激動の日々

ヒマラヤ地帯で過ごした3年間は、興味深いと同時に政治的に動揺した時期でもあった。中央アジアへの玄関口であるカリンポンで、私はヨーロッパやアジアから多くの素晴らしい人々、チベット僧や探検家、王子や冒険家、聖人や大臣たちと知り合った。しかし、あらゆる会話の裏には、世界最高峰の山々の麓にある禁断の地で起こった大事件の影が潜んでいた。ネパールで革命が勃発し、古くからのチベットの聖地は赤い中国に征服され、ネパール国王とダライ・ラマは国外逃亡を余儀なくされた。

本章では、当時の日記から、カリンポンでの私の経験と、今もなおアジアにその影響を及ぼしている出来事に関する記述をいくつか引用したい。19508月下旬、シッキムの皇太子テンドゥブ・ナムゲルが825日に結婚した。シッキムは16世紀以来、チベット系の王家によって統治されてきた。チベットの祖国との絆を保つため、シッキムの王子や宮廷高官はほぼ例外なくチベット貴族の女性と結婚する。皇太子はこの暗黙の慣習に従い、結婚式はガントクで盛大に行われた。

その後まもなく、結婚式の招待客の一人が私に、祝賀会は非常にうまくいったが、残念ながら晴天をもたらす役目を担っていた二人の天気呪術師が一時的にその役目を果たせなかった、と教えてくれた。チベット人や、同じくラマ教を信仰する近隣民族の間ではよくあることだが、シッキムの王は祝賀行事の間晴天を確保するため、二人の天気呪術師を特別に雇っていたのである。

初めはすべて順調に進んだ。天候を作る者たちは、雨を司る水の精霊への供物を王宮の庭園に埋め、定められた呪文を唱えた。祝祭の朝、魔術師たちと依頼人の期待通り、澄み切った青空から太陽が輝いた。二人は自分たちの仕事に満足し、豊かな報酬を確信したため、大量のシコクビエ・ビール[トンバ]を飲み干し、庭の隅の木陰に横たわり眠った。

しかし、彼らが眠っている間に、黒雲が首都に集まり、まもなく土砂降りの雨が降り始めた。びしょ濡れになりながらも酔いが覚めた魔術師たちは、埋められた供物へと急いだ。王が天候を作る者たちに彼らの義務を強く戒めるために遣わした兵士の一団も、その後ろに続いた。落胆した呪術師たちは天候魔法の道具を掘り起こし、そして何を見つけたのか? 

指示によれば、水の精霊への供物として、土製の蛇13匹と土製の蛙13匹を埋めるべきだったが、実際には蛇14匹と蛙12匹しか埋められていなかった。

雨乞いの神々が供物の不正確さに激怒し、罰として悪天候を送ったのも無理はない。魔術師たちはできるだけ早く間違いを正した。

幸運にも、雨はすぐに止み、1時間後にはふたたび雲ひとつない青空がガントクに広がった。天気を統御する者たちがふたたび酔っぱらうには十分な理由だった。

 

19509月初旬 

チベット人の知り合いが徐々に増えていった。その中に非常に興味深い若者がいた。ニマという名の彼は、元閣僚カブショパの代理人を務めていた。ニマは非常に機転の利く若者で、中国語とヒンディー語を流暢に話し、英語も非常に上手だ。故郷はチュンビ渓谷だが、チベット各地に長く住み、中国やマラヤにも滞在したことがある。カリンポンに住んで1年になり、ラサの顧客のために仕事でほぼ毎月カルカッタとボンベイに出向いている。ヨーロッパの服を好み、車、飛行機、特急列車での旅行にも西洋のビジネスマンと同じくらい慣れている。彼の驚くほど美しい妻は、中国風の服を着て西洋風の化粧を好み、チベット人と縁戚関係にあるナシ族[ナヒに近い。江戸っ子の言葉のようにヒはシのよう。中国語にヒの音がないのでナシ族と呼ばれる]の出身だ。彼らは東部の中国・チベット国境地帯に住んでいる。

ニマは世界の出来事に非常に精通している。彼は毎日インドの新聞を読み、月に一度はリーダーズ・ダイジェストの最新号を購入している。しかし、記事の意味を理解するのに苦労することがよくあり、とくに技術的または科学的な事柄についてはそうだった。

そこで私たちはすぐに双方にとって有利な合意に達した。私は毎日彼と一緒に英語の雑誌や新聞の記事に目を通し、なじみのない概念を彼に説明し、彼は私のチベット仏教の本の翻訳と口語チベット語の知識の向上を手伝うことになった。私の仕事はすぐに非常に厳しいものであることが判明した。ニマは学ぶことに情熱を持ち、あらゆることを知りたがっているからだ。彼は特に物理学と化学の基礎に興味を持っている。化学を12年勉強したのは幸運だったが、チベット語には「金属」という言葉すらなく、「金」「銅」「銀」という言葉しかないのに、クロロフィル[植物細胞の葉緑体の色素。光合成を行う]の構成や同位体(アイソトープ)[同位元素]という言葉をチベット人に教えるのは絶望的だった。

新しい友人は、まさに理想的な教師であることが判明した。彼は敬語や文語、そして多くのチベット方言に精通しているだけでなく、チベット仏教の教義に関する知識の宝庫でもあった。これは彼の教師が博学な僧侶であり、後に現ダライ・ラマの家庭教師となったという事実からもわかる。

しかしながら、正統派の教育を受けたにもかかわらず、ニマは多くの仏教の教義に対して非常に懐疑的な態度を示している。これは、ニマの家の壁にチベット仏教の巻軸画がキリスト教の聖人の絵と並んで掛けられていることからも明らかだ。ニマの父親は、厳格に正統派の信仰を持つ老紳士で、常に数珠を手放していない。

 

19509月中旬 

チベットと共産党政権の関係はここ数ヶ月で次第に悪化し、今や危機的な局面を迎えている。赤い中国は最近、チベットを「解放」する意向を表明した。最初の事件はすでに発生しており、カリンポンでは毎日、共産党によるラサへの進軍開始が予想されている。赤い中国軍はチベット東部国境に集中しており、その司令官である劉伯承将軍は、解放軍が間もなくチベットに進軍し、英米帝国主義者の侵略的影響力を粉砕すると宣言した。彼は自らの任務を「チベット人民を中華人民共和国という偉大な家族に復帰させること」としている。

チベット政府は、この近々訪れようとしている「解放」に対して、当然ながら熱意を欠いている。政府は脅威にさらされている国境に軍隊を派遣し、総動員令のようなものを発令した。わずか一万人の、装備も貧弱な正規軍を増強するため、「新兵」が非常に簡単な手順で召集されている。さまざまな橋に駐屯している兵士が、橋を渡りたいが旅を続ける理由を納得のいくように説明できない健康な男性を、最寄りの集合場所に連れていくというものだ。

ここ数ヶ月、チベット政府は中国との平和的解決のためにあらゆる手段を講じる用意があると繰り返し表明してきた。昨年3月には、香港経由、あるいはニューデリー駐在の共産党大使を通じて北京との接触を図るため、7人からなる代表団が結成された。代表団は5月にカルカッタに到着し、6月に香港へ出発する予定だった。

しかし、すでに発給されていた香港行きのビザは、代表団の飛行機が出発する直前に取り消された。和平使節団は現在、ラサからの更なる指示を待つため、カリンポンに滞在している。パリ・ゾン地方の大雪の影響でチベットの首都との電信が途絶え、回答が届くまでに長い時間がかかっている。ラサからカリンポンへ急使が返答を届けるのに、20日もかかってしまった。

 

19509月下旬 

事態は深刻化している。インドの新聞によると、劉伯承将軍はチベット国境に6万人の兵士を配置し、チベットの国民食であるツァンパ(麦こがし)を毎日食べさせている。これは、チベット国内に入った後、必要であれば自給自足生活を送るための準備である。カリンポンに到着したチベット人によると、国民の大部分が中国との戦争に反対しているという。僧侶の中には、チベットを共産党に戦闘なしで明け渡すことを公然と支持する者もいるとされる。この敗北主義は、パンチェン・ラマ支持者が最高指導者[パンチェン・ラマ]の中国亡命からの帰還を切望する一方で、チベット政府に対してとくに好意的な感情を抱いているわけではないという事実と密接に結びついている。

この複雑な状況を理解するには、ラマの地に普及した奇妙な「二重教皇性」について簡単に触れておく必要がある。歴史において幾度となく、二人の「皇子」の対立が引き起こされてきた。

パンチェン・ラマの居城は、シガツェ近郊のタシルンポ僧院である。宗教的な観点から見ると、パンチェン・ラマは無量光仏オパメの生まれ変わりであり、ブッダ候補(菩薩)チェンレシの生まれ変わりであるダライ・ラマよりも上位に位置づけられる。しかし実際には、チベットの歴史的発展のなかで、ダライ・ラマが真の統治権を掌握し、神王となったのである。

