夭折の大学者ネベスキー=ヴォイコヴィッツについて
宮本神酒男
「夭折の大学者」という表現は奇妙な響きがあるかもしれない。[夭折という言葉は古代中国においては未成年の死のことを言った。そして次第に若くして死ぬこと全般を表す言葉になった。日本の代表的な例を挙げると、24歳で死去したソネット詩人立原道造は夭折の詩人と呼ばれた。22歳で死んだデカダンス芸術家村山槐多は、夭折の詩人であり画家だった] しかし詩人や画家でなく、博識な知識と長期間の研究が最低限必要とされる大学者としては、36歳の死はあまりにも早すぎるだろう。有名な著書『チベットの神託と悪魔』(1956年)が百科事典並みの大著であったことから、彼がチベット学の代表的なチベット学者になることは既定路線と思われたが、思わぬ病に斃れ、36歳という若さで身まかることになってしまった。
ルネ・デ・ネベスキー=ヴォイコヴィッツ、別名ルネ・マリオ・フォン・ネベスキー=ヴォイコヴィッツ(1923−59)は、チェコ東部のグロース・ホシュッツ(ヴェルケー・ホシュティツェ)に生まれた。ここは歴史的地名のシレジア(チェコ語でスレスコ)の一部である。この村はチェコ内のモラヴィアに属している。シレジアにしろ、モラヴィアにしろ、その歴史は複雑で、彼が生まれ育った時代も変化が激しく、国境も何度か移動している。民族的にはいずれにしてもスラヴ系である。
『神が山である郷』には、自身がオーストリア人であるという認識が記されている。1950年代初頭、インド北東部の町カリンポンには西欧人のほか、チベット人、ネパール人(王族)、ブータン人、ビルマ人(王族)、隣の地域に住むシッキム人などがいた。この新しい雑多なコミュニティの中でも、二十代後半の若い白人、ネベスキー=ヴォイコヴィッツはひときわ目立つ名士だったろう。
彼は、十代の頃は近隣のリトムニェジツェや首都のプラハで学び、それからベルリンやウィーンの大学へ進んだ。ウィーン大学で東洋学者のロベルト・ブライヒシュタイナー教授(1891−1954)と出会ったことがチベット学へと向かうきっかけとなった。
1949年頃からは英国のロンドン東洋アフリカ研究学院で、そしてイタリアでチベット学の泰斗であるジュゼッペ・トゥッチやチベット探検、ナシ族研究で有名なジョセフ・ロックのもとで学んでいる。
1950年から1953年にかけて、彼はインド・ヒマラヤのカリンポンに滞在し、多くのチベット人と会い、データ収集と研究を進めた。主なインフォーマントはダルドゥ・トゥルク、テトン・リンポチェ、チメ・リグスィンである。1956年からの3年間もカリンポンやシッキムに滞在している。チベット民間宗教研究の金字塔ともいえる『チベットの神託と悪魔』(Oracles
and Demons of Tibet)が刊行されたのは1956年である。
1958年から翌年にかけて3か月ネパールに滞在したが、この頃から体調が悪く、肺炎と診断されていた。この肺炎はおそらく結核のことだろう。オーストリアに戻ったあと1959年7月、逝去した。36歳という若さだった。夭折の詩人や芸術家ならともかく、夭折の学者など普通は考えられないことだ。30代で亡くなったときに泰斗と呼ばれるのは異例のことである。
没後に出版された『チベットの宗教仮面劇』(Tibetan Religious Dances)とあわせて学術的な著作はわずか2冊にすぎない。しかしじつは1956年に本書『神が山である郷――ヒマラヤの人々のあいだの三年間』という旅行記(原文ドイツ語)を出版していた。学術的な著作だけ見ていると、面白みに欠け、著者本人はどんな堅物なのだろうと思うけれど、旅行記は読みやすく、長く生きていればトゥッチ以上のエネルギッシュな著作家になっていたのではないかと惜しまれる。
秘密をばらしたことで、守護神の怒りを買って殺されたというのは本当か
私は長年にわたって数多くの人から「ネベスキー=ヴォイコヴィッツはボン教の秘密を暴露してしまったので、ボン教の守護神の怒りを買い、交通事故に遭って若くして死んだ」と聞かされてきた。しかしこれは一種の都市伝説のようなものにすぎず、死因は肺炎(肺結核)だった。実際、ボン教に限らず、守護神の怒りを買い、殺されたと考える研究者は少なからず存在している。
『神が山である郷』の「神託僧と魔物」の章では、死者がこの世を去っていわば怨霊が守護神になり、神託を通して(憑依して)現れる例をいくつか挙げている。また「ラクパ・トンドゥプの憑霊」の章では憑霊の様子を詳しく描き、かならず憑依するために薬物に頼っていることを暴露する。このように明かしてはいけない秘密をたくさん暴露し、そのために守護神に復讐され、命を削ってしまったと一部の人は考えているのだ。それはあまりにばかばかしいことかもしれないが、その思考法自体がチベット文化の一部とみなすこともできるだろう。
とはいえ、これだけの天才ともいえる知識・情報吸収力、理解力を持ちながら、30代半ばで死亡するのは「罰当たり」の一言ですますことはできない。もう十年でも生きていれば、トゥッチやスタン並みの大チベット学者になっていたかもしれない。ともかくも彼の短い生涯の間に残したものだけでも、先駆的なチベット研究として十分に価値があり、われわれ凡人には、それを読んで吸収するだけでもなかなか大変な作業なのである。