば、他のネパール人の居住地とほとんど同じだった。祈りの旗に囲まれた小さな祠堂(訳注:ラカン lha khang)には、チベット仏教の神々の像と白いストゥーパが納められていた。旅の途中で出会ったタマン族はそれほど多くないが、よい印象しかない。しかし、彼らは周辺の住民に好かれているようには見えない。ネパールの諺にタマン族について「まず盗み、その後にやって来て殺す」というのがあるほどだ。
ダージリンの他の二つの仏教寺院は、街が築かれた長い尾根の東斜面に建っている。最大の寺院は、ダージリンのブーティア・バスティの「チベット村」と呼ばれる貧困地区の真ん中にある。寺院へは急な坂道を上り、シッキム王妃の遺骨が納められていると言われる大きな白いストゥーパの横を通り過ぎる。降雨によって甚大な被害をもたらされたのはここだった。寺院周辺のみすぼらしい小屋の多くが倒壊し、そこに住んでいた人々の多くは今も厚い泥と瓦礫の層に埋もれている。自然の猛威を免れたのは寺院だけだった。こうして、ここがダージリンの地名の由来となった寺院となった。
かつてはマハカラ丘の上に建っていたが、ラマ僧が夜中に鳴らす楽器の音を英国人が煩わしく思い、寺院は取り壊され、山の斜面をさらに下った場所に再建された。この寺院はチベット仏教の中でも最も知名度の低い宗派の一つ、カルマパに属している。かつてこの宗派の長であった14人の高僧の像が、寺院の2階にある大広間に飾られている。 1 階の部屋には宗教的な踊り[チャム]の際に僧侶が着用するさまざまな仮面が保管されている。5つの人間の頭蓋骨の飾りが付いた青と赤の悪魔の顔、伝説の鳥ガルーダの頭、海の怪物、そして小さな祈りの吹流しが多数取り付けられた長い角を持つ雄鹿の頭などだ。
3番目の寺院はブーティア・バスティの上の端に立っている。これは「大成就の宗派」であるゾクチェンパによって建立された。その宗派には、古代チベットの多くの呪術的慣習が保存されている。これには「白い貝殻を監視する主の寺院」という名前が付けられていて、ダージリンの3つの仏教寺院の中ではもっとも小さいが、もっとも興味深いものである。私が最初に訪問したとき、寺院は群衆に囲まれてい。手のひらほどの金のイヤリングと3、4枚のチベット特有の縞模様のエプロン(チュパ)を身に着けたシェルパ族の女性、おさげ髪のチベット人、ぼろぼろのヨーロッパの服を着たタマン族が入り口のあたりにうろついていた。私は男性の一人に何が起こっているのか尋ねた。彼は片言の英語で、聖者の生まれ変わりとして崇拝されているゾクチェンパの若い僧侶が数日間寺院に滞在している、と説明してくれた。彼の祝福を受けようと人々が押し寄せていたのである。祝福を受けに来た人々のほとんどが大圓満派に属しているわけではなかったが、聖者も訪問者も気にしていないようだった。生まれ変わった聖者の祝福は、いずれにせよ害にはならないと考えたのだろう。儀式を邪魔しないよう、私は翌朝また来ることにした。
しかし、同じ日に、私はこの寺院の理事の一人である、英語で「日曜の宝石」を意味するニマ・ノルブという名の僧侶と知り合いになった。ニマ・ノルブはダージリンのインド人公立学校でチベット語を教えており、ヒマラヤ滞在中に出会った数少ない英語を話すチベット人の一人である。このぽっちゃり体型で親しみやすく、非常に親切な僧侶は、私を寺院の管理人に個人的に紹介してくれた。彼が居なければ、管理人の敵意に満ちた態度によって、この寺院を長期訪問する私の計画が阻害されるところだった。しかし、白貝(法螺貝)を守る大師の寺の無愛想な監視人は、上官の指示に従うしかなかった。
それ以来、私は祠堂に収蔵されている宝物を自由に鑑賞することができるようになった。
