オカルト・アメリカ 

6章 ファラオに告げよ 

アフロ・アメリカの魔術の勃興 

 

彼らはメラに着いたが、メラの水を飲むことができなかった。それが苦かったからである。(……)そして彼らはモーセにたいして不平をこぼしながら言った。「われわれは何を飲むのでしょうか」そこでモーセが神に向かって叫ぶと、神は一本の木を示した。彼がそれを水に投げ込むと、水は甘くなった。

――出エジプト記 152325 

 

 フレデリック・ダグラスにはお伽話や伝説に接する機会がなかった。奴隷として生まれた彼は、幼いときに母親から引き離された。母親は何マイルも離れたプランテーションから歩いてやってきて、自分の子供を揺すって寝かせ、ときには手作りの生姜ケーキを食べさせた。成長して十代の少年になり、自分の力で学習した。そして残酷な監督官にムチで打たれる犬の役を演じるのは御免だと思うようになった。しかし1834年1月、16歳の誕生日の前夜、ダグラスは自分がニグロの壊し屋の異名をとる最悪の農園主コーヴィー氏に売られたことを知った。

 その数年前、ダグラスはバルティモアの家族の召使だった。奴隷の身にとってつらいこと――飢え、ぶたれること、日々の辱め――は都市生活の表向きのやさしさによって少しはやわらぐことがあった。実際バルティモアの女主人は、亭主に止められるまで彼に読み書きを教えていたのだ。

「もしおまえがニグロに読み書きを教えるのなら」と亭主は妻に言った。「こいつを手元に置いておくことができなくなるだろう」

 しかしダグラスは自学を続けるいい方法を見つけた。本や新聞記事のスクラップにできうるかぎり目を通すようにしたのである。ところがバルティモアの家族はすぐに雇用者の入れ替えをおこなった。彼は突然もとのプランテーションの生活に戻された。

 メリーランド州セント・マイケルズの新しい主人は懐疑的だった。都市生活の味を知ってしまった若者に、畑で仕事をすることが可能だろうか? たしかに1834年はじめ、彼はダグラスをエドワード・コーヴィーに一年間貸し出した。何か理由をでっちあげては奴隷を叩くような、けちで残酷な農園主である。

 仕打ちがあまりにもひどかったので、ダグラスは8月までに農園を抜け出し、セント・マイケルズのもとの主人のところに戻って助けを求めた。しかし彼の嘆願は拒まれた。しかたなく彼は全身傷だらけで、血まみれのままコーヴィーの農園に戻った。戻ったものの彼は日中はできるだけ姿を隠し、夜はどうしたらいいかわからず、農園近くの森の中に身をひそめた。

 しかしながらそのあとの数日間はだれにも予想できない展開が待っていった。コーヴィーにとってショックだったのは、農園に戻ってきたダグラスを殴ろうとすると、やり返されるようになったのである。ある朝2時間ほど彼らは殴りあったが、どう見てもコーヴィーが勝っているとはいえなかった。十代の少年すらコントロールできないことに嫌気がさして、彼は「もう十分だ」と言った。奴隷主は負けを認めたのである。

 ダグラスにとってこれは、物事に対して逃げ出さないという、内的な革命の瞬間だった。彼の自己防衛の行為は心と精神を解き放った。そうすれば肉体もまた解放されるのである。これこそアメリカの歴史におけるもっとも驚くべき奴隷解放の物語だった。

 ダグラスの内的革命には、もうひとつ、知られざるドラマがあった。アフリカ系アメリカ人の内奥深くにひそんでいたオカルトの伝統が、はじめて表に出てきたのである。彼は1845年にもっとも早くそのエピソードについて書いているが、それをゆがめ、たいしたことではないかのように装っている。10年後、ダグラスが書いた本が出版され、魔術と奴隷生活のことが明るみになる。それを見つけるために、われわれはコーヴィーの農園近くの暗い森に入らなければならない。