禁じられた国シッキム
「異邦人たちは巨大な豚に乗り、雷のような音を立てる長い棒を持っていた」シッキム王年代記によると、これは16世紀末頃、チベット人の大群が自分たちの国に馬で侵入してきたのを見た、臆病なレプチャ族が語った言葉だという。当時、彼らは現在シッキムという名を持つこの国において、依然として揺るぎない支配者だった。彼らは果てしないジャングル[もともとインドやネパールの言葉でジャンガルは森を指す]の奥深くに住み、他の民族との接触はほとんどなかったようだ。そのため彼らはチベット人の侵入者の銃を魔法の杖とみなし、彼らが乗る馬さえもレプチャ族にとって馴染みのない生き物だった。
チベット人たちはチュンビ渓谷から新しい定住地を求めてやって来た。彼らの指導者は東チベット出身の貴族、ギェブムセ[Gyad 'bum bsags]で、非常に力の強い人物だったと言われている。彼は中央チベットの偉大なサキャ僧院建設に協力し、本堂の多くの柱を一人で建てた。そのため、彼は「十万本の柱の建立者」という意味のギェブムセという名誉ある称号を与えられた。チュンビ渓谷では、ブータンの巨人との一騎打ちで勝利し、その驚異的な強さを改めて証明した。シッキムに入った後、ギェブムセはレプチャ族の長であるテコン・テクを訪ねた。レプチャ族は、このテコン・テクを彼らの最初の魔術師であり僧侶であると主張している。
『王年代記』はこの会見について次のように伝えている。「チベット人たちが小屋に入ると、老人が竹でできた玉座のような椅子に座っているのが見えた。彼は羽根飾りの帽子をかぶり、貝殻と野獣の歯と爪でできたネックレスをしていた。彼は威厳に満ちて玉座に座り、妻のニョコンは食事と飲み物の準備に忙しくしていた。地面には竹のゴザが敷かれ、客人たちの前にすぐに軽食が出された。』 チベット人は、温厚なレプチャ族からシッキムへの定住許可を得るのに、ほとんど苦労しなかったようだ。レプチャ族は、人口のまばらな土地をよそ者たちと喜んで分かち合った。そこで、テコン・テクとギェブムセは、今後レプチャ族とチベット族は皆、互いに兄弟のように接するという厳粛な協定を結んだ。協定は奇妙な儀式によって封印された。様々な野生動物や家畜が屠殺され、皮が剥がれた。それから二人の指導者は新鮮な皮の上に座り、血の入った器に足を浸し、その体は犠牲動物の湯気の立つ内臓に包まれた。しかし、チベット人は血の兄弟愛という盟約を守らなかった。彼らはすぐに、原始的で信頼しがちなジャングルの住民たちを圧倒した。1642年、ギェブムセの子孫がシッキムの初代国王に即位したが、それ以来、レプチャ族は国の運営にほとんど関与していない。彼らの多くは、『王朝年代記』に記されているように、「王家と国家の奉仕者」となった。
王家の成立後、チベットからの移住者たちは熱心な仏教徒であったため、シッキムにラマ教(チベット仏教)が広まり始めた。初代シッキム王の宮廷には、すぐに多くのラマ僧が集まった。彼らのほとんどはニンマ派及びゾクチェンパ派に属していた。こうしてシッキムはこれらの宗派の拠点となった。これらの宗派はチベットではわずかに存在し、その信仰は雪の国シッキムの仏教以前の時代からの多くの伝統を保っている。
これらの僧侶の中で最も尊敬されていたのは、現在シッキムの守護聖人となっているラツン・チェンポであり、彼は山の神カンチェンジュンガによってレプチャ族の地への道を示されたと伝えられている。ラツン・チェンポとその仲間たちは、シッキム初の寺院であるドゥブデ(庵 sGrub sDe)を建立した。この寺院は、シッキム初代国王が戴冠式を行った場所に建立されたと伝えられている。国王がタシ・テンカに宮殿を建設し始めた頃、僧侶たちはさらに3つの寺院を建立した。「浮かぶ至福の神殿」タシディン・ゴンパ、「神々の赤い家」ラカン・マルポ、そして「崇高な蓮華の僧院」ペマヤンツェ・ゴンパである。ペマヤンツェ・ゴンパの名はシッキム方言でペミオンチと呼ばれている。
今日、ペミオンチはシッキムで最大かつもっとも重要な寺院だ。ラツン・チェンポが定めた戒律によると、常に100人の僧侶がいなければならない。これは神聖な数字であり、幸運をもたらすとされている。それにもかかわらず、通常は寂れた様子を呈している。聖職者たちは結婚が認められていて、大きな祭りのとき以外は本堂に聖職者が集まることはほとんどない。
