ルネ・ド・ネベスキー=ヴォイコヴィッツ19231959について  
宮本神酒男 



 別名ルネ・マリオ・フォン・ネベスキ=ヴォイコヴィツ。チェコ東部のヴェルケー・ホシュティツェ生まれ。ここは歴史的地名のシレジア(チェコ語でスレスコ)の一部である。しかし作者紹介にはモラヴィアという地名も見られるので、歴史的地名のモラヴィアに属するか、家族がモラヴィア人なのかもしれない。シレジアにしろ、モラヴィアにしろ、その歴史は複雑で、彼が生まれ育った時代も変化が激しく、国境も何度か移動している。民族的にはスラヴ系だろう。


 十代の頃は近隣のリトムニェジツェや首都のプラハで学び、それからベルリンやウィーンの大学へ進んだ。ウィーン大学で東洋学者のロベルト・ブライヒシュタイナー教授(
18911954)と出会ったことがチベット学へと向かうきっかけとなった。


 1949年頃からは英国のロンドン東洋アフリカ研究学院で、そしてイタリアでチベット学の泰斗であるジュゼッペ・トゥッチやチベット探検、ナシ族研究で有名なジョセフ・ロックのもとで学んでいる。


 1950年から1953年にかけて、彼はインド・ヒマラヤのカリンポンに滞在し、多くのチベット人と会い、データ収集と研究を進めた。主なインフォーマントはダルドゥ・トゥルク、テトン・リンポチェ、チメ・リグスィンである。1956年からの3年間もカリンポンやシッキムに滞在し、それまでの研究成果をまとめていくつかの小論を書いたあと出版したのが、チベット民間宗教研究の金字塔ともいえる<
Oracles and Demons of Tibet>だった。


 このあとネパールを調査旅行したが、体調を崩し、オーストリアに戻ったあと逝去。36歳という若さだった。夭折の詩人や芸術家ならともかく、夭折の学者など普通は考えられないことだ。


 没後に出版された<Tibetan Religious Dances>とあわせて学術的な著作はわずか2冊にすぎない。しかしじつは1956年に『神が山である場所――ヒマラヤの人々のあいだの三年間』という旅行記(原文ドイツ語)を出版している。学術的な著作だけ見ているとどんな堅物なのだろうと思うけれど、旅行記は読みやすく、長く生きていればトゥッチなみのエネルギッシュな著作家になっていたのではないかと惜しまれる。


 私は長年にわたって数多くの人から「ネベスキ=ヴォイコヴィツはボン教の秘密を暴露してしまったので、ボン教の守護神の怒りを買い、交通事故に遭って若くして死んだ」と聞かされてきた。しかしこれは一種の都市伝説のようなものにすぎず、実際の死因は肺炎だった。


 とはいえ、これだけの天才ともいえる知識・情報吸収力、理解力を持ちながら、30代半ばで死亡するのは「惜しい」の一言ですますことはできない。もう十年でも生きていれば、トゥッチやスタンを超える大チベット学者になっていたかもしれない。ともかくも彼の短い生涯の間に残したものだけでも先駆的なチベット研究として十分に価値があり、われわれ凡人には、それを読んで吸収するだけでもなかなか大変な作業なのである。



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