リョーリフのスピリチュアル・ジャーニー 

1 芸術に駆り立てるもの 

 

 どうしたら冒険好きのロシア人の少年が、家族が所有する敷地の外にある長く荒廃した戦場や、森に散在する埋葬地を掘り返すのをとどめることができただろうか。夏までに10歳になった、痩せた、青い目で金髪の少年ニコライ・コンスタンチノヴィッチ・リョーリフ(レーリヒ)にとって答えはなかった。1884年のある速い朝、苔に覆われた神秘的なクルガン(墳丘墓)や興味をそそる石積みのトゥムリ(塚)を見つけた少年は探索を開始した。10世紀のブロンズの装飾具を発見した彼は勇気づけられ、発掘をつづけた。

彼は埋葬された骨壺、炭化した骨、二股の斧、槍、ブロンズと鉄の剣、馬の毛で編んだ刺繍入りの布の切れ端、手綱、ベルト、ブローチ、両親の目が届かないところに隠したその他の出土物をリストにまとめた。

 その頃、野営の煙が流れてきて霧のように彼を包み込んだ。彼は馬のいななきを聞き、若い戦士たちが馬を競いあったり、取っ組み合いをしたりするのを遠くに眺めた。短い槍で武装した彼らは、暗い眼をしたアヴァール人だった。彼らは馬の乳を飲み、死ぬと馬の横に葬られた。重装備で身を固め、馬にブロンズの経かたびらを着せた気性の荒いイラン・モンゴル人に追い払われるまで、彼らは黒海沿岸でギリシア人と交易をしていた。

「シャベル一振りで、鋤(すき)の一掘りで、魅惑的な王国が現れた」とニコライはのちに書いている。

 発掘するごとに、彼の手に握られた古代の記録が、学校で習った古代民族に命を与えた。スキタイ人は動物の絵を描くことで知られた。サルマタイ人は西暦150年頃まで南ロシアを支配した。ケルト人。そしてアッティラに率いられて西暦375年にアジアを横切ってヨーロッパへ向かったのはフン族。そして彼はロシアの水路を長い間支配したゴート族についても学んだ。ゴート族は倍増し、分裂してアウストロゴート族、ウィシゴート族、残忍なチュートン系のゴート族となった。彼らは特徴的な腓骨で、着ていたチュニックの肩のあたりを叩いたという。

「私の最初の埋葬品発掘は大好きだった歴史の授業とも一致したし、地理やゴーゴリのファンタジー小説ともぴったり合ったんだ」とニコライは日記に記している。11歳のとき彼は学校で、自分が発見した出土品を展示したという。

 歴史と古代の物語、とりわけ現デンマークのユトランドからやって来たヴァイキングの王子リューリク(Rurik)の伝説はいつも彼を魅了した。リョーリフ(Roerich)自身、王子の血が流れていたという。

物語は862年にまでさかのぼる。当時、カルパチア山脈からやってきたスラブ人がここに定住して土地を耕し、山城共同体を形成していた。そこへヴァリャーグ族とペチェネグ族がやってきて侵略の機会をうかがっていた。ヴァイキングたちはオカ川、ドン川、さらにはヴォルガ川下流に沿った地域にやってきて、貢納と引き換えに貢納と引き換えに村々を守っていた。リューリク王子は早くからこの地域にやってきていた。そこでスラブ人たちは彼のもとに代表団を送り、彼が王朝を創立し、彼らの守護者となることを求めた。彼はその後も長くつづくことになるヴァイキングの侵略の波を止めることはできなかったが、流域地方に要塞を築き、辺鄙な村々に代理官を置くことには成功した。

 時が過ぎ、彼の継承者たちはキリスト教を信仰するようになり、教会や僧院を建設した。また通商のための水路を開き、交易路を確立した。そしてロシア法を制定し、アルファベットを考案した。ヴァイキングはルース(Russ)と呼ばれていたので、ロシアの名は彼らから来たと信じる人々もいる。

 ニコライの母マリア・ワシレウナ・カラシュニコワの家系をたどると、リューリクを招待し、彼の部族に支配を求めた初期のスラブ人である。彼女はそれゆえ東部の「純粋なロシア人」の血を引き継いでいると考えられた。巨大なインド・ヨーロッパ語族に属するスラブ人は6世紀になってからヨーロッパの歴史に登場する。彼女の体内にはさまざまな血が流れているが、先祖は10世紀に建設されたロシアでもっとも古い都市プスコフの商人だったという。