新たに建国された王国は、それまでシッキムを属国とみなしていたチベット政府とすぐに政治的関係を確立した。初代国王は12年間統治した。後継者については、ブータン人、チベット人、リンブー族の女性の3人の妻がいたという事実以外、ほとんど知られていない。
チャグドル・ナムゲェルはレプチャ王国の3代目の国王で、1700年に即位した。「すべてに勝つ雷の持ち主」という意味を持つ彼の名は、シッキム史上最も興味深い人物の一人である。チャグドル・ナムゲルは生涯を通じて、権力を掌握しようとする妹の陰謀と闘わなければならなかった。策略を弄したおかげで、彼女の恋愛はかなり高くつくことになった。つまりあるラマ僧を誘惑し、王族は懺悔として新たな寺院を建立せざるを得なくなったのである。シッキムの人々は今日、彼女はただの女性ではなく、邪悪な惑星神ラーフの妻の生まれ変わりだったと語っている。彼女は目的を達成するためならどんな手段も厭わなかった。兄を殺害しようと企み、そのためにブータン人と手を組んだ。しかし、未成年だった王はネパール経由でチベットに逃亡することに成功した。そこで彼は、不幸なダライ・ラマ6世[ツァンヤン・ギャツォ]の宮廷に身を寄せた。ダライ・ラマは、より高次の知識を求める若いシッキムの王に共感を覚えたに違いない。
チベット人がブータン人を説得してシッキムから撤退させるまでに8年かかった。チャクドル・ナムギェルはチベット人の護衛を伴ってシッキムに戻った。そこで彼はブータン人が依然としてシッキム東部を支配していることを知った。しかし当面はこの領土を取り戻す手段を持たなかった。彼は「すべてに勝つ雷の持ち主」で、敬虔な仏教徒だった。伝承によれば、彼はシッキムの山の神々への毎年秋の供物に、現在も行われているラマ僧による仮面舞踊を加えた。レプチャ族への黄教[チベット仏教ゲルク派]の普及を促進するため、彼はチベット文字をモデルとしたレプチャ文字を考案し、その後、様々な仏教文献をレプチャ語に翻訳する際に使用された。
しかしながらレプチャ族は、ラマや王家が熱心に布教した新しい信仰を受け入れることにためらいを感じた。古来の民族宗教の司祭たちはとくに、頑強な抵抗を示した。『王朝年代記』には、14人のレプチャ族の司祭と女司祭が黒魔術を用いて王の暗殺を企てたと記されている。しかし兄の命を再び狙ったチャクドル・ナムギェルの妹は、より成功を収めた。彼女は王の専属医を味方につけることに成功したのだ。
王は温泉で療養中のところ、医師に殺害された。殺害は秘密裏に行われ、遺体はペミオンチ寺院付近で焼却された。殺害された王の支持者たちはすぐに事件を知り、首謀者に復讐した。彼らはチベットで高貴な身分の人物を暗殺する際によく用いられる方法で首謀者を殺害した。つまり儀礼用のスカーフ(カタ)を彼女の喉に詰め込んだ。
チャグドル・ナムゲルの後継者は「すべてに勝つ不変の宗教の王」ことチョギェル・ギュルメで、1717年に統治を開始した。彼はレプチャ族の言語と文字を習得していたため、彼らの友人とみなされていた。彼は古い部族信仰の魔術師たちにも好意的だったが、このことはラマたちを不安にさせた。王位に就いて間もなく、2つのグループの祭司の間で衝突が起こった。
5人のレプチャ族の魔術術師が宮廷にやって来て、王の前で自分たちの超自然的な力を披露した。彼らは驚愕する君主とその支持者たちの前で、一連の魔術的技巧を披露した。泉から湧き出る水に結び目を作ったり、石を空中に浮かべたり、池の表面に魔術的な図形を描いたり、砂でロープを編んだりした。ついに彼らはペミオンチ僧院の屋根を端まで丸め込んだ。しかし、この魔術に感銘を受けなかったのはラマ僧だけだった。憎むべき魔術師たちを排除するため、彼らは仏教の観点から僧侶が犯し得る最も凶悪な罪の一つである殺人さえも辞さなかった。
シッキムの第4代王の治世は不運に見舞われた。好戦的なブータン人の大群が東からシッキムに何度も押し寄せ、集落を略奪し、住民を奴隷として竜の国ブータンへ連れ去った。平和的なレプチャ族は係争地を放棄する用意があったが、シッキム王は広大な要塞を築くことで領土に対する自らの権利を主張しようとした。この目的のため、レプチャ族とその隣人であるリンブー族は、チベット人の支配階級により強制労働を強いられた。その軛があまりに重苦しくなると、レプチャ族は反乱を企てたが失敗に終わった。一方、リンブー族はシッキムを去って東ネパールに定住することを選んだ。