壁には美しく描かれた巻軸画(タンカ)がずらりと飾られており、その中にはチベットの宗教画の中でももっとも興味深いモチーフの一つを描いたタンカもあった。これは、死と再生の間の中間世界であるバルドで過ごす49日間の期間に、死者の魂に現れるとされる神格の大部分を表している。この49日後、魂は、その善行と悪行の程度に応じて、神々の世界か半神界か、人間か動物か、仏教の地獄か、飢えと渇きに苦しむ霊魂か、のいずれかに生まれ変わる。絵画の中央には、六本の腕と三つの頭を持つ神ヘールカが描かれている。
彼の周囲には、9体ずつの円状に、多数の動物の頭を持つ女神たちが集まっている。
僧侶が、亡くなった男性の臨終の床で「聞くことによってバルドから救済される」バルド・トドルの言葉を唱える際に、これらはすべて数え上げられる。チベット死者の書の言葉を声に出して読むと、死者の魂が中間領域の危険な幻影の中を安全に通過するのを助けると信じられている。
寺院の離れで、小さな祠堂を見つけた。祠堂のほぼ全体が、巨大なマニ車の巨大な金属製の筐体(きょうたい)で埋まっていた。ハンドルで動かすと、この巨大な怪物(マニ車)は軋みながら軸を中心に回転し、一回転するたびに小さな鐘の音が響いた。
これは印刷された細長い紙片が詰まった、普通のマニ車ではない。宗教書(経典)のライブラリー(大蔵経)がぎっしり詰まったものである。そのため、この祈りのマシーンを一回転させると、信者は、もし自分がそもそも読む能力があると仮定して、数週間かけてこれらの経典をすべて読んだのと同じ功徳を得ることができると信じている。
私はこの祠堂を何度も訪れた。なぜなら、その壁はチベットの神々を描いた色鮮やかなフレスコ画で埋め尽くされているからだ。壁の一つには、オパメ(無量光仏)が治める西方極楽浄土が描かれている。この赤い仏の魂は、チベットのパンチェン・ラマに転生していて、フレスコ画の中央に見ることができる。
少し下には、オパメの化身であるツェパメ、すなわち限りない生命の仏(無量寿仏)[アミタユス]が描かれている。この仏は手に不老不死の霊薬(アムリタ)が入った壺を持っているが、そこからは緑の「無憂の樹」が生えている[訳注:この緑の無憂の樹はアショーカ樹で、チベット語ではmya ngan med pa'i shingと呼ばれる。マメ科の植物とされるが、杜松とする解釈もある]。
ツェパメの両側には、ブッダの位に上がろうとしている4柱の菩薩が立っている。右側の壁には、偉大なパドマ・サンバヴァが天上の座である荘厳な銅色の山に座している。
フレスコ画の下半分には、チベットの神々の中でもあまり知られていない数柱の菩薩が描かれている。その中には、9つの悪魔の顔を持ち、その上に穏やかに微笑むブッダの頭を持つシンポ(悪魔)の王もいる。
その隣には、白い獅子に乗っているのは、パドマ・サンバヴァに征服されたチベットの古代の神、ドルジェ・レパ。この神は幅広の緑色の帽子をかぶり、脇には弓と矢筒を下げている。手には雷電と血を流す人間の心臓を持っている。
3人目の菩薩は、赤い憤怒神[赤いザンバラ(Red Jambhala)]。そのシンボルはサソリと雷電だ。
入口左側の壁には、四本の腕を持つチェンレシ(観音)を祀るポタラ天(兜率天)の絵が描かれている。チベットの信仰によれば、チェンレシの魂は雪の国の支配者であるダライ・ラマに転生すると言われている。
その周囲には、ぼさぼさの髪から小さな緑の馬の頭を覗かせた「馬のたてがみ」の赤い神タムディン、八体の菩薩、「天上人」と呼ばれる五人の女神、髪の代わりに蛇を持つ川の精霊、そして馬頭の天上のリュート奏者が集まっている。
祠堂は、日中はたいてい空っぽだったので、私は邪魔されることなくフレスコ画をじっくりと観察し、ノートに観察結果を書き留めることができた。ときおり、しわくちゃの小柄な女性が現れ、マニ車を回し、そしてまた姿を消すことがあった。しかし夕方になると祠堂は敬虔な信者でいっぱいになり、マニ車の小さな鐘が絶え間なく鳴り響いた。夕方になると、私は小さな祠堂の暗い隅に座り、バターランプのわずかな明かりで祈りを捧げる参拝者たちを眺めるのが好きだった。彼らは部屋の中を、祈りの言葉を唱えながら歩き回り、仏教の教えに従って、常にマニ車を右側に置いていた。聖物を反時計回りに回すのは、悪名高いボン教、つまり仏教以前の古代チベットの悪魔崇拝の信者たちの慣習だからである。
