死にゆく村 

空には鎌のような淡い月が懸ったままで、川の上には朝霧が立ち込め始めた。ギトと東の隣の谷を隔てる山脈の頂上にようやく着いた。レプチャ族のガイドであるブラーヒア神父[スイス人]と私は、馬に乗ってもう1時間ほど進んでいた。

ここ数週間、ギトの住民はブータン国境に近いニム村(Nyim)に住む、100歳以上とされるレプチャ人の話をしきりにした。人々は彼を「マニ神殿の老人」マニブ・バジと呼んでいた。彼は現存する最年長のレプチャ人で、他の場所ではとっくの昔に忘れ去られた奇妙な習慣を何でも覚えているという。そこでブラーヒア神父と私は、マニブ・バジを訪ねることにした。

道を知っているギトのレプチャ人が、ちょうど彼を訪ねることになっていた。谷への下り坂は急で険しかった。汗だくになり、ちりちりする灰色の土埃に包まれ、馬の熱い吐息が首筋に受けながら、滑るように下っていった。正午ごろ、谷底の泡立つ川にかかる小さな竹橋を渡った。対岸に渡ると、再び上りだった。目の前の樹木に覆われた断崖はあまりにも急峻で、馬でどうやって登れるのかと不思議に思った。斜面のジャングルは最近の雨の湿気でまだ湿っており、道はヒルがうごめいていた。まもなく、最初のヒルが私たちの馬の脚にぶら下がった。蹄の音と銀色の鈴の音が頭上の森からこだました。キャラバンが私たちと同じ方向へ向かっていたのだ。道の石のあちこちにルビー色の鮮血の雫がきらめき、彼らもまたヒルに貢物を捧げたことを示していた。

 

夕方頃、峠の頂上に辿り着いた。山々の「悪魔の罠」があり、雹や嵐から作物を守っていた。髑髏の太鼓、神託の書、そして魔法の短剣は、チベットの天気呪術師にとってもっとも重要な道具だ。

ラマ僧たちは数週間かけて、過酷な旅で埃っぽく疲れ果てた巨大な悪魔の罠を建造した。風がヒューヒューと音を立て、湿った雲の切れ端を吹き飛ばした。目の前に新たな地平線が広がった。広い谷とその東斜面から突き出た小さな台地は、若い森の緑に覆われ、古い砦の城壁で覆われていた。その背後には、ブータン国境の山々の青い城壁がそびえ立っていた。足元には、ニム村の高床式住居が見えた。やや脇道、灰色の塔のような仏舎利殿[すなわちストゥーパ]の隣に、マニブ・バジの巨大な家が立っていた。

1時間後、私たちは彼の家のドアをノックした。家の中から声が聞こえたが、ドアは閉まったままだった。なぜ返事がないのか。

通りかかったレプチャ族の人が説明してくれた。マニブ・バジとその家族は家にいたが、私たちは中に入れてもらえなかった。マニブ・バジの妹は目の病気を患っていて、その朝、ラマ僧が病魔の祓いをしてくれたという。ラマ僧の命令で、翌朝まで家に出入りしてはならないとのことだった。しかしどこで一晩過ごせるのだろうか。レプチャ族の人は、村長であるマンダルの家に泊めてもらえるかもしれないというのである。

しかしそこにはすでにサーヒブが住んでいた。「サーヒブ?」私たちは信じられない思いで尋ねた。「白人がどうやってここに来たのですか?」私たちは坂を上ったところにあるマンダルの家へと向かった。案の定、そこにはボロボロのヨーロッパの服を着た若い男が立っていて、不機嫌な表情で私たちを見た。

しかし、鋭い観察力を持つレプチャ族のガイドがすぐに見抜いたように、彼は「プッカ・サーヒブ」、つまり「正真正銘のサーヒブ」ではなく、「チョタ・サーヒブ」、より正確には「小さなサーヒブ」、つまりユーラシア人だった[ヨーロッパ人と現地女性との間に生まれたハーフのこと]。私たちがマンダルのことを尋ねると、彼は英語で、マンダル、つまり彼の義父は今外出中だと答えた。「残念ながら、ここで一晩過ごすことはできません。小屋が狭すぎます」。これはまったくその通りで、ネパール風の泥造りの小屋に過ぎなかった。しかし、その後ろには広々とした古いレプチャ族の家の廃墟が残っていた。

私たちがつぎの家へ向かっていると、チョタ・サーヒブが追いかけてきた。マンダルが戻ってきて、彼の住まいがひどく汚いことを許してくれるなら、そこに泊まることを心から歓迎してくれるとのことだった。十分である。私たちが戻ると、マンダルは気さくな老人で、玄関で私たちを迎えてくれた。彼は私たちのために家の片隅を片付けてくれていた。洗面用の温かいお湯と、気分転換用のお茶がすでに用意されていた。