1734年に国王が重病に倒れたとき、王位継承者はいなかった。しかし、臨終の床で国王は尼僧との間に息子をもうけたことを告白した。この息子は王位継承者として認められたが、彼が未成年の間、シッキムはチベットから派遣された特別大使により統治された。この摂政は、まずレプチャの土地の住民全員に税金を支払わせた。当時、シッキムでは塩がひどく不足していた。摂政が政務を引き継いだとき、塩の無償配布を行うと発表した。シッキム全土から人々が歓迎の贈り物を受け取るために集まったが、塩を受け取った者は役人に氏名と住所を告げなければならなかった。それ以降、毎年の税金はこうして得られた名簿に基づいて課税された。
さらに、摂政は国の行政を強化した。彼はすべての役人と首長を召集し、彼らの協力を得て、シッキムの住民の権利と義務を定めた法典を作成した。
1780年、テンシン・ナムギェルが王位を継承した。彼は「教義の絶対的勝利者」と呼ばれた。その治世の間、シッキムは非常に厳しい試練を幾度となく経験した。
ブータン軍による頻繁な攻撃に加え、シッキム西部国境ではグルカ兵による攻撃が激化した。好戦的なグルカ兵は1769年にネパールを支配下に置き、今度は火と剣を用いて、その支配領域を拡大しようとしていた。グルカ兵は捕虜を容赦なく殺害し、征服した者の耳と唇を切り落とした。東西からのこうした攻撃は、シッキムを二つの石臼の間にある一粒の穀物のような立場に追い込んだ。
シッキムの人々は侵略者との二正面作戦を強いられた。チベット軍の介入により、一時的に戦況はシッキム側に傾いたが、1788年にグルカ兵がシッキム全土を制圧することに成功した。王家は辛うじて敵の戦士の攻撃を逃れた。彼らの所有物はすべて宮殿に残された。唯一救い出されたのは、シッキムの仏教徒が特に貴重な聖遺物とみなした、山の神カンチェンジュンガの怒りで歪んだ顔を表現した古代の仮面だった。長い間、国王とその家族は北シッキムの原生林で極度の困窮状態にあった。臣民も同様に困窮していた。グルカ兵の残忍性により、何年もの間土地を耕作することができず、深刻な飢饉が発生した。
ついにグルカ兵の征服欲に終止符が打たれることになった。彼らはチベットを攻撃し、雪の国で2番目に大きな都市シガツェを占領することに成功した。しかし、強力な中国軍がチベット人を救援し、グルカ兵を打ち破った。その後の和平条約により、シッキムの状況は大幅に改善されたのである。
第7代国王ツグプ・ナムギェルの治世は1793年に始まった。彼の統治の最初の数年間、シッキムは初めてイギリスと接触した。チベットとの戦争での敗北から立ち直りつつあったグルカ兵が1814年に西シッキムに新たな攻撃を仕掛けた際、シッキムの救援に駆けつけたのは、かの有名なオクターロニー将軍率いるイギリス軍だった。グルカ兵はまたもや敗北し、ネパールとシッキムの係争国境は1817年のティタリア条約で新たに定められた。しかし、外部からの攻撃が止むとすぐに、シッキムは内紛に見舞われた。国王は厄介な大臣を暗殺させ、その犠牲者の支持者たちは一部の住民をネパールに移住させた。当時、約800世帯のレプチャ族がネパールのイラム地区に新居を見つけた。グルカ兵の支援を受けて、移民たちはかつての主君に対して数回の反乱を組織したが、長期にわたる闘争の末にようやく鎮圧された。
1835年のダージリンのイギリスへの割譲は、チベット人からすれば、シッキム王の違法行為だった。チベット・シッキム関係は深刻な危機に陥った。両国間の緊張は、シッキムの統治者が聖地ラサを8年に1回以上訪問することを禁じるという法令が成立したことで表面化した。
1844年、シッキム王がチベットの首都に向けて出発した際、国境を越えた直後に危うく命を落としかけた。パリ・ゾンで、偶然同時に到着していた西ブータンの知事と口論になったのだ。チベット人の介入のおかげで、シッキム王はブータンの役人に殺害されずにすんだ。