現在のパンチェン・ラマは、中国領内で少年時代にオパメの生まれ変わりであることが発覚し、中国に保護され、育てられた。

当初、蒋介石の部下たちは教派内の若き「皇子たち」を利用しようと企み、後に共産党も同じことをした。中国の政治的野望に関心を持つチベット人はほとんどいなかったが、パンチェン・ラマの復帰につながるのであれば、中国の侵略を歓迎する人たちもいたのである。

パンチェン・ラマの他の信奉者、とくにシガツェ地方の僧侶や貴族たちは、長年チベット政府から執拗に攻撃を受けてきたが、彼らはそれを根に持ち、だからこそ中国に同調するのである。

セラ大僧院の僧侶たちや、1947年に暗殺された摂政レティン・リンポチェのかつての支持者たちもまた、親中国である。リンポチェはチベットでもっとも傑出した摂政の一人であり、現在のダライ・ラマが未成年で統治を開始していない間に、雪の国を統治した政治的に非常に重要な人物の一人であった。ダライ・ラマ13世の崩御後、14世ダライ・ラマが未成年であった間、レティン寺院の転生ラマが摂政に任命された。宗教的義務を非常に重んじていたレティン・リンポチェは、長期間僧房に隠遁していた際、一時的に国政を友人の「龍岩僧院の尊者」タグタ・リンポチェに託した。

しかし、タグタ・リンポチェは摂政の座に居座り、レティン・リンポチェが僧房から出てきても、政務の返還を拒否した。そこで、レティン寺院の僧侶たちは、セラ僧院の僧侶たちの支援を受け、タグタ・リンポチェを倒そうと決意した。

多くの貴族が関与した陰謀は、やがてタグタ・リンポチェの信奉者たちによって発覚した。首謀者たちは逮捕され、レティン寺院は政府軍に襲撃され、セラの僧侶たちも優勢な武力に屈服させられた。レティン・リンポチェは投獄され、そこで殺人犯の手によって殺害された。

 

19509月下旬 

インド人の友人たちが、魅力的な、別荘のような家を私に貸してくれた。しかも報酬は一切受け取ろうとしなかった。これこそ評価の高い東洋式おもてなしの真髄といえるだろう。家はインド人居住区とヨーロッパ人居住区の間の庭園の真ん中という、素晴らしい立地にあった。

隣人はビルマのラタキン王子で、ビルマ最後の王であるティボー王の娘と結婚している。ラタキン王子は魅力的な老紳士で、私の訪問や王子自身の頻繁な訪問は、単調な亡命生活における心地よい気分転換となっている。彼は家の庭に小さなビルマ風のパゴダ(仏塔)を建てており、屋根には小さな鈴が吊るされている。少しでも風が吹くと鈴が鳴るので、夜寝ている間にも銀色の鈴の音を耳にすることがあった。

丘の中腹の少し下ったところに壮麗な庭園と広いテラスを備えた大きな近代的な建物があった。これは著名なベンガルの詩人ラビンドラナート・タゴールの息子、ロティンドラナート・タゴール教授の家だった。とはいってもいかにも家父長的な風貌のタゴール教授と妻のプラティマは、めったにここにいなかった。彼らはほとんどの時間、詩人がカルカッタ北部に設立した教育機関、シャンティニケタンで過ごしている。そのため、彼らは家の2階を、友人からはパットと呼ばれている若いスコットランド人宣教師、ジョージ・パターソンに貸している。髭を生やした、いつも陽気なこのスコットランド人は、すぐに私の親友の一人になった。

彼はイギリス人宣教師と共に、東チベットのカム地方で数年間活動しており、地元の方言を話すことができる。1949年、共産党軍が国境に接近し、中国の市場町との通信を遮断すると、パットは数人のチベット人召使と共に馬に乗り、チベットでもっとも未開の地の一つを数週間かけて横断し、インドから新しい装備と食料、そして医薬品を調達した。しかし、中国共産党軍の進軍は予想以上に速く、パットが帰路に着いた時にはすでに道は塞がれていた。非常に残念なことに、彼はもっとも大切な持ち物、かけがえのない写真をカムに残してきた。いつかチベットに戻れるという希望を抱き、彼は当面カリンポンに腰を落ち着けている。

 

195010月下旬 

カリンポンで新たな騒動が起きた。シッキム州から国境の峠に至る大キャラバン街道で、二重殺人事件(二人の殺害)が発生したのだ。6人のチベット人強盗団が、国境の手前で荷を積んだラバに乗ったチベット人2人を止め、殺害し、荷物を奪って逃走した。被害者の1人は、かつて東チベットに駐留していたチベット軍の元大尉だった。彼はそこで数々の暴力行為を犯していたとされる。殺害犯は、彼に虐待され、機会があれば復讐を誓ったカムパ族だと報じられている。もう1人の犠牲者は、大尉の甥だった。

市場の店主たちは、事件の経緯を正確に把握していると主張している。犯人は2人をしばらく追跡しており、キャラバンが見当たらない瞬間を狙って襲撃したという。短い格闘があったが、元大尉は襲撃者の顔を見分けたので、自分の終わりの時が来たことを悟り、さほど激しく抗おうとはしなかった。殺人者の一人は好機と見て、元大尉の頭に強烈な一撃を加えたが、武器は跳ね返され、被害者は気絶しただけで無傷で膝から崩れ落ちた。チベット人の悪党たちは説明を思いついた。元大尉は武器から身を守るお守りを持っていたのだと。襲撃者たちは元大尉の首からお守りを引きちぎり、次の瞬間、剣が元大尉の頭蓋骨を斬り裂いた。死んだ男の甥は慈悲を乞うたが、犯人の名前を漏らしそうなので、殺害した。

殺人者の一人は事件後カリンポンに戻り、知人にそのことを自慢した。そして警察に捕まる前に再び姿を消した。当局の活動は今や最高潮に達し、チベット警察の巡査部長がチュンビ渓谷から殺人犯の追跡を支援するためにやって来た。警察はすぐに犯人を追跡した。ダージリン市場で、剣で傷を負ったラバを売ろうとした男が逮捕された。男は警察に対し、東ネパールへ急いでいた男たちからラバを安く買ったため、負傷したラバを連れて行けなかったと語った。調べの結果、ラバは2人の被害者のもので、小競り合いの際に剣で切り傷を負ったことが明らかになった。ネパール警察とインド警察は直ちに追跡を開始したが、犯人のほとんどはおそらくバラバラになっていたようで、東ネパールの山中の荒野で足跡が分からなくなってしまった。殺人犯のうち捕まったのは1人だけだった。

 

195011月初旬 

アジアを旅するオーストリア人、ウィーン出身の旧知のヘルベルト・ティッチ博士がカリンポンに到着した。

1949年の夏、私たちはシッキム探検旅行を計画していたが、財政難のため頓挫していた。今、私たちはそれぞれ別々に、別々のルートで、まさにこの旅に出発しようと考えていたまさにその時に再会した。しかし今となっては計画を進めることは不可能だった。なぜなら、インドとシッキムの国境は既に封鎖されていたからだ。

 

195011月中旬 

チベットと中国の戦争が始まった。チベット東部国境の重要な商業都市、チャムドはすでに敵の手に落ちていた。夜襲によって、この町は戦闘なく中国軍に占領された。共産党軍は攻撃開始前にロケット弾による花火を打ち上げたとされている。原爆のことを耳にしたチベット兵は、中国軍がこの奇跡の兵器を自分たちに対して使っていると思い込み、足の動くままに逃げ去った。その地域のチベット軍を指揮していたンガボ将軍は捕虜になったという説もあるが、中国軍が迫ってくると、公然と逃亡したと主張する者もいる。敵の圧倒的優勢にも関わらず、ラサは闘いを放棄しなかった。新兵が脅威にさらされている地域に向うとともに、チベットはシンプルに国連に援助を要請した。

チベット人の知人によると、ラサでは中国軍の空襲の可能性がかなり懸念されているという。高射砲がないため、爆弾に対する防御として、大きな祈祷旗を立てるしかなかった。かわいそうなチベット!