 裕福で、政治的な影響力を持ったニコライの父コンスタンチン・フェドロヴィッチ・リョーリフ(レーリヒ)は、ラトビアのリガ生まれの公証人であり、弁護士だった。何世紀にもわたってレーリヒの血を受け継ぐ者は、政治的なリーダーや軍人、あるいはテンプル騎士団やフリーメイソンなど、秘密結社の一員として生きてきた。ニコライの両親はインテリ階級に属していた。すなわち、教育を受けた階級であり、忠誠心をもって交際しつつも、国の状況を改善するために積極的に活動する自由思想の持ち主でもあった。水曜日の夜にゲストを迎えるとき、招かれた考古学者やオリエンタリストはおなじグループに属していた。

 ニコライ・コンスタンチノヴィッチは1874年10月9日(旧ロシア暦で9月27日)、サンクトペテルブルクに生まれた。彼の誕生は1861年にはじまった短期間の農奴制改革と時期を同じくしていた。このときツァー(皇帝)は農奴制を廃止し、2300万人の人々を解放する決定を下したのである。はなやかな家系に生まれた若きレーリヒは、美しいものや音楽を愛し、旅への渇望が抑えきれず、若い身ながらも人前で説きたいという気持ちが強かった。

 リョーリフ家はネヴァ川沿いの優雅な建物を占めていた。下の階は威信のあるコンスタンチン・リョーリフ将軍のオフィスで、上の階に家族が住んでいた。暇なときには、彼らはフィンランド湾から遡上してサンクトペテルブルクへ向かう船を眺めることができた。軍の船が入ってきながら礼砲を鳴らすと、壁が揺れ、ガラスの食器がガタガタと音を立てた。冬の休暇中、あるいは蚊やコレラが群れる夏の蒸し暑くて長い「ホワイトナイト」の季節になると、家族は喜んで45マイル(72キロ)南西の田舎の地所へと移動した。その名は前の持ち主がつけたもので、イシュヴァラだった。サンスクリット語で神、あるいは神聖なる霊という意味である。

 ニコライは11歳になるまで長引く気管支炎と衰弱した肺に悩まされた。かかりつけの医者は冬と春の新鮮で冷たい空気がむしろこの子を強くすると言った。この革新的な治療法によって、彼はイシュヴァラの3千エーカーの敷地を自由に動くことができるようになった。しばしば地所の管理人と歩き回り、彼は森への愛情を持つようになった。リョーリフの幸福な子供時代の思い出はまさにここで作られたのだった。彼は自然の中に生きるものを愛し、また乗馬や罠の仕掛け、射撃を覚えたので、情熱的なハンターにもなった。数日間つづけて静かに鳥を眺めたり、鹿や熊、小さな森の動物を追ったりした。黄昏(たそがれ)時に巨岩や大樹の緑色や紫色の影に隠れた巨大なトロール(妖怪)やピクシー(妖精)を狩ることもあった。石や雲、現実世界とは反対側のデーヴァ(神)や精霊が彼に話しかけてくるように感じた。かつて雪が降ったとき、彼はスキー板をはき、大きく息を吸い込むと、白く輝く丘を滑走した。彼は冒険心を抑えきれず、皇室狩猟グラウンドと隣村に接した広大な森の中へと入っていった。

 ニコライは農民たちに興味を持った。彼らも彼が真剣で好奇心をそそられた様子だったので、地元に伝わる物語を聞かせ、習慣や伝統について説明した。大半のロシア人は敬虔なクリスチャンで、ロシア正教会に属した。巡礼者やスターレッツ(長老)と呼ばれる聖なる賢者たちが地方を放浪していた。多くの人が清貧と隠棲の生活を選び、苦悩と混乱の時代、他者を導いた。大きな僧院がいたるところに建てられた。何百人もの祭司や修道士たちが多くの教会を輝かしい彩りを放つおびただしい数の奇跡のイコン(偶像)で満たした。それらには病気の治癒や保護を求め、インスピレーションを与えてくれるよう願いが込められていた。

ロシアの広大な風景に、暗い森や月のない夜などが組合わされ、それに教育の欠如が伴われて、迷信や伝説、豊かな超常現象の伝承が生まれる土壌ができあがった。子どもたちの頭の中は、キリストや使徒、聖人の話とともに、妖精や火を吐く蛇、危険な水の精霊の物語でいっぱいになった。



(つづく)