無限の探求者 

 ウォレスは自分のことを勝手に「実践的神秘主義者」と呼んだ。彼の秘教的哲学は長い間考え続けた旅の結果だった。しかし彼の真剣な探求をだれも尊敬してくれないことに困惑を覚えていた。

 アイオワ州デモインに育った若者であった彼は、長老教会派の教会を離れ、神智学協会からネイティブ・アメリカンのシャーマニズムまで、さまざまなオカルトや形而上学的な宗教システムの世界を旅した。

 1900年代の高校で彼は飢えたかのようにウィリアム・ジェームズの古典的比較宗教学の書『宗教体験の諸相』の授業を取った。そこにはニューソート(新思考)、メンタルの治療、その他の形而上学的要因についての哲学者の見方への深い関心が記されていた。

 ウォレスはラルフ・ワルド・エマーソンを読み、20世紀の形而上学者に興味を持った。とりわけ刺激的なベストセラー、『無限と調和して』(邦題「万能の鍵」)の作者、ラルフ・ウォルドー・トラインに惹かれた。心を物質的な、創造的な力とみるトラインのアイデアは若いウォレスの心の琴線に触れた。しかし彼の広がる世界観に深く刻まれるのは神智学だった。

 1919年前後、ウォレスは30代なると、デモイン神智学ロッジに参加するようになった。そして1925年までに神智学の運動ときわめて近い関係にあるリベラル・カトリック・チャーチで活動をはじめた。この神智学を創建したのは、もっとも多彩で毀誉褒貶の激しい英国の作家チャールズ・ウェブスター・レッドビーターだった。

 リベラル・カトリック・チャーチは英国国教会やカトリックの教会の代替となるよう設計されていた。伝統的なキリスト教の祈祷やミサが行われたが、信者には自由が与えられていた――神智学のやりかたで――世界のすべての宗教のなかに真実を認識し、追跡することができた。

 チャーチの教義はつぎのように記されていた。
「人類を助ける聖者の仲間たち、すなわち聖なる者たち、または天使の聖職者たちがいる」
 これによって神智学の言葉で言う隠されたマスター(大師)たちに対する信仰の扉が大きく開かれた。数年間、リベラル・カトリック・チャーチはウォレスにとっての精神的な家だった。彼は礼拝の儀式をおこない、法衣を着て、デモイン支部の組織化を手助けした。レッドビーターの少年愛をめぐるスキャンダルが表沙汰になったあと、1930年までに彼はリベラル・カトリック・チャーチを去った。

 父親とおなじ道をたどって、ウォレスはフリーメイソンに加入した。彼は組織のもっとも高い位に就いた。1930年代はじめ、彼は占星術の本格的な研究をはじめた。天空の現象によって農場主のために予言ができるかどうかを知ろうとしたのである。

 このように彼が求めたものは、彼が育った世界の農場主にとって、ひどく見慣れないものではなかった。19世紀から20世紀はじめの多くの農業暦は、月や惑星が天候パターンにどんな影響を与えるか、また星座間の地球の位置と黄道十二宮(ゾディアック)の関係がどうなっているか、などを含む民間伝承によっていた。

 もうひとつの魅力的なテーマはインドの儀礼だった。1931年、彼はメディスンマンと親しくなった。ミネソタ出身の白人の詩人で作曲家、チャールズ・ルースである。ルースはインドの神秘主義を研究し、自分自身をマスター(大師)とみなしていた。ルースを通じてウォレスは、自分が過去生においてインドの勇者であったかもしれないと信じ始め、その仮説を探求する決意を固めた。

 1932年、ニューヨーク州知事だったフランクリン・ルーズベルトは尊敬すべき農業改革者をハイドパークの自宅で開いた「互いを知るための集まり」に招いた。ウォレスはスリルを覚えながらも招待を受けた。

 「招待されたことがうれしかったのには、もうひとつ理由があった」とウォレスの伝記作家ジョン・C・カルヴァーとジョン・ハイドは書いている。「ルーズベルトは理由を知ったなら、面食らっただろう。

 ウォレスはこの旅が、アメリカ・インディアンの宗教を探求し、彼とシャールズ・ルースが過去生において、戦士としてともにさまよったことをたしかめるいい機会になるかもしれないと考えたのだ」

 ウォレスは実際、ハイドパークの北西のニューヨーク・バーンド・オーバー・ディストリクトでオノンダガ族の長老たちと一定期間過ごした。長老たちは彼の過去生の記憶が本物であると確信し、秘儀参入のイニシエーションを与えている。そのとき「インディアンのタバコを使っていた」とカルヴァーとハイドは書いている。

*訳注:ネイティブ・アメリカンが儀式のときに用いたタバコはおそろしく強く、幻覚作用をもたらした。

 しかしこうしたことはすべて、ロシア人亡命者、画家、神秘主義哲学者のニコラス・レーリック(ニコライ・リョーリフ)と短いながらも強い絆を持つにいたる序章にすぎなかった。それは1933年、ウォレスがルーズベルト政権に抜擢された記念すべき年にはじまった。この関係から独自の政治的アイデアが生まれた。そしてそれはのちにウォレスの政治キャリアにつきまとい、ダメージを与えることになる。復活することがないくらい、そのダメージは大きかった。