あの世の旅路 ブライアン・J・クエバス 宮本神酒男訳 

1 地獄からの帰還 

聖なる使者によって警告されていたにもかかわらず 
じつに多くの人が怠慢で 
実際長く嘆き悲しむことになるのだが 
より低次の世界へ降りてしまう。 
だがこの世のよき人々は 
聖なる使者によって警告されたとき 
無知なままで暮らすことはなく 
高貴なるダルマ(仏法)を実践するのだ 
                  デーヴァドゥータ経(天使経) 


 自らのチベットの旅について1928年に書き記した文章のなかで、チャールズ・ベルはほんのわずかな記述だが、ラサでの特筆すべき出会いに言及している。

「チベットではときおり死者の世界からよみがえったと主張する男、あるいは女と出会うことがある。デロクと呼ばれる人々、つまり一度死んで戻ってきた人々がそうである。私はポタラ宮殿の裏側のラサ・リンコル(ling-kor)でデロクと会ったことがある」とベルはつづける。「彼女は東チベットから来た老女だった。彼女が言うには、一度死んで、5、6日たってからこの世に戻ってきたとのことだった。それで彼女は聖なる道(リンコルのこと)の傍らで祈祷を唱えながら坐っていると、心やさしい巡礼者たちがお恵みを置いていくのである。チベット人はつねに奇跡に敬意を払う。もっとも、それにたいし過度に驚くというわけではないが」

 チャールズ・ベルがポタラ宮殿の裏側で会ったというこの老女のどこが奇跡だというのだろうか。死んだあとよみがえるという、チベットでデロクと呼ばれるこうした人々は何者なのだろうか。彼らの体験の本質と実態は何なのだろうか。チベットの社会においてそのような体験をしがちな、あるいは駆り立てられる人物とは、どんなカテゴリーに属するのだろうか。しばしば考えられるように、男より女のほうがデロクになりやすいのだろうか。社会的ステータスが高いか低いか、あるいは僧侶と俗人の間に、際立った差異があるのだろうか。彼らの体験の細部から、チベット社会の民間宗教について何を学ぶことができるだろうか。この本を通して私はこれらの疑問について考え、可能な限り回答を示したいと思う。同時にまた、デロクを扱ったチベット文学が、社会的歴史的な資料としてどれほどの価値を有するかについてスポットを当て、死と来世に関するチベットの民間信仰と実践の本質についての洞察を深めていきたい。

 一般的に、デロク(死者の世界から戻ってきた者という意味)とは、男であろうと女であろうと、あの世を旅し、戻ってきてから死後の世界の体験について報告するごく普通の人々である。彼らの話は、この生のはかなさと世俗的な苦悩という普遍的な仏教の原理、カルマの浮き沈み、徳を積むことによって好ましい転生を得ることのむつかしさが強調されている。いくつかの残存するテキストは12世紀におけるデロク現象が現れたことの傍証となるものの、明確なジャンルとしてのデロク物語の発展は15世紀になるまでそれほどみられなかった。実際、私の知るところでは、チベット文学でもっとも早くデロクに触れたのは15世紀の(1446年と1451年の間に)タツァク・ツェワン・ギェルによって編纂され、グー・ロツァワ・ションヌ・ペル(13921482)によって採録された「ロロン宗教史」である。それは1476年と1478年の間に編纂された彼自身による有名な「青の歴史」の数十年あとに成立したものだった。カギュ派タクルン僧院の最初の住持、タシ・ペル(11421210)の章で、タシ・ペルは中央チベットのタンキャで死からよみがえった老婦人と出会ったと書かれている。よみがえりし女性(shi-log-ma)という言葉によって言及されているこの女はtsクルン・タシ・ペルに彼が偉大なる精神的教師として成功するという予言を与えている。ベルが引用しているように、「ロロン宗教史」のなかで、チベットにおけるデロクの社会的アイデンティティと機能がどういうものであるか、一瞬われわれはとらえることができる。両方の事例でデロクは女性である。つぎに、ふたりの女とも死んでまたこの世に戻ってきただけでなく――それ自体ものすごいことではあるが――施しものを求める歌をうたいながら、占い師として(ロロンの歴史の場合)、あるいは説教師として(ベルのラサの女の場合)活動をする。デロクのこれら特別な社会宗教的な役割はフランソワ・ポマレの現代ブータンとネパールのふたりのデロクのパイオニア的な民族誌によって裏付けされる。


(つづく)