1912年に最後の中国軍(清軍)が撤退して以来、この「雪の国」は事実上の独立を享受してきた。中国はチベットの内政にもはや口出しする権利を持たなくなった。しかし、完全な独立を目指していたチベットは、国境を越えた列強との外交関係を樹立して自治を強化することを怠ってしまった。ラサに大使館を置いていたのはイギリスとネパールだけだった。

のちに、蒋介石政権はチベットの首都に外交使節団を派遣することが許された。当然のことながら使節団のメンバーは他の二国の大使以上の影響力を持っていなかったが、中国の報道機関は外交官たちの活動を、あたかも彼らが国を運営しているかのような形で報道した。その結果、チベットの情勢を正確に把握することが難しく、情報を多かれ少なかれ中国の報道機関の報道に依存していた世界世論は、チベットが依然として中国の一部であるという印象を受けた。

中国共産党が中国で優位に立つと、チベット人は強大な隣国の新たな支配者との摩擦を避けようと躍起になったため、蒋介石の代表団はラサから追放された。その時、土壇場になってようやく、彼らは30年前に取るべきだった行動に出た。少なくとも一部の西側諸国から独立の承認を得ようとしたのだ。1948年、財務大臣シャガパ率いるチベット政府4人からなる代表団が香港を出発し、アメリカとヨーロッパを歴訪した。表向きは、チベットは西側諸国との貿易拡大を望んでいた。しかし実際には、代表団はチベットの承認と、ワシントン、ロンドン、パリ、ベルンにおけるチベット大使館の設立を求めていた。

 

195011月中旬 

ガントクに大型キャラバンが到着し、武装警備員の監視下で積み荷が降ろされた。これはチベット国の国宝の一部と言われており、マルワリ人の銀行家によって保管されているという。

ヒマラヤン・ホテルはラサからの難民で満員になり始めていた。彼らのほとんどはマクドナルド家の旧知の友人で、驚きの歓迎の声が絶えなかった。新しく到着した人々の中には、チベットに関する書籍で見覚えのある顔が多く見られた。中にはダージリンやカリンポンで学校に通い、流暢な英語を話す美しい王女様もいた。

難民の多くは、古代の巻物、宝石、貴重な彫像、文書など、貴重な所有物を持ち込んでいた。しかし、彼らの中には、稀に見る先見の明のなさで、逃亡の際に山ほどの食料を携行し、宝石や金銭はラサの僧院の僧侶に預けた者もいた。

ラサのチベット人から興味深いニュースがもたらされた。数週間前、未成年で、地位に就くまであと2年のはずだったダライ・ラマが、雪の国の統治者に就任したのだ。この決定は、国家の神託[ネーチュンのこと]と、ダライ・ラマが自ら国家を統治すればチベット人の抵抗の結束が強まるだろうという大臣たちの見解が重なった結果である。

 

195011月下旬 

一夜にしてカリンプンに12人のジャーナリストが姿を現した。

このところチベットの話題で持ち切りになっている。カメラで飾られたカリンポンの街路を記者団が駆け抜け、チベットからやって来る人々に対し、ラバ使いに至るまで、通訳の助けを借りてつぎつぎと質問攻めにした。午後になると、彼らは電信局の外に列を作った。局員たちは生まれてこのかた、これほど忙しくなったことはないだろう。夕方になると、記者たちはヒマラヤン・ホテルで地元在住のヨーロッパ人たちと座り、アニーラが背の高い竹の器に注いでくれるマイルドな雑穀ビール(チャン)を味わう。彼らは政治の舞台裏を熟知した興味深い人物たちで、普段は静かなカリンポンに、外の世界の激動の様相を持ち込んでいた。

 195012月初旬 

中央アジアの辺境、ネパールに新たな騒乱が形成された。トリブナ国王を追いやり、彼とその家族を事実上王宮に監禁したモハン・バハドゥル・ラナ首相の独裁政治に対する不満が長年水面下でくすぶっていた。それが今、革命へと燃え上がったのである。チベット情勢は二の次となり、すべての目はネパールに注がれた。ネパールの首都は非常に混乱しているように見えた。

国王は首相による拘束から逃れることができ、インド大使館に駆け込んで亡命を求め、認められた。

その後まもなく、彼はインド航空機で国外へ出国し、インド政府の賓客としてニューデリーで仮住まいを始めた。首相は空位となった王位に13歳の王子を就けた。インド・ネパール国境では、ネパール会議派に属する反乱軍と政府軍の間で戦闘が勃発した。インド国民会議派をモデルとし、インド国民の間で多大な共感を得ているこの党の指導者のほとんどは、長年カルカッタに亡命していた。反乱軍は十分な装備を備えていて、政府軍とは異なり、数機の航空機さえ保有していた。彼らは首相が辞任しなければ首都を爆撃すると脅迫している。

インドはネパールの進歩派勢力に同情しつつも、仲介役を引き受け、紛争の早期終結に尽力している。ネパールでの出来事は、私にとってかならずしも歓迎すべきものではない。ヒマラヤ山脈でもっとも敏感な神経節であるカリンポン周辺地域の緊張を高めるだけだった。それは私の研究の障害となりかねなかった。

 

195012月下旬 

クリスマス直前、私は衝撃的な体験をした。夜遅く、遠くから低い歌声が聞こえてきた。いや、私の耳の錯覚だろう…聞こえたと思ったのは、昔馴染みの「きよしこの夜、聖なる夜」のメロディーに他ならなかったのだから。

私は耳を澄ませた。結局、間違いではなかった。歌声が近づいてくると、歌詞は分からなかったが、メロディーは間違いなくよく知られたクリスマスキャロルだった。少し東洋風のリズムだったが。

数秒後、見知らぬ歌手たちの姿が見えた。カトリック教会から私の家の前を通る小道に、明かりが揺れていた。光の点が近づいてきて、それがランタンだと分かった。小さなネパール人の男の子がランタンを持っていた。男の子の後ろには、故郷の色鮮やかな衣装をまとったネパールの少女たちのグループが続いていた。彼女たちはキリスト教徒のネパール人で、おそらく夜遅くの礼拝から帰る途中だったのだろう。彼らは母国語でクリスマスキャロルを歌っていた。自然の素朴さに生きる子供たちにはよくあることだが、歌う喜びのために、何度も何度も歌い直していた。

数日後、私は宣教教会の朝の祈りの時間に、あの懐かしいクリスマスソングを再び耳にした。今回もネパール人が歌っていた。その後、私は彼女たちの一人に、この曲の由来を知っているか尋ねた。彼女は驚いたように私を見て、首を横に振った。

彼女はこの歌の由来を知らなかった。ほぼ1世紀前にシッキムの国境に定住した白人の司祭からこの歌を学んだのである。私はネパール人に、この歌は私の故郷であるオーストリアから伝わったのだと説明しようとしたが、彼らは信じられないというように首を横に振るだけだった。

「オーストリアって、本当にそんな名前の国があるの?」彼らはオーストリアという国の名前を聞いたこともなく、クリスマスキャロルの由来や作者が誰なのかなど気にも留めなかった。彼らはそのメロディーを愛し、クリスマスの彼らのイメージの一部になっていたので、歌っていたのだ。

 

19511月初旬 

多くの点であまりにも平凡になってしまったアジアには、もはや冒険家たちの居場所はないと、私は思っていたが、先週の日曜日、そうではないことが分かった。私たち「古参」のヨーロッパ人のうち数人がヒマラヤン・ホテルに集まって雑談をしていたところ、カリンポンでは見かけなかった二人の若いイギリス人が現れた。

私たちは彼らと会話を始めようとしたが、彼らは全く無口だった。アニーラがようやく職業を尋ねると、彼らは「冒険家」とだけ答えた。最初は聞き間違えたのかと思ったが、そうではなかった。二人のイギリス人から少しずつ分かったことは、彼らのうちの一人は最近までマラヤで警察官をしていたこと、少し年上の仲間はオックスフォードで学んだことがあることだった。今、二人はインドを放浪しており、彼らの言葉を借りれば、何でもできる準備はできている、冒険を探し求めているということだった。アニーラは二人を昼食に誘ったが、二人は残念そうに顔を見合わせ、治安警察署長から遅くとも正午までに町を出るよう命じられたため、招待には応じられないと説明した。何度か治安警察に電話をし、アニーラはなんとか出発を2時間延ばしてもらうことができた。

ネパール王家の14歳の王子が、ダージリンの学校に通い、同日、従者と共に東ネパールへ旅をしていたところ、偶然昼食に同席した。このことを知ると、二人の冒険家は即座に「王子に何も起こらないように」と王子の旅に同行すると宣言した。ネパールの国境は閉ざされているという異議に対し、二人は軽蔑するような態度で、自分たちには国境など存在しないときっぱり反論した。ついに、一人が冗談というよりは真剣な口調で王子に言った。「ああ、そうだ、君を誘拐しようか」。するともう一人が付け加えた。「何をあげようか?」。小さな王子はしばらく黙って二人を見つめていたが、冷たく響く声で「監獄だ」と叩きつけるように言った。

少年の機転の利いた言葉に、二人の冒険家は息を呑んだ。時計をちらりと見て、もうすぐ時間なので出発しなければならないと告げた。ホテルを出る前に、ブータンへの最短ルートを尋ねた。ブータンはおそらく世界でもっとも入国が難しい国であり、不法に国境を越えようとしないよう警告されたが、二人はただ微笑んだ。リュックを背負い、ブータンの山々へ走り去った。

その後の彼らの消息は分からない。

 

