彼は神秘主義者にあらず
1940年、シカゴで行われた民主党全国党大会の前に、フランクリン・ルーズベルトは当時の副大統領ジョン・ナンス・ガーナーとの縁を切った。不屈の精神を持ったテキサス人は、ルーズベルトが求めていた前例のない大統領三期目に反対していたのである。この背景にあるのは、伴走者は陰りが見えているニューディール政策を忠実に支える者でなければならないという決意を大統領が固めていたことだった。伴走者は、大都市の労働組合員から中部の農場主まで、異なるタイプの選挙民をひとつにまとめることができねばならなかった。
大統領はひとりの男を選んだ。彼ははじめ共和党員ながら政権に加わったが、のちにリベラルに転じヒーローとなる。農場で育ち、農務長官になったヘンリー・A・ウォレスである。
「彼は実直だ」とルーズベルトはこのアイオワ人について語っている。「彼は正しく考え、掘ることができる」
しかしそれはうまくいかなかった、と説明するのは民主党全国委員会議長のジム・ファーリーだ。ウォレスには奇妙なところがあった。彼は神智学協会の会員であり、占星術、輪廻転生、東方宗教、ネイティブ・アメリカンの神秘主義、オカルト主義に興味を持っていることはよく知られていた。
教授然とした雰囲気があり、こぎれいにした中西部の人間の容貌をしたウォレスが、ワシントンのディナー・パーティの常連客を驚かせたのは、彼がチベットのお守りを取り出し、自分の額にこすりつけて、頭痛を治そうとするのを見たときだった。
ファーリーは回顧録のなかで大統領との緊迫したやりとりを思い起こしている。
「人々は彼を神秘主義者とみなしている」とファーリーは大統領に苦情を申し立てた。
「彼は神秘主義者ではない」とルーズベルトは一蹴した。「彼は哲学者だ。彼にはアイデアがある。彼は正しく考える。彼は人々が考えるのを手助けする」
実際、ウォレスにはアイデアがあった。大不況のときにアメリカの農業を助けた並はずれたアイデアである。家族経営の農業ジャーナル「ウォレスの農場主」の三代目編集者として、あた共和党ウォレン・ハーディング政権の農務長官として、ウォレスは農場で何をすべきか熟知していた。
ルーズベルトが大統領に就任してまもない頃、農場主の平均収入はガタ落ちししていた。ウォレスは多産性の種子の導入、土壌維持の新方法、輪作の植え付け、生産過多の抑制などといった改革を断行して対処した。大恐慌のとき、彼の改革によって何千もの家族農場が救われたのである。
歴史家のアーサー・シュレジンガーは、ウォレスをアメリカ史上もっともすぐれた農務長官として認めた。ウォレスはビジネスの面でも成功を収めている。生物遺伝学や作物の交配などにおける知識と才能によって、この熱心なニューディーラー(ニューディール政策を推進する人)は、農場にけっして足を踏み入れたことがない人々にもなじみが深い種子会社「パイオニア・ハイブレッド」を立ち上げ、裕福な男になった。
政治、ビジネス両面のウォレスの成功は、自己流の型にはまらない自由奔放さから生まれたものともいえる。彼は農場主でもなければビジネスマンでもなく、出版者でもなければ政治家でもなく、共和党員でもなければ民主党員でもなかった。彼は結局のところ、探求者だった。
「原則的に」と彼は友人に語っている。「私は内なる光を外側に現わし、外側に現われたものを内なる光にもたらす方法を探しているのです」
彼は自由に形而上学的な興味を公的な仕事に結び付けている。
「宗教とは、実践的なやりかたで、彼自身の、または仲間のなかの聖なる潜在力を表現し、そのための精神的パワーを見つけることによって神に向かっていく方法なのです」
ルーズベルトはまさにうってつけの男を得た。農場主であり、探求者であり、政治家であるウォレスは、因習的な勢力からも承認された。一部の人は彼がリベラルすぎ、奇妙すぎると感じていたが。ルーズベルトが再選されたあと、ウォレスは大きな影響力を手に入れることができた。彼はニューディール政策のルネッサンス・マンとして、また政権の住み込み哲学者として名声を勝ち得た。
彼は熱狂的に弁じ、多くの講演のスケジュールをこなし、大衆の前に姿を現し、個人的な人気を得た。南部の黒人から中西部の農場主、北東部の知識人までニューディール政策に批判的な連中をも団結させた。彼をルーズベルトの後継者に推す声もさかんにきかれるようになった。
しかしあとを継いだのはウォレスではなく、二期目のルーズベルト政権の副大統領だったハリー・トルーマンだった。ヘンリー・A・ウォレスは現在ではその名さえ忘れられてしまったのである。この転換期のあと、「農業地帯の神秘主義者」に対してジム・ファーリーがいだいた漠然とした疑念は正しかったことがわかった。