マンダルの家には、他に二人の客、ラマ僧とその御付きが泊まっていた。チョタ・サーヒブの幼い娘が最近亡くなったので、二人の僧侶は娘の魂が良い転生を得られるようにと、聖なる経典を読み聞かせに来ていた。日が暮れると、彼らは小さな低いテーブルの上に108個のバターランプを灯した。二人のうち年長の僧侶は、ランプの黄色い光に顔を輝かせながら、小声で祈りの言葉を唱え始めた。僧侶と家の女たちは火のそばにしゃがみ込み、燃えさしを見つめていた。ブラーヒア神父は祈祷書をめくり、ときおり、神父とラマ僧は互いに親しげに頷き合った。「チョタ・サーヒブ」がやって来て、私の隣の地面に座り、私がどこから来て、どこへ行くのか尋ねた。

彼がどうしてこんな場所にいるのかという質問は避けたが、結局、尋ねられなくても自分の話をしてくれた。彼の母親はレプチャ族、父親はイギリス人だった。彼は地元のマンダルの娘と結婚した。イギリスがインドを統治していた間、彼はカリンポンで機械工として働いていた。しかし、イギリスが去ると、彼はインド人の下で働くことになったが、そのインド人は彼をもはや必要としていなかった。彼は資金がなく、家族と共に義父の家に移り住まざるを得なかった。今は畑仕事を手伝い、もしここに学校が設立されたら、いつか教師の仕事を見つけたいと願っていた。

私たちが話している間、若いほうの僧侶の合図で、年を取った僧侶と残りの家族は立ち上がった。

私の隣に座っていた男性が「失礼」と呟き、すぐに他の者たちに加わった。ラマ僧の合図で、彼らは皆ひざまずき、額を三回地面につけた。チョタ・サーヒブは、少し当惑した様子でふたたび戻ってきた。「驚かないでください」と彼は低い声で、前を見つめながら言った。「私は自分がヨーロッパ人だとは思っていません。私はレプチャ人です。それが私の民族の習慣なのです」

儀式が終わると、客と主催者たちは席に着き、歓談した。女性が私たち一人一人に、温かいシコクビエ・ビール[トンバ]が入った竹のジョッキとストローを持って来てくれた。  二人の僧侶の話から、私たちは少しずつニム村の物語を知った。

かつては20ほどのレプチャ族の家族がここに住んでいた。その後、東ネパールのマム地区にあるレプチャ族の居住地から数人の移民がやってきた。マニブ・バジの家族もマム出身である。彼と他の移民は、シッキム王に対する反乱が失敗に終わった後、ネパールに逃れたレプチャ族の子孫だった。当時、ニムはまだブータンにいた。ブータンの役人や兵士は、私たちが見た遺跡のある砦に住んでいた。この砦は、イギリスとブータンの戦争中の1865年にイギリス軍によって襲撃された。数年後、7家族がニムからブータンに移住したが、後に彼らはそこで全滅したと考えられる。

ニムに残った人々もまた、衰退していった。ネパール人入植者が移住してきて、すぐにほとんどの畑をわがものにした。私たちのホストも、多くの土地を失った。彼はまだマンダルと呼ばれていたが、実際にはずっと前にネパール人にその地位を譲らざるを得なくなっていた。小屋の裏の崩れかけた大きな家はどうしてこうなったのかと尋ねた。マンダルは「それは自分の家だった」と答えた。[高床の]杭が腐って崩れてしまったので、そこを出ていかざるを得なかったのだ。近年、ニムで荒廃したレプチャ人の家はこれだけではなかった。もちろん、今彼らが住んでいる小屋は、大きな家が再建されるまでの仮住まいに過ぎない。「いつ再建を始めるのですか」と私たちは尋ねた。マンダルは手で曖昧な身振りをした。「今年中か、遅くとも来年には」。しかし、疲れ果て、絶望的な彼の目つきは、大きな家が廃墟から再び立ち上がることは決してないだろうと私たちに告げていた。

 

翌朝、使者がやってきて私たちをマニブ・バジの家へ案内してくれた。レプチャ族の長老は、私がヒマラヤ地帯を旅する中で出会ったもっとも印象的な人物だった。痩せ型で、雪のように白い髪が肩まで垂れ下がり、鋭く整った鷲鼻の顔立ちは、まるでアメリカン・ネイティブの老酋長のようだった。無数の皺が刻まれた黄色みがかった顔は、一世紀にわたる雨や風雪にさらされて、まるで革のように日焼けしていた。年齢とともにいくぶん弱々しくなった目には、親しみがありながらも誇らしげな表情が浮かんでいた。彼自身の言葉によれば、105歳で、彼が語った話もそれを裏付けているようだった。イギリス軍が近くのブータンの砦を襲撃した時、彼はもう若者ではなかった。砦が破壊された後、彼と村の人々はブータンの大型大砲2門をカリンポンへ運ぶのを手伝った。現在、大砲は州立休憩所の前に置かれている。彼はこれらの銃の輸送に対して約束されていた報酬が支払われなかったことにひどく憤慨していた。長い人生の中で、彼は多くの苦しみを経験した。二人の姉妹がブータンの戦士に連れ去られた。彼は二人の女性がブータンの首都の市場で奴隷として売られたことを、あちこちから聞いた。その後二人の消息は途絶えた。彼が私たちに語ったところによると、かつては裕福で、一人息子に豊かな財産を残すつもりだった。後世に家系の歴史を残すため、父と祖父から聞いた数々の古の言い伝えを記した年代記を著した。しかし息子が亡くなり、悲しみのあまりその本を燃やしてしまった。娘はネパール人と結婚した。夫は善良で働き者だったが、ネパール人にかわりはなかった。こうして彼の家も西からの侵略者の手に渡ってしまった。黄ばんだ本や粗末な仏像に囲まれながら、彼の民族のもっとも奇妙な習慣の一つについて語ってくれた彼の姿が、今でも私の前に浮かんでくる。