19511月初旬 

カリンポンには現在、高貴な賓客がいらっしゃる。ダライ・ラマの母、すなわち禁断の国のファーストレディーだ。

彼女はチベット人から「国王の偉大なる高貴な母」を意味するギェユム・チェンモと呼ばれている。彼女はダライ・ラマの妹と弟の二人の子供たちを伴っている。彼女の随行員の中には、元大臣カブショパの息子もいる。彼はインドで学校に通ったため、流暢な英語を話す快活な青年だ。彼はときおりギェユム・チェンモの個人秘書を務めている。父親が政府内で不名誉な立場に陥ったとしても、息子がこの重要な地位に就くことを妨げる正当な理由にはならない。チベット人はヨーロッパ人ほど、こうしたことにこだわらないのだ。

 

19511月中旬 

ダライ・ラマは護衛と政府高官を伴いチュンビ渓谷に到着した。当初は地区の知事の邸宅に滞在し、後に「白い貝殻の僧院」ドゥンカル・ゴンパに移った。

インド・チベット国境は現在、ヨーロッパ人に対して厳重に封鎖されている。チュンビ渓谷への立ち入りを許されているのは、ギャンツェとヤトゥンに駐屯するインド治安部隊の隊員と、少数の高官のみである。ダライ・ラマ自身はチベット領内に留まっているものの、閣僚、高貴な貴族とその家族、将校、ラマ僧など、ダライ・ラマの信奉者の多くは、様々な期間にわたりカリンポンに滞在している。それまで空っぽだったヨーロッパ人、インド人居住区の家々は、突如としてすべて埋まり、家賃は史上最高値に達した。街中の曲がりくねった路地裏では、高価なチベット衣装をまとった男女が、複雑な儀式を執り行いながら挨拶を交わす。召使いたちはあちこちに走り回り、ふっくらとした乳母たちはふっくらとした顔をしたモンゴルの赤ん坊を抱っこして、空気を吸わせている。聖地ラサの雰囲気から隔絶されたこの異国の地では、チベット人たちは雪国の首都にいるときよりもはるかに雄大であることがわかる。

私は毎日数時間をチベットの貴族やラマ僧たちと過ごし、古い慣習や伝統について質問する。その代わりに私は、西洋の生活について多くの質問に答えなければならない。西洋の生活については、最高位の高官たちでさえ、しばしば非常に混乱した認識しか持っていない。私は何度も何度も自分の国とそこでの人々の暮らしを説明しなければならない。彼らに私の母国語の歌を聞かせ、民謡を歌わなければならない。オーストリアに関する図解入りの本を送ってもらい、あらゆる質問に答えられるようにした。チベット人たちは、これらの絵を見て驚きのあまり止まない。なぜなら、そこには故郷を彷彿とさせるものが数多く見られるからだ。ラマ僧の長い寺院のトランペットに似たアルプスのホルン、チベットの正月祭りで仮面をつけて悪魔の踊りを踊る人々にそっくりなペルヒテン[冬の精霊または女神ペルヒタ(Perchta)の従者たち]、音楽を奏で教会の旗を掲げながら教会の周りを回るキリスト教徒の行列など。チベットの仏教僧たちも香炉と教会の旗を掲げて寺院の周りを巡回するのだ。

多くのチベット貴族は、ラサで慣れ親しんだ気楽で華やかな生活をカリンポンでも続けていて、互いに食事に招き合い、夜には集まって語り合い、踊りを踊っている。若い世代のチベット人男女のほとんどは、ヨーロッパの授業料で運営されているインドの学校に通った経験があり、西洋の音楽や踊りに精通している。

ダライ・ラマの姉は、たいていのダンスでは目立たない。どちらかというと不器用な人だったが、ある日フォックストロットとサンバの基本ステップを教わった。

チベットの民族舞踊も、こうしたお祭りでは正当に評価されている。「ボタンズ・アンド・ボウズ(ボタンとリボン)」「ジェラシー」「ドミノ」などのリズムに飽きると、長い列を作り、タップダンスを思わせる素早いステップで、チベット独特のメロディーにのせて踊る。

夜遅くになると、たいていコーラス付きの歌が始まる。多くのチベット人は歌いながら体を折り曲げ、甲高いファルセット[仮声、裏声。声帯を軽く閉じた状態で、息を多く流しながら出す高い声の唱法]で声を張り上げ、右手を右耳に当てる。これは、有名なチベットの詩人ミラレパの絵画に見られる光景だ。

私もまた無理やり彼らに12曲、歌わせられた。驚いたことに、チベット人たちは「リリー・マルレーン」を原語で聴きたいと言い張った。この歌は明らかに先の大戦の際、遠く離れたラサにまで届いたのだ。

 

19511月下旬

私はシッキム国王の従弟であるジグメ・タリンにしばしば招かれた。彼は普段はラサに住み、チベット政府の高官たちの重要な交渉の通訳を務めている。ある時、私はちょうど彼の妻が腰のベルトまで届く黒髪を巧みに三つ編みにしているところを目にした。実に珍しい光景だった。ジグメの妻メアリーラ[Mary-la]は、ヨーロッパの教育を受けた最初のチベット人女性だった。

彼女はジグメ・タリンとの再婚で、ペギーとユノという二人の娘を授かった。二人はダージリンにある、母親がかつて通っていた学校で教育を受けた。二人ともヨーロッパの基準からするととても美しいが、姉妹には到底見えない。内気なペギーは、色白のヨーロッパ人のような肌と、南欧人のような大きな黒い目をしている。一方、おてんばなユノは、ブロンズ色の肌と、切れ長の目の典型的なモンゴル人の顔をしている。メアリーラの最初の夫は有名なツァロン・シャペ[Zhabs pad]で、護衛隊司令官からチベット軍の総司令官、そして最後に首相にまで上り詰めたダライ・ラマ13世のお気に入りだった。彼女はツァロン・シャペの唯一の妻ではなかった。ツァロン・シャペは、メアリーラの姉妹二人と同時に結婚していたのだ。これは、一夫一婦制、重婚制、一妻多夫制が共存するチベットでは珍しいことではない。ツァロン・シャペとの結婚からベティラが生まれた。彼女は姉妹のペギーやユノに劣らず美しい。ベティラは、母の2番目の夫であるジグメ・タリンの兄弟と結婚しており、これがやや複雑な要素をもたらしている。というのも、彼女は今や母と継父の義理の妹となっているからである。チベットでは結婚の形態が多様で、人間関係を極めて複雑にしている。ピーター王子が一夫多妻制の研究のために作成した精巧な系図を見ると、チベットでは少しの努力で自分自身の祖父になれるのではないかという印象を受ける。

私は有名な大臣の息子、ジョージ・ツァロンの家によく招かれる。彼の妻ヤンチェンラは、私が今まで見た中でもっとも美しい女性だ。若いツァロンは熱心な写真家である。ある日曜日、私は数人のチベット人とともに彼の家に招かれた。パーティーの終わりに、ジョージ・ツァロンはチベットで撮影した長編カラーフィルムを見せてくれた。それは実にユニークなフィルムで、ラサの貴族たちのパーティーや新年の祝賀の様子、さらには予言の才能を持つチベットの国家呪術師ネチュン・チュージェが恍惚状態にある秘密の写真まで映っていた。チベット人の訪問者たちは、声高に解説を続けていた。

すると、若い、屈託なく笑う僧侶がスクリーンに現れると、解説はたちまち止まった。チベット人たちがラマの映像を見つめると、集まった人々は深い静寂に包まれた。息を呑むような静寂を破るのは、プロジェクターの回転音だけだった。カメラは僧侶を追った。僧侶は庭を歩き、ブランコに腰掛けて体を揺らし、そのボリュームのある僧衣が鐘のように膨らんだ。観客は、チベットの隊商の映像がスクリーンに映し出されるまで、凍りついた沈黙から目覚めなかった。背後から興奮した人々のささやきが聞こえ、突然の静寂の理由を説明する言葉を聞き取ることができた。私がスクリーンで見ていたラマとは、数年前に暗殺された摂政レティン・リンポチェだった。

隣に座っていたジグメ・タリンは、映像を見て落ち込んでいるようだった。おそらくそれは不快な記憶を呼び起こしたのだろう。というのも、彼は政府軍によるレティン寺襲撃の際に機関銃の一丁を手に持ったと言われているからだ。

少し前に、私はチベット人が製作した別の映画を見た。

これらのショットは、1948年にアメリカとヨーロッパを訪問した4人組のチベット人使節団のメンバーの一人が、旅の途中で撮影したものだ。私は船酔いをしたことはないが、この映画が上映されている間、スクリーン上の映像が激しく揺れ動いたため、吐き気を抑えることはほとんどできなかった。多くのショットを見ていると、カメラマンが宙返りすることなくどうやって撮影したのか想像するのは難しい。このような映画は、使節団が長旅の途中で見たもっとも興味深い光景を映し出すものだと期待されるが、カメラマンは明らかに自分が「チベットらしい」と感じた光景を撮影することに満足していた。アメリカでは彼はピクニックをする兵士たちを撮影した。パリのセーヌ川岸の乞食。重荷を背負ったラバの長い列が、永遠の都パリで唯一撮影できた写真だった。