くすぶる線香の赤い点々が、暗い壁龕から輝いていた。ときおり、半開きの扉から突風が吹き込み、バターランプが落ち着きなく揺らめいた。
その光は、祈りを捧げる人々の頭を垂れた姿の上を通り、壁画に鮮やかな筋を描き、ある者は女神の恍惚とした表情を、ある者は怒りに歪んだ悪魔の顔が、暗闇の中から輝き出した。それは魅惑的な光景であり、私にとってラマ教(チベット仏教)という異質な世界との、深く心を揺さぶる最初の接触となった。
白法螺貝を守る大師の寺(マハカル寺)を訪れるたびに、管理人は少しずつ親しみやすくなっていった。30歳くらいの息子は最初からずっと気さくだった。彼は才能ある彫刻家で、ちょうど友人のニマ・ノルブが編纂した小さな祈祷書の木版を彫っていた。私はよくこの若い芸術家の隣に座り、彼の器用な指先で、長く平らな木片にチベット文字が次々と刻まれていく様子を眺めていた。
チベット文字は、アジアでもっとも美しい文字の一つに数えられるだろう。チベット人はチベット文字を神聖なものとみなしている。なぜなら、それは仏教の著作をチベット語に翻訳するために特別に作られたからだ。今日では俗悪な目的にも使われているが、それでもなお、これらの文字が書かれたものを地面に捨てたり、ましてや踏みつけたりしてはならない。もし不要になった文字があれば、火に投げ入れなければならない。
チベットの伝承によると、雪の国チベットには7世紀半ばまで文字は存在しなかった。契約や合意の詳細を記憶するには、結び目を作ったり、平らな棒に簡単な記号を刻んだりした。
チベット文字の創始者はトンミ・サンボータと呼ばれる人物だ。彼はソンツェン・ガムポ王の大臣だった。この王はおそらく618年から650年まで生き、仏教に改宗した最初のチベットの統治者だった。ソンツェン・ガムポには二人の妻がいた。唐太宗の娘ウェンチェン(文成公主)と、ネパールの王女ブリクティである。二人とも黄教[訳注:黄教は通常ゲルク派のことを指すが、ここでは大乗仏教を指すのだろう]の信奉者であり、彼女たちの強い要請を受け、国王は仏教の教師を自国に招くことを決意した。同時に、国王は大臣トンミをインドに派遣し、チベット語に適した文字を考案するために必要な知識を習得するまで、仏教の学びの中心地の一つに通うよう指示した。苦難に満ちた放浪の末、トンミは仏教の故郷にたどり着いた。そして、ほぼ10年間、リヴィカラ師(Livikara) とデーヴァヴィド・シンハ師(Devavid Sinha)のもとで従順な弟子として過ごしたと言われている。この師から「善きチベット人」を意味するインド姓、サンボータを授かった。彼はインドの文字を手本に、左から右へ横書きするチベット文字を考案した。その後、彼はインドで学んだことを同胞に伝えるため、雪の国に戻った。
彼はチベット語の最初の文法書を編纂したが、これもインドの文献をモデルにしていた。これらはそれぞれ数ページの小さな本だったが、その後チベットの著者によって書かれたチベット語の文法規則に関するすべての包括的な論文の基礎となった。トンミ・サンボータの忘れられない旅から半世紀後、チベット人はインドから2つの注目すべきアルファベット、ワルトゥラ文字(Wartula)とランツァ文字(Lantsa)を採用した。しかし、チベットでは、その非常に複雑に見える文字は、祈りを書いたり、宗教書の表紙を飾ったりするためにのみ使用された。
