リョーリフのスピリチュアル・ジャーニー
第3章 文化は霊的なもの
リョーリフの作品展が巡回しはじめた頃、ロバート・ハーシュの「このような作品をアメリカ人は見たことがない」という言葉が正しかったことが証明された。批評家たちは当惑した。というのも彼の作風を分類することができなかったからである。
「学派? それはどの学派にも属さない。あえて言うならレーリック(英語読み)学派、あるいはロシア学派だ。その方法や精神は唯一無二である」
このことについて新聞記者に聞かれたとき、リョーリフは答えている。
「どうして人は同じ絵を描かなければならないというのでしょうか。それぞれのテーマに応じてアプローチの仕方があり、やり方があるはずです。感じたままにわたしは描くだけなのです」
リョーリフの絵画の独自性は、彼自身が見た夢、ヴィジョン(幻視)、物事の洞察力、正確無比な目などが統合され、そこから生まれたものだった。子供時代から雲の渦巻き、川の模様、森のきめこまやかさといった秘密を自然そのものから受け取ってきた。そして神秘主義や象徴主義にいざない、ロシアの魂の奥深くへと踏み入れさせたのはイコン(ロシア正教の偶像)だった。宗教的熱狂のなかで、あるいは静かな瞑想状態で描かれたそれらは、言葉のない言語で通じ合うことができた。たゆたうロウソクの炎やお香の煙越しに輝いて見える青い馬たち、赤い山々、いかめしいが、また優しい純粋な色あいは、色が深い情緒や勝利の喜びを表現することを彼に教えた。
リョーリフがもっとも影響を受けたと考える先生は帝国芸術学院のアーキップ・I・クインジだった。彼が属していたと思われる神秘的な薔薇十字会は、ツァーから黙認され、尋常でない保護を受けていた。さまざまなレベルにおいてクインジはリョーリフにとって理想的な教師、すなわち完璧なグルだった。色彩や日光、月光などを対比させる方法に抜きんでていて、彼は強い印象を受けていた若者であるリョーリフと生命の奥深い神秘について論じた。
それからリョーリフはパリで石器時代をテーマとしたことで知られるフェルナン・コルモンから学んだ。コルモンは生徒たちに個性と自由闊達さを求めるよう勇気づけた。生徒にはトゥールーズ・ロートレックやヴァン・ゴッホが含まれていた。ときたま見てもらったり、個人的な話をしたりするだけで、リョーリフは自分用の個別のスタジオで創作活動に励むことが許された。異なる状況、新しい影響のもとで、彼の創作スタイルは写実主義から様式的になっていた。より神秘的な観念を加え、ロシア・ナショナリズム的な描き方はより普遍的なスタイルになっていた。若いリョーリフは時間を工面してルーブルで過ごすようになり、そこで見たピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが描いた巨大なフレスコ画の、シンプルですっきりした色調と形の影響を受けた。シャヴァンヌの絵に鼓舞されたリョーリフは巨大な絵に取り組んでいる。