 

19512月初旬 

ネパールの内戦は終結した。これまで全権を握っていた首相の権限は大幅に縮小され、一方、国王は今後、民主主義の原則に基づいて樹立された政府によって支えられることになった。初歩的な改革が導入された。百年ぶりに国民が夜遅くに街頭に出ることが許された。

かつては支配的なグルカ兵によって二級市民として扱われていたネワール族は、今では母語で新聞を発行することを許されるようになった。

ヒマラヤン・ホテルにいた数日間のうちにネパールの王子と会った。年齢は25歳くらいだろう。彼は首相である祖父と口論になり、4人の妻とともにカルカッタで亡命生活を送っているという。私は彼にネパールの首都の見所について尋ね、ガントク博物館に保存されている珍しい銃についても聞いた。

これらは1791年のチベット侵攻の際にグルカ兵が獲得した武器である。これらの大砲の砲身は圧縮されたヤクの革というたいへん珍しい素材でできていた。45発の弾丸にも耐えられるという。

若い王子はこれらの展示品について非常に詳しいことが分かった。私が驚きを表明すると、彼はこう言った。「ええ、私が文部大臣だった当時、この博物館は私の管轄下にあったので、すべて知っています」。彼がまだ20歳にも満たないのにそのような重要な役職に就いていたとは、当然ながら驚いたが、彼は謙遜しつつこう言った。

「でもまあそれは私の最初の閣僚職というわけではありません。その数年前、農務大臣を務めていましたから」

 

19512月中旬 

チベットから新たな訪問者が絶えずやってくる。その中には、きわめて重要な人物が含まれている。チベットの二人の外務大臣の一人、スルカン大臣だ。教権国家チベットでは、すべての重要なポストは二人の高官、つまり僧侶と一般信徒によって占められている。スルカン大臣は1904年からその職を務めていると聞く。

私は夕方の散歩で彼によく会う。彼はチベット貴族の高価な衣装を身にまとい、ヨーロッパ風の帽子とサングラスをかけている。大臣は最近、ピーター王子を訪ね、国連でチベットを擁護していたサンサルバドル国の所在を尋ねた。地図上で虫眼鏡を通してこの南米の小さな共和国を見た後、大臣はがっかりした様子でこう言った。「しかし、この国はブータンほどの大きさもない」。彼は明らかに、サンサルバドルが列強国の一つだと思い込んでいたのだ。

スルカンの家族事情は極めて複雑である。彼は最初の妻である高貴な貴族の令嬢と別れ、二番目の妻は亡くなった。高齢となった彼は、若く可憐なチベット人女性と再婚した。新しい妻は既に下級官吏と結婚していたが、一妻多夫制[とくにネパールのチベット系社会には一妻多夫が残っている。訳者自身そういった地域の一妻多夫の家庭をいくつか訪ねた]の国ではこれは大きな障害にはならなかった。しかし、スルカンの再婚で生まれた息子が、同じ女性と、彼女の他の二人の夫の同意を得て結婚したことで、状況はチベットの基準から見ても複雑化した。スルカン大臣が三番目の妻とともにカリンポンに到着した時には、これらの複雑な問題はすでに解決していた。末の夫は、四人の婚姻関係に自分が留まることは共通の妻にとって歓迎されないことだと悟らざるを得なかった。妻は彼を暗殺しようとしてこの事実を思い知らせたという噂があり、彼は別の妻を探す方が良いと判断したようだ。誰もが憧れた美女の最初の夫は、妻に新たな生まれ変わりを探しに行かせられたため、すでに後継者にその座を譲っていた。

他にも興味深い訪問者がいた。例えば、チンギス・ハンを祖先に持ち、帝政ロシアの陸軍士官学校で教育を受けたトルグート[オイラート部族の一つ]の王子だ。彼にはポーランド人とモンゴル人の妻が二人いたが、二人はうまくいかず、王子は町の反対側にそれぞれ別の家に住まわせた。

雪の国から逃れてきたもっとも人目を忍ぶ亡命者はチベッ​​ト人で、昼夜を問わず部屋に閉じこもり、一瞬たりとも部屋から出なかった。この男はレティン・リンポチェを殺害した犯人で、チベット人の知人たちは、この男が摂政を、体に痕跡を残さぬよう、いかに残忍な方法で殺害したかをひそひそと語ってくれた。ダライ・ラマがタグタ・リンポチェ(Tadrak Rinpoche 1874-1952 ダライ・ラマ14世の家庭教師)に委ねていた全権を取り戻した今、彼は自らの命が危険にさらされていると感じている。だからこそ、インドのほうが少しだけ安全だと思い、チベットを去ったのである。

 

19512月中旬 

近所に住むネパール人が亡くなった。夜明けとともに、死の家で葬儀を執り行う僧侶の、貝殻のトランペット[法螺貝]の悲しげな音が聞こえてきた。

私は埋葬の様子を見に来るよう招かれた。それは確かに、私がこれまで立ち会った中でもっとも奇妙な埋葬だった。遺体は黄色い花輪で飾られた長い木箱に横たわっていた。この簡素な棺は、ネパール人墓地があるリンキンポンの東斜面のガレ場に覆われた丘陵へと運ばれていった。ほとんどの塚はほぼ完全に平坦で名もなきものだが、あちこちに簡素で飾りのない小さな墓石が見られた。葬儀にはかなりの数の男性が参列したが、慣習に従い、女性は家に留まった。会葬者の中には、ヤギや牛を連れてくる人もいた。彼らは墓の塚に座り込み、牛に草を食ませた。棺は担ぎ手によって地面に置かれ、死者の兄弟はその傍らに座って死の見張りをしていた。多くの笑い声と冗談が飛び交う中、何人かの若者が墓を掘り始めた。残りの一行はタバコと活発な会話で活気づき、すっかり楽しんでいるようだった。ついに棺は墓穴に下ろされた。あの世へ旅立つ死者のための旅立ちの糧として、蓋の上に米の入った椀が置かれた。それから墓は素早く埋め戻され、切りたての枝が塚に差し込まれた。会葬者全員が手をつなぎ、長い鎖を形成し、最後の男が墓から突き出ている枝をつかんだ。大きな掛け声とともに男たちは出発し、最後の男が墓の塚から枝を引き抜いた。

こうして死者と生者の世界との繋がりは断ち切られ、彼の魂はもはや残された者たちの元へ戻ることはできなかった。埋葬地から戻る途中、私は小川のほとりで死者の兄弟に会った。バザールの床屋が彼の傍らにしゃがみ込み、慣習で求められている喪のしるしとして頭と眉毛を剃っていた。

 

19512月中旬 

葬儀の数日後、私はチベットの結婚式に招待された。祝宴が開かれている家に着くと、驚いたことに、新郎新婦の二人の子供たちを紹介された。二人ともすでに学校に通っていた。二人の結婚式は何年も前に執り行われたものの、当時は身分相応の祝宴を開く余裕がなかったとのこと。しかし、親族や友人が盛大な祝宴なしで済ませたくないと申し出たため、後日改めて祝宴を開くことになった。そしてついにその時が来たのである。招待客たちはすでに3日間、主人の家でリラックスして過ごしていた。

席に着いた途端、背後から突然女性の声が聞こえてきた。

Guden dag! Is das aber scheen, dass Sie gegommen sin! すなわち「こんにちは、いらっしゃいませ!」(こんにちは!)

振り返って、夢を見ているのかと思った。というのも、話し手は、訛りはあったものの、ザクセン人女性ではなく、チベット人の婦人だったからだ。

彼女はしばらく私の驚きを楽しんでから、「Da staun'n Se, was?!」(驚きましたか?)と言った。ドイツ語、いや、ザクセン語を話すチベット人女性だ! 謎はすぐに解けた。花嫁の母親であるチベット人女性は、以前、カリンポンに住む英国人外交官の家庭で乳母として雇われていた。雇い主たちがカリンポンを去ったとき、彼女も彼らとともにヨーロッパへ行った。彼女は家族とともに様々な国を訪れ、ストックホルムだけでなく、ベルリンやパリにも精通していた。しかし、最も長く滞在したのはドレスデンで、そこでドイツ語の知識を身につけたのだった。

 

19512月中旬

カリンポンに集まったチベット難民は皆、将来への不安に押しつぶされそうになっている。それにもかかわらず、彼らは今、伝統に従って新年の祝祭(ロサル)を祝っている。上流階級のチベット人たちの祝祭の集いほど、華やかな光景は想像しがたい。客人たちの衣装は重厚な錦織りで、高官たちの多くは金の護符箱を髪に挿し、女性たちはトルコ石、真珠、珊瑚の飾り紐で飾り付けている。