チベットのアルファベットには、活字体と筆記体の2つの主要な形式があり、それぞれウチェン文字とウメ文字として知られている。しかし、他にも多数の文字があり、例えば、公式の書記官が用いる優雅に曲線を描く朝廷文字や、すでに述べたチベットの女神群にちなんで名付けられた珍しい天上文字などがある。30のアルファベット文字、4つの母音記号、そして多数の複合文字が、数字、まつ毛がさまざまな方向に曲がった人間の目の図、三角形、四角形などに置き換えられた2つの暗号も使用されている。
チベット人はインド人の助けを借りてアルファベットを考案したが、製紙の技術は中国人から学んだ。チベットの紙は主に柳の樹皮で作られ、時には根から作られる。紙の品質は産地と製法によって大きく異なる。最高品質の紙はブータンで作られているが、近年の政治的出来事により、ラサへのブータン紙の輸出は大幅に減少している。ブータン産紙の大きな利点は、その柔らかさと滑らかさにある。これは、判読しやすい木版画にとって重要な条件だ。中央チベットの製紙産業の中心地はギャンツェ。ここで生産される紙は、主にチベット政府機関で使用される。そのため、この地域の住民は必要な量の樹皮を集め、製紙業者に届ける義務がある。各村への要求量は、村の規模に応じて決定される。樹皮は数日間水に浸され、その後細かく切り刻まれ、最後に複数の作業員によって長時間踏み固められ、ドロドロになるまで粉砕される。粉砕された樹皮は、木枠に取り付けられた目の細かい網の上に広げられ、流水に注意深く浸されて不純物や粗い破片が洗い流される。洗浄工程が完了すると、木枠は水から引き上げられ、網に付着した紙パルプは再び滑らかにならされ、生の紙が付着した木枠は乾燥のために外に出される。数日後、シートが乾いたら、ネットから引き抜いて切る。
南チベット国境地帯では、薪が豊富に手に入るため、異なる製法が用いられている。細かく編んだ籠に木灰を詰め、その上から水をかける。籠の底から流れ出る液を容器に受け、沸騰するまで加熱する。刻んだ樹皮を沸騰液の中に投入する。樹皮が柔らかく煮えたら、すり鉢と木の杵で練り粉状になるまで叩く。
この練り粉を浅い容器に入れ、水を振りかけ、木片で激しくかき混ぜる。練り粉は目の細かいふるいにかけられ、粗い破片が取り除かれる。濾されたパルプは、木枠に張った布の上に広げ、流水で洗う。最後に、完成した紙を火で乾燥させる。
この紙は、後処理を施されることはほとんどない。とくに滑らかな紙が必要な場合は、幅広の紙片を平らな木片の上に置き、貝殻で滑らかにする。筆記中にインクがにじむのを防ぐため、紙は薄めた牛乳で処理し、再び完全に乾燥させる。紙を作る際に、澱粉やヒ素化合物がパルプに混ぜられることもある。これもインクのにじみを防ぐ効果があるとされ、またカビや虫に対する紙の耐性も高める。そのため、ほとんどのチベット紙は有毒である。
チベットの僧院の換気の悪い蔵書室では特に顕著な強烈で奇妙な臭いを放ち、短時間で激しい頭痛を引き起こすこともよくある。チベットで最初に書かれた書物は巻物だった。今日でも、特に重要な文書は黄色い絹の巻物に赤や黒のインドインクで書かれていることがある。
ヒマラヤのタマン族の間では、チベット文字の巻物も用いられている。しかし、チベット本土では、巻物は間もなく、インドのポティ(棕櫚の葉でできた本)を模した木版画や写本に取って代わられた。チベットの木版画の本は、両面に印刷された別々の長い紙から成っている。
各紙には、作品の略称、巻、章、そして余白にページ番号が記されている。
紙は重ねて絹布で包まれ、2枚の木製の表紙でしっかりと綴じられている。表紙の上部には、しばしば芸術的な彫刻が施されている。複数巻からなる作品の場合、巻数と作品の詳細を示す錦織りの保護フラップ(蓋)が付いた幅広の帯が、通常、包装と木製の表紙の間に留められ、本の狭い端から突き出ている。各巻は番号ではなく、アルファベットの文字で区別される。