5年後、シッキムを旅行中に2人のイギリス高官が逮捕されたことをめぐり、イギリスとの間に深刻な紛争が発生した。この紛争の結果、シッキム南部の丘陵地帯はシッキムから分離され、イギリスはそれまでダージリンに支払っていた料金の支払いを停止した。
これ以降、シッキムはイギリスの影響下に入り、1861年には正式にイギリスの保護領となる協定が締結された。1892年には、シッキムの第9代国王が、同国に任命されたイギリス駐在官の横暴に抗議してチベットへ逃亡するという、もう一つの大きな危機があった。この争いは最終的に解決し、その後統治した4人の国王は名目上は引き続きその領主だった。しかし、実権はいわゆる政治官吏にあり、彼らは王宮のすぐ隣にあるガントクに居を構えていた。インドとチベットの架け橋となるこの小さなヒマラヤの国は、イギリスにとって商業的にも軍事的にも非常に重要な位置を占めていた。そのため、西洋からの訪問者は当局の特別な許可を得た場合にのみシッキムへの入国が認められた。
イギリスがインドから撤退した後、新たに建国されたインド共和国がシッキムの保護国となった。インド人は一、二の改革を行なったが、全体としてレプチャ族の土地に大きな変化はなく、ヨーロッパ人がシッキムの首都を訪れることがさらに困難になっただけだった。私はカリンポンに滞在して2年目の12月まで必要な書類を受け取れなかった。そして指定されたルートを厳守し、チベット、ブータン、ネパールの国境を越えないという誓約書を提出しなければならなかった。
先の雨期でシッキムへの幹線道路は深刻な被害を受けたものの、カリンポンとガントク間の50マイルをランドローバーで約5時間かけて走破することができた。私は他の4人の乗客と乗り合わせた。視察旅行中のインド人エンジニア、出発して数分でひどい車酔いをした2人のチベット人商人、そしてブータン首相の召使いで、彼は道中ずっと居眠りといびきをかき、剃った頭がまるで紐でぶら下がっているかのように、あらゆる凹凸で左右に揺れていた。私たちはヘアピンカーブを疾走してティスタ渓谷に入り、そこから北東方向へ渓谷を上る凸凹した道に入った。左側にはティスタ川の緑色の水が黄色い砂州の間を曲がりくねって流れ、右側にはジャングルに覆われた渓谷の壁がそびえ立っていた。水路は所々で不気味な暗い峡谷となり、泡立つ激流の轟音が他のあらゆる音をかき消していた。
私たちは小さな市場町ロンプで、揺れる吊り橋を渡ってシッキム国境を越えた。インド人の警官が私たちの書類をチェックし、分厚い帳簿にシッキムに入った正確な時刻を書き留めた。数人の制服を着た男たちが、罵声を浴びせるラバ使いに囲まれ、ガントク方面から来たチベット人の隊商の荷物をせっせと調べていた。彼らはラバの脇腹にぶら下がっている毛糸の俵を長い鉄の棒で突いて、毛糸の中に他の物が隠されていないか確認していた。警官の一人が、マルワリ人のために働く多くのチベット人が、大量の古い中国の銀貨をインドに密輸しようとしていると説明してくれた。
ランプーではオレンジ市場が開かれていた。シッキム産の最高級オレンジが山のように積まれ、埃っぽい小さな市場を覆い、荒廃した街にいくらかでも親しみやすい雰囲気を添えていた。上り坂の道を登っていくと、半裸のネパール人運搬人が長蛇の列をなして私たちの前を通り過ぎていった。彼らは額にストラップを下げ、オレンジの入った大きな籠を担いでいた。彼らが歩いて渡ってきた小川から運んできたきらめく雲母のような砂が、彼らのたくましい褐色の脚にこびりついていた。午後4時頃、私たちはシッキムの首都に到着した。
空には青灰色の雲が広がり、無数のラバの蹄がかき混ぜた底なしの泥だらけの街路には、雪まじりの雨がパタパタと降り注いでいた。郊外の牧草地にはテントが点在し、チベット人のキャラバンが狭く曲がりくねった道を、単調な鐘の音を伴って進んでいた。ここ数ヶ月の出来事により、ガントクはチベットにとってもっとも重要な補給基地となっていた。大規模な中国軍の侵攻により、雪国チベットでは深刻な食糧不足が発生し、中国は中国西部からラサまでの遠回りで十分な物資を運ぼうとしたが、徒労に終わった。飢餓に苦しむ民衆が占領軍と親中国貴族に対して暴力行為を起こし始めたため、緊急の対策が必要になった。ニューデリー政府の許可を得て、チベットへの物資はインド経由で運ばれるようになった。中国船が米をカルカッタに運び、インドの車両がそれをガントクに運び、そこでチベットのキャラバンが引き継いだ。