これらに加えて、チベットの女性たちは白と黒の縞模様の長いビーズでできた宝飾品を身に着けているのも見られる。ガラス質の物質で作られ、他の宝飾品に比べてはるかに魅力に乏しいこれらのビーズは、チベット人から「ズィ(gzi)」と呼ばれている。チベットでは、欠点のないズィ・ビーズでできたネックレスは、最高級の金細工品よりもはるかに高い価値がある。最近、友人のニマから聞いた話では、例えば元大臣カプショパは財産の大半をズィに投資していた。

ズィには不思議な物語がある。チベットの遠い昔に遡るもので、発掘作業中によく見つかる。雪国チベットの北東部では、古代の埋葬地で、ズィが副葬品として矢尻とともに頻繁に発見されます。これらのズィは雨によって土から洗い流され、放牧中の牛に飲み込まれたと考えられている。そのため、チベットの遊牧民は、高価な宝飾品が見つかるかもしれないと期待して、家畜の糞を注意深く調べる。ズィの製造方法は、現在のチベット住民にはもはや知られていない。近隣諸国から模造品が輸入されているが、本物と簡単に見分けることができる。ズィのビーズは見た目にかなりばらつきがある。もっとも一般的なものは細長く、縞の間に丸い斑点がある。これらの斑点は「目」と呼ばれ、1つの珠に最大12個の目があることもある。もっとも価値の高いズィは9つの目を持つという。9は魔法の数字なのである。この種のズィは、あらゆる災厄から身を守ると言われている。脳卒中を引き起こす10の頭を持つ惑星神ラーフの影響から身を守り、占星術的に不吉な日の有害な影響を打ち消す。

仏教の儀式用の器や蓮の形をした模様のある丸いズィ常に貴重だ。チベット人にはズィの起源を説明する多くの伝説が残っている。

ある者は、これらのズィは神々が地上に投げ捨てた宝飾品だと言う。またある者は、ズィは石化したミミズだと主張し、ズィが偶然掘り起こされたとき、ミミズのように這い出そうとする姿が見られると主張している。

3つ目の伝説によると、ズィはペルシャからチベットに伝わったと言われている。チベットの英雄ケサル王はかつてペルシャ全土を征服した。彼はペルシャ王の宝庫にズィ・ビーズが詰まっているのを発見し、それを雪の国に持ち帰り、勝利した軍隊に分配した。

 

19514月初旬 

3月にはシッキムとチュンビ渓谷の仏教徒にとって重要な出来事があった。ブッダとその最高弟子であるサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)の遺骨(舎利)の到着である[サンスクリット語ではŚāriputraMaudgalyāyana]。

インドでほぼ絶滅した仏教の復興を目指すマハーボーディ協会(大菩提会)を代表して、一団の仏教僧侶が舎利を携えてインドを旅していた。彼らの旅のルートはチベット国境地帯も通り、そこで偉大なる悟りを開いた者とその弟子たちの舎利は、とくに熱烈な歓迎を受けた。

舎利は331日にカリンポンに到着し、大行列となって街路を通り、ティルパイ寺院へと運ばれた。この行列は、カリンポンにとってかつて見たことのない、忘れられない光景だった。先頭には、祭服をまとったチベット人が進み、教会の旗印のようにタンカがついた長い棒を持っていた。その後ろには、赤レンガ色の僧衣をまとった40人のラマ僧が一列に並んでいた。

彼らはそれぞれ、棒に取り付けられた浅く幅広の円形の太鼓を持ち、ゆっくりとした行進に合わせて鉤付きの棒で叩いていた。太鼓を叩く僧侶たちの後には、フルート、シンバル、長いトランペットを持った仏僧楽団の僧侶たちが続いた。その深く響く音色は、世界の様々な場所で監視している伝説の象の鳴き声に似ていると言われている。

金の仏舎利を納めた花飾りの輿(こし)のすぐ前では、高価な香炉を振り回す僧侶たちが続いていた。香炉からは白檀の香りを放つ白い煙が立ち上っていた。輿は豪華な衣装をまとったチベット人たちの肩に担がれ、その両脇には明るい黄色の衣をまとった坊主頭の僧侶たちと、武人風のインド人警官がたくさん護衛としてついていた。揺れる天蓋は担ぎ手を交代するため頻繁に止まった。多くの敬虔なチベット人たちが、偉大なる悟りを開いた者の遺灰を担いで功徳を得ようと待っていたからだ。行列のこのもっとも重要な部分の後ろには、色鮮やかな衣装をまとった、敬虔な仏教徒のネワール族やシッキム、チベット、ブータンからの訪問者の大群が続いていた。チベット人たちは、行列の進路沿いに、燃える杜松の枝を入れた鍋を並べていた。普段はひどく汚れている街のこの地区は、今では見違えるほどきれいになっていた。通りはきれいに掃き清められ、家々から家へと、色鮮やかな祈祷用の垂れ幕が張られていた。舎利が一晩安置されたティルパイ寺院は、この行事のために特別に飾り立てられていた。壁は真新しい白塗りが施され、入口の前には色鮮やかな仏旗がはためいていた。寺院内の華麗な巻軸画は、無数のバターランプの黄色い光に明るく照らされていた。僧侶たちは、仏陀とその弟子たちの三体の巨大な像の足元にある高祭壇に置かれた舎利箱の前で、夜通し見守り、祈りを捧げた。

翌日、舎利はまばゆい陽光の中、厳粛な行列とともに丘の麓にあるブータンの寺院へと運ばれた。ここでの光景は、おそらくチベットの人々よりもさらに印象的だった。龍の国ブータンの人々の祝祭の衣装は、チベットの人々よりもさらに色鮮やかだったからだ。普段は比較的空いているこの寺院も、今日は人で溢れかえっていた。全員が入れる場所はなく、私は用意された席にたどり着くのに苦労した。大勢の群衆が祠の周りに集まり、奏でられる音楽と僧侶たちの聖歌隊の合唱に耳を傾けていた。

カリンポンの仏教徒にとって記念すべきこの日は、盛大な祭典で幕を閉じた。町を取り囲む庭園では、雪国の住民たちが盛装で楽しいピクニックに集い、ブータンの男たちは弓矢の競技に参加していた。弓矢は、弓矢の腕前が驚くほど優れている好戦的なブータン人にとって、お気に入りのスポーツだ。この日はチベットの物乞いにとっても素晴らしい日だった。彼らは何十人も道端に座り込み、少なくとも今日は何も持たずに帰ることはなかった。彼らの多くは、寺院の入り口に特別な場所が用意された盲目のラマ僧のように、無関心な沈黙の中でマニ車を回していた。また、叫び声や身振りで、通行人の注意を自分たちのひどい病気に向けさせようとする者もいた。これらの不幸な人々の中には、チベットの厳しい司法によって両手を切り落とされた犯罪者も数人いた。

夕方近く、舎利はビルマのラタキン王子の邸宅に1時間ほど運ばれ、即席の礼拝堂に安置された。代表団のリーダーであるサンガラトナ比丘とソフト博士は、これまでの長旅とダライ・ラマへの訪問について語ってくれた。二人はインド人仏教徒で、普段はチベット大乗仏教にあまり敬意を払わないが、チベットでの経験に深く感銘を受けていた。彼らは過酷な状況にもかかわらず、儀式における困難な任務をすべて、非常に威厳をもって遂行したダライ・ラマを高く評価した。

19955月下旬

チベット人は降伏した。中国が望んでいた条約は、523日、北京でチベット政府の全権大使と他の4人の代表によって調印された。中国軍は内陸部への進撃を再開し、もはや抵抗はなくなった。将官の階級を持つ将来の中国軍将軍、張経武は、ラサへ向かう途中、カリンポンを通過する予定だ。彼の先遣隊はすでにカリンポンに到着している。彼らは中華人民共和国のすべての役人が着用する灰色の制服を着た数人の若者で構成されていた。彼らはヒマラヤン・ホテルに宿泊しているが、めったに部屋から出ず、他の宿泊客との接触を心配して極力避けている。目には見えないが、あきらかにカリンポンの竹のカーテンが上がり始めていた。

 

19956月下旬 

数週間後、その時が来た。中国軍将軍は午後早くにカリンポンに到着する予定だった。中国との良好な関係を築きたいチベットの役人数名が、ティスタ橋で彼と会う予定だ。祝祭の衣装をまとった数百人のチベット人が町外れに集まり、雪国の新君主はチベット高官らによる公式の歓迎を受ける。男たちの一人は二頭の獅子と「願いの宝石」をあしらったチベット国旗を掲げているが、その隣には共産中国を象徴する赤い五つ星の国旗を掲げた男も立っている。

数ヶ月前、カリンポンの街路を埋め尽くした多くの記者たちは、この歴史的場面を記録するためにここにはいない。世界はもはやチベットという小国の運命に興味を示さない。今、見出しはアバダンの石油精製所をめぐる争いに躍り出ている。こうして、チベットの悲劇の最終幕を見守るのは、たった3人のヨーロッパ人、ピーター王子、チベットから到着した私の同胞ハラー[いうまでもなくハインリヒ・ハラー 1912-2006]、そして私だけである。