チベットでは活版印刷が知られていないため、チベット語の書籍は、グーテンベルク以前のヨーロッパで行われていたように、各ページを別々の木版で印刷しなければならない。したがって、このような書籍の制作作業の大部分は、版木職人の手に委ねられる。版木職人の多くは並外れた技術力を発揮し、版木に刻まれた文字は美しい形をしており、大きさも均一で、数百ページにわたって規則的な間隔で並んでいる。しかし、人は誰でも間違いを犯すもの。そのため、職人が単語や文の一部を省略してしまうこともある。その場合は、省略された単語は小さな文字で切り抜かれ、点の列で本文の適切な箇所と結び付けられる。短い注釈も同様に挿入される。
版木の製造には、主に榛(ハシバミ)や白樺(シラカバ)などの柔らかい木材が使用される。用意された版木の上に、必要な大きさの文字と装飾が描かれた透明紙を置く。つぎに、文字と装飾の間の版木の表面をナイフで切り取り、装飾を浮き彫りにする。
大型の書物を印刷するには、数千枚の版木が必要となる。すべての僧侶は当然のことながら、版木を寺院のもっとも貴重な財産の一つとみなしている。版木が整然と積み重ねられている貯蔵室は、厳重に監視されている。火災は、多くの場合数百年も前の乾燥した木材の板に危険な栄養を与え、数時間で、何世代にもわたる勤勉な僧侶たちの賜物を焼き尽くしてしまう可能性がある。
版木の準備は、版木師に大きな宗教的功徳をもたらし、その功徳は、版木師の制作費を支払ったマエケナス[紀元前1世紀の古代ローマの政治家。財を成し文化を保護した]にも分け与えられる。そのため、チベットの版木印刷本には、印刷場所と著者名が記載されていて、その関係において、版木師が自らの手で本文を書いたのか、それとも筆写者に口述筆写したのかが一般的に明記されている。この記述は、版木切りの費用を誰が負担し、誰が実際に版木を切り出したのかを読者に知らせるものだ。これらの詳細には、しばしば非常に興味深い情報が含まれている。
たとえば、ある神が霊媒の才能を持つ僧侶の体に憑依し、僧侶の口を通して本の印刷を命じた、といったことだ。多くの場合、読者は、その本を利用した他の人々から、その本の助けによって何が達成されたかを聞かされる。たとば、軍神チャムシングとその従者に祈ることで仲間を傷つける方法を説くオカルト作品「赤い血の矢を投げる」の最後の段落では、それがパドマ・サンバヴァによって隠され、学者の栄光の太陽によって「赤い死体の歯」として知られる場所で発見された非常に価値のある本であると主張している。その助けにより、発見者はすべての敵を打ち負かした。それは後に、魔術師のブラック・ムーンとレッド・スカラーによっても使用され、同様に成功を収めたのである。
例外的に人気のある作品はごくわずかで、寺院に常備されていたり、市場で行商人によって売られていたりする。原則として、書籍を入手したい人は、まずその作品の版木がどこにあるかを確認する必要がある。この調査の助けとなるのが、巡礼者のために発行されている寺院ガイドだ。ガイドには、寺院の印刷機で印刷された作品が通常掲載されている。つぎに、希望する書籍の印刷許可を寺院の住職から得る。これは通常、料金を支払うことで許可される。
しかし、一部の書籍の版木は、高位の寺院、あるいはチベット政府の封印によって厳重に保管されている。これらは、医学、占星術、儀式、舞踏、そしてとくに黒魔術の様々な分野に関する秘伝書であり、その内容は共有財産となることが認められていない。当局が申請者の身元と書籍の目的を確認した後、特別な予防措置を講じ、原則として高額の税金を支払った上で印刷が許可される。
本の印刷は訓練を受けた僧侶によって行われる。
顧客は彼らにわずかな賃金を支払うだけですむが、印刷中の飲食代、そして必要な紙とインクの費用を負担しなければならない。多くの寺院には版木はあっても、住職の中に本作りの経験を持つ僧侶がいないため、まず印刷業者を探さなければならない。印刷は一般的に暖かい夏の時期に行われる。大型印刷機では、僧侶と一緒に一般の人々が雇用されることもよくある。彼らは夏の間ここに来て働き、冬になると故郷の村に戻る。
