オカルト・アメリカ 

第3章 これを家で試してはいけない 

ウィジャと売り物の心霊主義 

 

これらのぞっとする現象。そこに偉大なる真実があるのかもしれないが、私たちはそのためにほとんど壊されようとしている。

――スワミ・ヴィヴェーカナンダ 

  
 心霊主義の時代の幕開けから百年以上たった1960年代の郊外の家で、スピリチュアリズム(心霊主義)という言葉を聞いたことすらないであろう3人の十代の少女が、十代ならだれでも知っているあるモノのまわりに集まった。ウィジャボード(こっくりさん)である。

 神経質にクスクス笑いながら少女たちは未来について聞いてみた。
「私たちはみな結婚できますか?」
 少女らはプランシェットと呼ばれるプラスチックの板の上に指を軽く載せ、ボードの文字の上をスライドするのを待った。それは動き始めた。最初はグイっと、それからなめらかに滑った、まるで何かの力に導かれているかのように。ボードの太陽と月の気持ち悪い顔が少女たちに向かってニヤリと笑うと、プランシェットはボードの上を滑って「ハイ」を示した。

「では、離婚しますか」と少女らは聞いた。
 プランシェットはすぐ動いて「ハイ、3(人とも)」と答えた。

 気にしていた少女らは中年になり、ふたたび会ったとき、ウィジャボードのことを思い出して笑った。3人とも結婚したが、離婚したのはひとりだけだった。ただしひとりで3度も離婚していたのだ。

 ビーチボーイズが「Tバード(サンダーバード)」について歌い、「ハンバーガー・スタンドでファン、ファン、ファン(楽しめ、楽しめ)」と合唱したとき、若者文化はビッグ・ビジネスになっていた。

 火星の生活のように(降霊会で有名な)フォックス姉妹には理解不能の発展があり、ウィジャはアメリカでもっとも刺激的な、新奇な流行りとなった。ゲームボードの神秘的な動きと霊との通信はパジャマ・パーティや、オモチャが散乱する地下室には不可欠だった。

 1960年代後半までにはウィジャボードの売り上げはすさまじく伸び、ゲームボードでライバルと言えるのはモノポリーだけだった。

 娯楽モノとしてパテントが取得され、販売されていたにもかかわらず、ウィジャは一時的な熱狂的な流行りものではなかった。それは19世紀のアメリカのスピリチュアリスト(心霊主義者)が作ったホームメイドの装置だった。彼らは心霊主義が現れ始めたころから、夕食の団欒のときの会話のようにごく自然に死者と会話ができないものかと探っていたのである。恐ろしいものか魅力的なものかはともかく、ウィジャは彼らのもっとも長続きをした成功のシンボルなのである。