中国人たちはすでに1時間ほど遅れていたが、辛抱強く待っていた群衆の中に突然、ささやき声が響いた。泥だらけのバイクとジープに乗ったインド警察の護衛が轟音を立てて通り過ぎ、続いてティスタ渓谷から町へ続く道路に車の列が現れた。列の先頭の車には中国国旗が飾られていた。裕福なチベット人商人がこの機会に買い求めた真新しいアメリカ車だった。彼は明らかに、忠誠心を示すことでチベットの新しい主人たちの目に留まることを期待していた。12人ほどの中国人官僚と陸軍将校が車から降りた。階級章のない彼らの簡素なライトグレーの制服は、チベット高官たちのきらめく錦織りの衣装とは際立った対照をなしていた。2つの世界が対峙しているのだ。チベット人たちはゆっくりと深々と頭を下げ、白い儀式用のベールをかぶって中国人に会いにいった。驚いたことに、チベット人集団の最前列に、チベットがイギリスに支援を求めた当時、傑出した親英主義者と目されていた数人の貴族の姿が目に入った。

同じく灰色の制服を着た中国人記者が、この光景の一部始終をカメラで熱心に記録していた。私は、一人のチベット人が礼儀正しい態度で中国人将軍の首にハタをかけているのを見つめていた。中国人は苛立ちを隠せずベールを脱ぎ捨てたが、手に握っていた。チベット人貴族たちの表情は曇ったが、沈黙を守る傍観者たちは瞬きもしなかった。彼らは、自分たちがいかに歴史的に重要な瞬間を目撃しているのか気づいているのだろうか? 吹流しと赤旗を掲げて仲間たちを歓迎するために集まった数人のネパール人共産党員だけが、熱狂のあまり声をからして叫んでいた。

挨拶のやり取りは短かった。それから中国人らは車に戻り、カリンポンにある滞在先として用意された家へと向かった。この建物は幽霊が出ることで有名で、そのため、立派な外観と絶好の立地にもかかわらず、空のままになっている。チベット人がわざと中国人がここに泊まるように手配したのだろうか? 車列の最後尾に停まっていた2台の車に、諦めたような、疲れ切った表情のチベット高官が数人乗っているのが見えた。彼らは北京で中国との破滅的な協定に署名した代表団のメンバーだ。

中国人はカリンポンに数日滞在する。彼らはチベット宗教界、貴族、商人からの代表団を迎え入れ、チベットの役人や地元中国人社会の著名人を招いて晩餐会まで開く。一方、中国人はチベット商人が彼らのために開く晩餐会に出席する。中国人を迎えるために新車を購入したのも、まさにこの男だ。晩餐会は彼の近代的な家の2階で開かれる。その下、礼拝堂に改造された一階の部屋では、二十数人のラマ僧が一晩中祈りを捧げている。彼らは入信者の話によると、すべての赤い中国人の滅亡を祈っているという。

 

19517月中旬 

私はダライ・ラマの母である隣人を訪ねたいと考えていた。チベット語の新聞を発行するタルチン氏が通訳を引き受けてくれた。しかし、到着してみると、残念ながら、ギョユム・チェンモ氏が病気で寝込んでいることがわかった。彼女に代わって、ダライ・ラマの長兄であるタッツェル・リンポチェ氏が私たちを迎えてくれた。「リンポチェ」(尊いこと)という称号からも明らかなように、彼はチベットの人々から仏教聖者[菩薩]の生まれ変わりとして尊敬されている。ダライ・ラマの末弟であるわずか4歳のンガリ・リンポチェも生まれ変わりの聖者とされている。ンガリ・リンポチェはまだ母親の庇護下にあるが、すでに僧侶の定められた服装をしている。仏教僧侶の常として、彼の頭は剃り落とされている。私はほぼ毎日、彼が真剣な顔つきで法衣と白い儀式用の靴を身につけ、お気に入りのおもちゃであるヨーロッパ製の三輪車に乗り、庭の小道を行ったり来たりしているのを目にする。その傍らには、この小さな聖者の人生を管理する大柄なボディガードが見守っている。チベットでは、ダライ・ラマを産んだ女性は常に大きな尊敬を集めている。しかし、チベット女性が三人もの有名な転生者をこの世に送り出したというのは、雪の国チベットの歴史上類を見ない出来事である。だからこそ、現ダライ・ラマの母がチベットの人々から並々ならぬ尊敬を受けているのである。

タグツェル・リンポチェは、知的な顔立ちと見事な手つきを持つ、背が高くほっそりとした男性で、ヒマラヤの人々との紛争勃発直後に中国軍に占領された寺院で、これまでの人生のすべてを過ごしたのである。中国人は彼をラサに派遣し、兄に要求に応じるよう説得するよう指示した。しかし、タクツェル・リンポチェは兄に全く逆の助言を与えたようだ。この転生聖者は、非常に興味深い話し手であった。タルチンの助けを借りて、私はまだたどたどしいチベット語で、ラマ教の様々な問題について彼と議論しようと試みた。しかし、すぐに彼が質問者になり、私が答える側になった。タクツェル・リンポチェは西洋におけるチベット研究の現状に強い関心を示していたからだ。特に、アメリカの図書館にチベット語の書籍があるかどうか、アメリカの大学でチベット語とチベット文化を研究している者は誰かと尋ねた。私たちの会話は2時間近く続いた。私はホストの知識欲に驚嘆したが、数日後、謎が解けた。インドの新聞は、タクツェル・リンポチェが使用人を連れてカルカッタからアメリカに長期滞在するために飛び立ったという驚くべきニュースを伝えた。

 

19517月中旬 

中国軍将軍は随行員と共にチュンビ渓谷に到着し、そこからダライ・ラマと共にラサへ向かう予定である。ここ数週間、中国軍はチベットの大部分を占領しており、チベットの首都への侵攻は目前に迫っている。中国軍将軍とその随行員がチベット国境を越えたのとほぼ時を同じくして、約20人のロシア人の難民がチベットからインドに亡命を求め入国した。彼らはまさに長い苦難の道を歩んできた。かつて彼らは新疆ウイグル自治区の村に住んでいたが、盗賊団に襲われ、追われた。その後、彼らは国民党と共産党の戦闘に巻き込まれ、その過程で難民の数は減少していた。新疆ウイグル自治区が中国共産党軍に制圧されると、生き残った人々はわずか二人の女性を含め、チベット領へ逃れた。筆舌に尽くしがたい苦難の末、彼らはラサに到着した。

長い交渉のあと、彼らは土壇場で、ギャンツェ経由でインドへ渡航する許可を得た。

 ロシア人たちはカリンポンに1週間滞在した後、カルカッタへ連行され、そこから国際難民機構(IRO)の支援を受けて最終的にアメリカへ移住した。

ダライ・ラマの帰国が差し迫り、カリンポンに残っているチベット当局者全員が、直ちにチベットへ帰国するよう命令を受けた。これは、私が多くの友人たちに、おそらく永遠に別れを告げなければならないことを意味する。しかし、何人かの高官たちは、何らかの口実を見つけて出発を遅らせている。

ダライ・ラマの命令は奇妙な結果をもたらした。カリンポンの市場で、女性の髪が突如として人気商品となったのだ。多くの若いチベット人官吏が、カリンポン滞在中に厄介な三つ編みを切られた。今や、チベット政府がこの定められた官吏の象徴を身につけなくなった官吏を全員解雇するという噂が広まっている。そのため、若い官吏たちは、失った栄光の代わりとなるものを必死に探しているのだ。

 

19517月下旬 

今日、ティルパイ僧院で行われた極めて興味深い儀式に出席した。それは対立する二つの僧侶集団間の厳粛な和解だった。私がカリンポンに到着する少し前に、僧院の僧侶たちの間で深刻な争いがあった。新しく任命された寺主(住持)が着任した際、前任者の下で多くの僧侶が職務を著しく怠っていたことに気づいた。一部の僧侶は、僧院長による規律強化の取り組みに反対した。対立は激化し、ついに寺主の反対派と支持派の間で争いが勃発し、その過程で僧侶が一人殺害された。寺主に不満を持つ僧侶​​の一部は、僧院を去り、すぐ近くに独自の寺院を建てた。チベット政府、そしてダライ・ラマ自身も介入し、長い交渉のすえ、両派の間に和平が成立した。

僧院の前庭で、まばゆい陽光の下、背教した僧侶たちが僧院社会に復帰するという厳粛な儀式が執り行われた。寺院に面した側に大きな白いテントが並んで張られ、壁と天井には青い中国の幸運のシンボルが飾られた。チベット政府の代表者と数人の招待客がテント内のテーブルに着席した。テーブルの縦にはシャガパ大臣が座り、その隣には現在ダライ・ラマの現地全権でインド政府との連絡役を務めるギャンツェ・ケンチュン[ケンチュンはチベット政府の四位僧官]、チベットでもっとも裕福で、1948年の西側への代表団の一員でもある商人のパンドゥ・ツァン、そして最後にチベットの新聞発行者のタルチンが座っていた。テーブルの一方の端には数人の中国人が、反対側にはピーター王子と私が座っていた。テントの前には僧侶の集団が立ち並び、その後ろには祭服を着たチベット人女性らが並んで座り、精力的にマニ車を回していた。