印刷業者は3人1組で作業する。1人が紙を切り、2人目が版木を準備し、3人目が実際の印刷を行う。3人目は版木にインクを塗り、その上に紙を置き、刷毛で表面を滑らかにする。印刷された紙は版木から外され、乾燥される。経験豊富な印刷業者が雇用されている場合、作業は非常に速く進む。平均して、ある印刷班は1日に両面印刷で100枚を印刷する。
一般的に、手書きの本は木版印刷よりも希少で、価値も高い。装飾的なカリグラフィーや芸術的な絵画は、現代の中世ミサ典書に劣らないほど優れた写本も存在する。黒漆塗りの紙に銀、あるいは金の文字で書かれた本は、非常に貴重だ。チベット人は、木製の書体で書かれた短いメモや筆記練習のために、チョークで塗った木板をよく使う。また、このような木板は機密メッセージの伝達にも用いられる。文章はチョークで塗った木板に書かれ、ケースに入れられる。メッセージを運ぶ使者は、危険が迫った場合に備えて、チョークを拭き取って判読不能にするよう指示される。多くの寺院の学校では、特別な筆記法が実践されている。ここでは、黒漆塗りの木板に、粘り気のある白い粘土に、太い葦ペンで文字が描かれる。
印刷工は、必ずしも仕事に熱心であるとは限らない。完成した本にはしばしばページが抜け落ちており、顧客がどうせ読まないだろうと期待して、印刷業者が中間に数ページの空白ページを挿入することもある。印刷がひどく劣化していて、ほとんど判読できないことも少なくない。
学者たちは1世紀半もの間、チベット文学の探究に励んできた。しかし、徹底的な研究にもかかわらず、この広範な領域は、これまでのところ概要しか明らかにされていない。
この文学のどの分野も、雪の国チベットのすべてを支配する宗教と密接に結びついていない。瞑想や占星術、地理や絵画に関する本は、すべて崇拝や信条と分かちがたく結びついている。チベットの著作の圧倒的多数は、仏教の教義を直接扱っている。そのような文献の最も大規模な2つのコレクションは、カンギュルとテンギュルと呼ばれている。
カンギュルはいくつかの大きな寺院で印刷されているが、テンギュルはナルタン寺院とデルゲ寺院でのみ印刷されている。かつて東チベットのチョネ僧院で印刷されたこれら2か所の版木は、数十年前の火災で焼失したため、希少価値の高いものだ。ヨーロッパやアメリカの多くの図書館にはカンギュルの写本が所蔵されているが、より希少なテンギュルの完全版を所蔵している図書館はごくわずかである。
カンギュル(戒律の翻訳)は、8世紀から13世紀にかけてサンスクリット語、パーリ語、中国語からチベット語に翻訳された多数の仏教文献で構成されている。カンギュルはいくつかのセクションに分かれていて、その中でもっとも重要なものはつぎのとおりです。
13巻からなるドゥルヴァ(僧侶の生活と修行の規則)、21巻からなる「彼岸に達した知識」として知られる哲学書、30巻からなる道(釈迦とその弟子の説法)、そして22巻からなる秘教の教え。
テンギュル(宗教教義の翻訳)には、カンギュルに収蔵された文献の注釈に加え、占星術、芸術、詩学、文法に関する豊富なエッセイが収録されている。
もう一つの重要な全集は、64巻からなるいわゆるリンチェン・テルトゥプ(宝珠)。これは主にニンマ派で用いられた文献をまとめたものだ。ニンマ派は重要な宗派であり、その教義は現代チベットの支配的な宗派であるゲルク派の教義とは対立している。宝珠の書物には、チベット最古の宗教的慣習に関する貴重な情報が数多く含まれている。
この種の書物の中でも最も重要なものの一つに、「タマネギ谷から来た男」ことツォンカパ(1356-1418)と彼の二人の弟子による著作がある。『勤勉なレプチャ族の子供たちが竹の容器で水を汲む』『シッキムの首都ガントクの王宮』『ランギト族とティスタ・ゲルク派の伝説的な結婚式である河の踊り』の創始者であるツォンカパは、非常に多作な著述家だった。300冊以上の著作が彼の筆から生まれた。その中でも最も重要なのは、哲学書『菩提道次第』だ。ツォンカパの甥であるゲドゥンドゥブ(1391-1474)もまた、数々の重要な著作を著した。彼は、これまで雪の国の運命を導いてきた14人のダライ・ラマの最初の人物でした。