シッキム州の首都滞在中、私は国立のレストハウスに宿泊した。私の部屋の暖炉はまったく暖まらず、部屋は息苦しいほどの煙で充満していた。割れた窓から風が雪を吹き込んできて、凍えるように寒い夜には、レストハウスの周りの牧草地でラバの群れが草を食むときの鐘の音で眠れなかった。
木造の屋台、マルワリの店、そして数軒の石造りの家が立ち並ぶガントクには、およそ2000人の住民が住んでいる。見どころは、数十年前に再建された王宮、別荘のような政治官の住居、そして王宮のすぐ近くにあるチベット仏教寺院だけだ。宮殿の入り口は、イギリス製のライフルを装備し、非常にカラフルな制服、すべてのレプチャ族の男性が着ているような赤と白の縞模様のローブを着たレプチャ族の護衛兵によって守られている。その上に、幅広の黒い組紐で飾られた鮮やかな赤いジャケットを羽おり、葦とイラクサで編んだ円筒形の帽子を被っている。帽子はピンク色に染められ、前面には数本の羽根飾りと銀の王家の紋章が飾られている。邸宅の窓からは、近くのヒマラヤ山脈が見渡せた。庭園の奥には、節くれだった木々や背の高いシダの木々の間に、鮮やかな色彩の仏舎利箱(ガウ)と祈祷旗(タルチョ)が風に揺れていた。
一見すると王宮はヨーロッパの住宅と何ら変わらないが、よく見ると外壁のあちこちにチベット文字が織り交ぜられ、それが図形を形成している。
これらは魔除けの呪文で、王宮に住む人々に幸運と充足をもたらすと考えられている。王宮の近くにある2棟の細長い建物には、国王の秘書官とシッキム政府機関の事務所が入っているが、こちらも同様に奇妙な対照を呈している。仏像やチベット仏教の転生ラマたちの写真で飾られた事務所では、タイプライターがカタカタと音を立て、電話が鳴り響いている。屋根には祈りの吹き流し[タルチョ]がはためき、入り口の柱には、動物の頭蓋骨、色とりどりの糸、細い棒で作られた不気味な構造物が、支柱の付いたガレオン船のマストのように見える。これらはいわゆるナムカ(糸の十字架)で、仏教の魔術師が、悪霊が官庁に侵入するのを防ぐために作った悪魔よけだ。
ガントクに到着して間もなく、私はカリンポンですでに面識のあった国王の秘書官、ツェテン・タシ氏を訪ねた。タシ氏はチベット・シッキムの古い貴族の出身で、チベット有数の名家の令嬢と結婚している。国王や宮廷の人々と同様に、彼もチベット貴族の伝統的な錦織りの衣装を身にまとっている。流暢な英語を話し、熱心なアマチュア写真家でもあるこのとても人当たりの良いシッキムの若者が、豪華な装飾が施された寺院を案内してくれた。
高価な祭壇、神々の像、儀式用の器、古代の仮面に加え、シッキム王の美しく彫刻された玉座も安置されていた。ツェテン・タシはまた、60歳くらいの親しみやすい紳士である国王との短い謁見も手配してくれた。
ガントクでの短い滞在中に私が出会った3人目の興味深い人物は、シッキム政府の大臣、ダドゥル・デンサパである。当時、彼は他の数々の役職に加えて、仏教に関わる問題を担当する大臣も務めていた。大臣の邸宅はチベット様式の最高級に整えられていて、貴重なチベットの書とシッキムの年代記の蔵書があり、私はその所有者から閲覧を許可された。私はこの蔵書で、シッキムにおける最初の仏教徒の活動や地元の山の神々の信仰に関する情報を提供するこれらの貴重な書物を写し取るのに、何時間も費やした。
ガントクへの私の訪問はシッキムにおける仏教の形態を研究するという観点からだったが、レプチャ族とその伝統について学ぶことはほとんどなかった。なぜなら、現在ガントクには、レプチャ族の人々がほとんど住んでいなかったからだ。ガントクの住民の大部分はチベット移民であり、ネパール人も多い。一方、レプチャ族はさらに西方のソンブ地区に移住し、レプチャ族居留地を作った。
しかし、ソンブへの道は困難な政治情勢のために長らく閉ざされていた。それに加え、この地域のレプチャ族の生活は、以前の記録からすでにかなりよく知られていた。そこで私はカリンポンに戻り、そこからブータン国境の谷、ギットへ向かうことにした。以前訪れた際に、ギットとその周辺地域には今でも多くのレプチャ族の集落があり、レプチャ族の古い部族宗教の祭司や女祭司も少数ながら存在することを知っていた。