「ノルキットが亡くなったのは、私がちょうど30歳の時でした。このノルキットは有名なボングシングでした。今では死者は火葬されますが、昔は土葬されていました。ノルキットはボングシングだったので、彼も土葬されたのです。私たちの祖先の習慣と同じです。私たちは死者に一番良い服を着せてから、家の外に運び出しました。ただし、玄関からは運びませんでした。

慣習に従って、床に大きな穴を掘りました。墓は村の外に掘られ、壁は石で覆われました。死者はそこに、ヒマラヤ山脈の方を向いてしゃがんだ姿勢で安置されました。山々が見えるようにするためです。私たちレプチャ族はそこの出身なのですから。

遺体の傍らに供物を置きました。薬が詰まった小さな籠、トウモロコシのボウル、そして祖霊への贈り物として銀貨です。墓には小さな梯子も立てました。それから埋め戻し、墓の土塁の上には高い石を置きました。帰り道には、茨の茂みで道を塞ぎました。死の悪魔が村から新しい犠牲者を連れていくのを防ぐためです」

マニブ・バジは何も言わなかった。暖炉の火がパチパチと音を立てる以外、何も聞こえなかった。外は徐々に暗くなり、小さな素窓には最初の星がきらめいていた。老人は震える手でビール[トンバ]の竹筒に手を伸ばし、藁ストローで音を立てながらビールを吸いこんだ。

それから彼は続けた。「夕方、私たちは皆、喪の家に集まりました。隣村からボンシングが連れて来られ、モンも来ました。ボンシングは牛を殺し、その肉を神々に捧げました。右前脚は死体から切り離され、籠に入れて家の中に運び込まれました。モンは山を向いて座り、ボンシングは紐を取り、片方の端をモンの左手に、もう片方の端を生贄の動物の切り離された脚に結び付けました。モンは目を閉じ、座席の上で落ち着きなくあちこち体を動かしました。それから彼女は死者の魂を呼びました。ホー、ホーと彼女は叫びました。

こっちへ来なさい! 火の中にも水の中にも、岩の中にも木の中にも隠れないで! 

彼女は歌うような声で、雪山、海、川、そして私たちの民の集落の様々な名前を列挙しました[私(訳者)の研究テーマである送魂路をよみあげているように思われる。魂を祖先がいる永遠の安楽地へと送る。これを解析すれば先祖がどこから来たかわかる場合がある。牛を生贄とし、紐を使うなど送魂路を持つナシ族の葬送と共通する点も多い]。

彼女は何時間も歌い続け、その美しさに私たちは皆涙を流しました。

朝が近づくと、モンは歌うのをやめました。彼女の顔は青ざめ、まるで死人の顔のように青ざめました。

突然、彼女は話し始めました。しかし彼女の声ではありませんでした。そう、死んだノーキットの声だった! 彼の魂がモンの体に入り込み、ふたたび話すことができるようになったのです。ノーキットは突然亡くなったため、先祖から受け継いだ宝石をどこに隠したのか誰も知りませんでした。家族は一日中探したが、見つかりませんでした。今、彼は宝物が隠されている場所を教えたのです。家の真下、柱のすぐ横に埋めたことがわかりました。

息子の一人が急いで出て行き、すぐに宝石を手に戻ってきました。ノーキットはこれを知らせたかったようです。彼は来た時と同じくらい素早く、女祭司の体から立ち去りました。モンは正気を取り戻しました。彼女の任務はほぼ完了しました。今、彼女は死者の魂に付き添って死者の国へ行くだけでよかったのです」

マニブ・バジが物語を語っている間にも、あたりは更け、そろそろ寝る時間になった。他の者たちと同じように、私も鞍掛け布を巻いて床の硬い板の上に横になった。馬の匂いが虫よけになるからである。しかし消えゆく火の鼻を突くような煙と、下の馬小屋で動物たちが鼻を鳴らしたり、足をひきずったりする音が気になり、なかなか寝付けなかった。私は静かに小屋を抜け出し、マニブ・バジの家のすぐそばにある苔むしたストゥーパまでぶらぶら歩いた。空は雲に覆われ、竹は風にきしみ、マンダルの高床住居の廃墟ではネズミが走り回り、キーキーと鳴いていた。ブータンの暗い山々の上には、巨大な嵐の雲が不気味に垂れ込めていた。青白い稲妻が、衰退しつつあるレプチャ族の村の傾き崩れかけた家々を照らした。