もっとも重要な全集の一つは、ダライ・ラマ五世の手によるものだ。彼はゲルク派の精神的指導者という地位にありながらも、ニンマ派の教えと儀式に深い傾倒を示した。彼の著作の中でも「オカルト書」と題された部分は、チベット政府の特別な許可を得てのみ出版が認められており、神秘的な魔術儀式の描写が特に豊富である。ニンマ派の「テルマ」、すなわち「埋蔵宝典」は、チベット文献の中でも特別な部類に属している。これらは、仏教の宣教師パドマ・サンバヴァによってチベットおよび周辺地域に隠され、数世紀後に寵愛を受けた僧侶、テルトン、すなわち「宝典探し」によって発見されたとされる書物(埋蔵経典)だ。チベット史上最も特異な人物の一人、パドマ・サンバヴァは、8世紀半ば頃、当時の王ティソン・デツェンの招きを受けて、故郷のウディヤーナからチベットへ行き、仏教を広めた。伝承によると、彼は多数の宗教書を著した。自らが得た知識は、後世の僧侶によってのみ完全に理解され、正しく応用されると考えていたサンバヴァは、多くの書物を洞窟や寺院の礎壁に隠した。そこでは、今でも時折、これらの奇妙な書物が発見されると言われている。
歴史書は数多く存在するが、それらは雪の国の歴史を仏教界の観点からのみ扱っており、虚構と事実を区別することは困難だ。もっとも有名な例としては、ソンツェン・ガムポ王が著者とされる『十万宝戒』、青書、赤書、そしてインドにおける仏教の起源とその後のチベットへの伝播について記したブトンの書物などが挙げられる。中国大陸の古代仏教信仰の地、敦煌の洞窟では、チベット語の書物を含む古い蔵書の遺跡が発見された。古風な文体のため翻訳は極めて困難で、未だに不完全である。しかしながら、幾人もの王、陰謀を企む大臣、そして争い好きな軍閥の姿が、過去の闇の中から現れている。敦煌文献のかすれた文字は、大量の動物を屠る供儀や、死の崇拝の神秘的な儀式について語っている。
チベット文学のもっとも興味深い要素の一つに医学書がある。その難解な用語は、その知識がある人以外には理解できない。チベットでは、医学は他の多くのことと同様、僧侶の領域である。チベットの偉大な仏教僧院のほとんどが独自の医学学校を持ち、そこで医師の技術が教えられている。チベットで最も有名な医学学校はラサのチャグポリにある。チャグポリは「鉄山」と呼ばれ[中国語では薬王山]、その急峻な円錐形の山はダライ・ラマの住まいの向かいに聳え立っている。僧侶の医師にとってもっとも重要な教科書は、いわゆる『四根論』[ギュ・シ]で、多数の注釈が付いている簡潔な著作である。これらの書物の多くは秘教書とみなされており、悪用を防ぐため、政府によって版木は封印されている。よく用いられる医学書の一つに『ヴァイドゥリヤ・ンゴンポ』(青いラピスラズリ)がある。この本には、奇妙な見た目のチベットの外科器具の挿絵や、秘薬の調合に関する処方箋などが掲載されている。
僧侶は、入手可能なあらゆる薬剤とその使用法に関する知識に加え、病をもたらす悪魔の影響に対抗するための多くの複雑な儀式を習得しなければならない。病魔との戦いにおける彼の神聖なる味方は、青い肌の姿で薬草ミロバランの実を手に持つ医学のブッダ、メンラ(薬師仏)と7人の侍者たちである。医学文献と密接に関連しているのは、占星術に関する数多くの著作である。なぜなら、治療やその他のラマ僧の儀式の成功は、星の配置や、あらゆる種類の地元の神々や天上の神々の行動に大きく依存しているからである。もっとも素朴なチベット人でさえ、占星術の経験則に従っている。例えば、彼は決して旅に出ることはない。