四角形の残りの辺は、チベット人の大勢の観客で埋め尽くされていた。式典はタルチンの演説で始まった。丁寧なチベット語を用いた選りすぐりの言葉で、雪の国チベットの歴史を簡潔に概説し、些細な争いでさえも悪影響をもたらすこと、そして団結と敬虔な生活からどれほど大きな利益がもたらされるかを説きながら、式典の趣旨を説明した。僧侶たちは頭を下げて訓戒に耳を傾けた。続いて寺主が前に出て、今後は僧院の僧の間に完全な調和がもたらされるであろうと誓った。続いてギャンツェ・ケンチュンが立ち上がり、ティルパイ僧院の僧侶たちにダライ・ラマ法王とチベット政府の願いを伝えた。最後に、僧侶は僧侶共同体の刷新に関する文書を読み上げ、寺主と出席していたチベット高官たちが厳粛に署名した。こうして式典は終了した。

 

19518月初旬

今日、健康を取り戻したダライ・ラマの母をようやく訪ねることができた。隣の家から引っ越して、チベット人街にある重厚な建物にお供の人とともに暮らしていたのである。タルチンはふたたび私に付き添ってくれた。贈り物の大きなリンゴジュースの瓶を運んでくれた人もいた。ダライ・ラマの母の秘書で、以前から面識があった人物が玄関で私たちを出迎えてくれた。

彼は私たちを長く暗い通路に案内し、小さなプライベートの仏間を通り過ぎた。半開きの扉からはお香の香りが漂い、通り過ぎると、祭壇の前で低い座布団にしゃがんでいる多くのチベット人僧侶の姿が見えた。テラスを横切ると離れに着いた。平らな屋根の上には、色鮮やかな祈祷旗が何列も並んで風になびいていた。

ガイドは私たちをほとんど何もない控えの間へと案内した。彼はしばらく時間をくださいと言った。しかしすぐに戻ってくると、謁見の間へと案内してくれた。

私たちは壁に古い巻軸画が掛けられた広い部屋に入った。床には鮮やかな色の絨毯が敷かれ、壁際には大きなクッションが敷かれていた。その前には、赤と金の装飾が施された小さなテーブルが置かれていた。しかし部屋を眺める余裕などなかった。窓際の小高い椅子から、細身の女性、すなわちダライ・ラマの母が立ち上がったからである。

部屋は比較的暗かったが、彼女の目はサングラスで保護されていた。私は頭を下げ、用意していた白いカタをギョユム・チェンモに差し出した。その間、同行していた運び手が贈り物のジュースの瓶を小さなテーブルに置いた。それから通訳が深々と頭を下げ、女主人に敬意のこもった複雑な文言で、私たちの訪問の目的を説明した。「王の偉大なる高貴なる母」[訳注:原文(英訳)のThe Great Distinguished Mother of the Kingが何を意味しているかは不明。おそらく冗談交じりの表現。チベット語だとrgyal po'i yum chen mo mchogとなるが、ダライ・ラマをギャルワ(勝利者)と呼ぶことはあっても、ギャルポ(王)と呼ぶことはない]は贈り物に感謝し、手を振ってタルチンと私を席に招いた。まず儀礼的な挨拶を交わし、私はチベット語で彼女と会話しようと試みた。しかし、彼女は故郷の方言[アムド語]を、公の場で使われるラサのチベット語よりも上手に話したため、容易ではなかった。しかし、経験豊富なタルチンは状況に十分対処していた。

私たちは天候の話や状況の嘆きから始めた。会話が徐々に盛り上がると、突然、彼女はサングラスを外した。すると、ギェユム・チェンモの顔がはっきりと見えた。彼女の顔立ちは整っていて、ある種の自然な美しさを備えていた。黒い瞳は穏やかで、いぶかしげだった。彼女の動きは慎重でありながら、威厳に満ちていた。生まれながらの貴族らしい自信に満ちたこの女性が、かつては単なる農婦だったとは、信じ難いことだった。

侍女がお茶を運んできた。これはバターティーではなく、ヨーロッパ風に淹れたお茶であることがわかった。ダライ・ラマの母は私の驚いた様子に気づいただろう。微笑みながら、自分も「外国人の甘いお茶」をよく飲んでいると言った。

それから菓子が運ばれ、「王の偉大なる高貴なる母」は、後ろに静かに立っていた私たちの運び手に菓子をいくつか手渡した。彼は贈り物を受け取り、丁寧に唇を鳴らし、舌を突き出した[訳注:私はボン教僧院の尊敬される寺主の乗る車に同乗したことがあるが、沿道の若い女性が舌を出している姿に驚かされたことがある]。彼がその小さな贈り物をすぐに衣服の襞の中に滑り込ませ、この日の貴重な記念品として保管しているのに気づいた。

私はギェユム・チェンモにアメリカにいる息子さんから何か知らせが届いたかどうか尋ねた。彼女は「はい、手紙が届きました。彼は現在ワシントンの近くにいて、もうすぐさらに西へ移動すると言っています」と答えた。そこで私たちはしばらくタクツェル・リンポチェについて話した。ダライ・ラマについては触れないようにした。当時、ダライ・ラマは中国人らとともにラサへの帰途に就いていた。彼女はきっとダライ・ラマの運命を心配していたに違いなかった。

私が3杯目のお茶を飲んでいると、秘書が戻ってきた。謁見の終わりの合図である。私たちは立ち上がり、ギェユム・チェンモと通常の別れの挨拶を交わした。「カレシュデンジャ(ゆっくりお座りください)」と私は言った。彼女は微笑みながら「カレチェブギュナン(ゆっくり行ってください)」と答えた。最後に一礼して、私たちは部屋を出た。

外ではチベット人の歌手と踊り手の一団がちょうど配置についたところだった。私は肩越しに振り返ると、「国王の高貴なる母」が窓辺に立って、太鼓の音に合わせて芝生の上をくるくると舞い踊る、色とりどりの踊り手たちを見下ろしていた。 「特別な女性ですね」と私はタルチンに言った。「ええ、特別な女性です」と彼は答えた。「忘れてはならないのは、彼女が三人の転生者の母だということです。」

 

195111月中旬 

数日後、私はブータン国境に居住するレプチャ族の一派を研究するため、カリンポンを長期間離れることになった。出発前に、パットと私は送別会を開いた。このささやかな祝賀会にこれほど多様な客人が集まったのは、カリンポンでなければ考えられない。

ビルマのラタキン王子、ジグメ・タリンとその妻メアリーラ、ツァロン大臣の娘テスラ王女とその夫ジグメ・ドルジェ(​​ブータン首相の息子の一人、父の後を継ぎ、現在は西ブータンの知事を務めている)、そして東洋の精神を研究するためにカリンポンを訪れた、実存主義的な髭を生やしたアメリカ人学生がいた。その他、インド陸軍省のヴァス少佐、ブータンのタシ王女(今もブータン外務大臣を務めている)、カルカッタ出身のインド人女性、メアリーラの娘のベティラ、そしてアニー・ペリー(現在はロンドン大学のチベット学者K・スプリッグと結婚)の姪レイ・ウィリアムズが出席した。ダライ・ラマの母の秘書であるカブショパ・ジュニアも妻とともに来ていた。二人の若者は現在深刻な憂慮に陥っている。チベット政治界の嵐を呼ぶカブショパ元大臣は現在カリンポンに滞在し、息子の妻に息子の兄弟とも夫とする一妻多夫制の結婚を強要しようとしている。

若い夫婦はこの要求に抵抗していて、現代チベットの若者の「不道徳」な考え方を激しく非難する老紳士をさらに怒らせている。

実に素晴らしいパーティーだった。私たちはパットの庭の芝生​​でくつろぎ、ビスケットをかじり、お茶を飲み、時折モダンダンスやチベットダンスを踊った。最後の客が帰ったのは夜も更けた頃だった。蓄音機は鳴り止み、静寂を破るのは皿やクッションを家の中に運ぶ担ぎ手の足音だけだった。パットと私は低い庭の塀に腰掛け、暗くなった街を見下ろした。遠くでジャッカルが吠え、市場の野良犬たちが長く引き延ばされた遠吠えで応えた。西の山々のはるか上空には、月の細い鎌がかかっていた。ティルパイ寺院からは、寺院のトランペットの重々しい音が響き渡った。チベット僧たちは偶像の前で夜通し見張りをし、雪国の神々に終わりのない連祷を捧げていた。神々は決して眠らないのだ。