親愛なるグル 

 ニコライ・リョーリフは一言で括ることのできない存在だった。霊的な作家であり、哲学者、神智学者、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーの著名なバレエの舞台デザイナーであり、東西の聖地に共通性があることを明らかにし、ロシアの教会や仏教僧院を魅了したモダニストの画家でもあった。彼はまた自身で確立した文化大使であり、1920年代にニューヨーク・シーンに登場すると、たいへんな注目を浴び、州知事フランクリン・ルーズベルトを含む多くの人の庇護を得た。

 ルーズベルトがリョーリフと出会ったのは1929年のことだった。リョーリフは、戦時に文化遺跡や遺物を守るための世界的な条約を確立するための妙案を持っていた。爆撃機などの侵略者が上空を飛ぶとき、遺跡などのモニュメントを避けるため、赤十字の記章のような目印を置くことを提案した。彼が考案したのは三つ輪印の旗だった。

 歴史家やジャーナリストの多くは、軽蔑をこめてリョーリフを間に合わせの神秘主義者、ルーズベルトやウォレスらに資金を拠出させたいかさま芸術家として記憶している。しかし平和のバナーやよく知られた条約であるレーリヒ協定は、ウォレスのような真剣な人々の間で注目を浴びた。そして国際条約への取り組みは、先見の明があり、パイオニア的存在とさえ言えた。ウォレスにとって条約とは神秘的原則、すなわち世界の諸宗教と芸術的表現の統一であり、政治の場にいかに適用するかという模索だった。

 リョーリフの影響の絶頂期は、ルーズベルトがウォレスに、米国のためにレーリヒ協定に署名するように委託したときだろう。1935年4月15日、ホワイトハウスで、いくつかの中南米国家が参加して調印式が行われ、ウォレスは実際その協定に誇りをもって署名した。ほかの国々もそれに従ったが、発効した協定の効力は限定的なものにすぎなかった。

 しかしながらリョーリフとの関係は、農業家としてのウォレスの魅力を削ぐことになった。彼の実直な中西部の人物という一面と相反したヨーロッパのオカルト主義――まさにリョーリフが耽溺していたもの――の秘密性と霊性は、ウォレスの弱さを露呈した。

 しばしばカメラの前でしかめ面を見せた、オリエンタルな衣装をまとったフー・マンチュー博士スタイルの髭の青ざめたロシア人は、ハリウッド映画に出てくる神秘主義者そのものだった。実際はるか遠くのアジアを探検したリョーリフの物語は、人気小説でフランク・カプラによって映画化された「失われた地平線」に大きな影響を与えていた。それにはヒマラヤの奥地の神秘的な地シャングリラが描かれていた。

 1930年代のはじめ、リョーリフは友人であるウォレスに、ガラハドというアーサー物語の騎士にちなんだイニシエーション名を与えた。当時、ウォレスはリョーリフに宛てたドラマチックで想像力あふれる手紙にこのノム・ド・ミスティーク(神秘名)を用いた。

 「親愛なるグル」という呼びかけで、1933年のもっともよく引用される謎めいた手紙ははじまる。「あなたが小箱を、もっとも貴重な聖なる小箱を持っていると私は考えてきました。そして三つ星のしるしの下の七つ星と会う新しい国について私は考えてきました。そして石を待てという訓戒について考えてきました」

 リョーリフに感化されて仲間内の隠語を用いたウォレスの手紙は、ファンタジー・ロールプレイング・ゲームの「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のシナリオのようだった。ウォレスの神秘主義的な用語と暗号はルーズベルトに宛てたホワイトハウス内の略式書簡にもあふれていた。

 つぎの1935年のウォレスからルーズベルトに宛てた略式書簡は、ホワイトハウスの歴史のなかでもっとも奇妙な内部メモといえるだろう。

 

ほんのわずかの間、私は感じたのですが、我々はおそらく、一時的に復活することで、「強き者たち」や「荒れ狂う者たち」、「熱烈な者たち」と、また死につつある資本主義という巨人の息を吹き返させるために戦っている瀕死の「光彩なき者」とやりあっていかねばなりません。大統領さま、あなたこそ、「光彩ある者」、すなわち人々の子どもたちがふたたび歌うことのできる時代へと導く、上昇する精神の持ち主に違いありません。

 

 このような状況で、ルーズベルトにレポートが寄せられた。「何てことでしょうか! ウォレスに何が起こったのでしょうか!」

 ある次官は冗談まじりに言った。「私は神智学者を中に入れてヘンリー(ウォレス)に面会させてもかまわないと思っとるよ。ヘンリーならすぐ彼に仕事を与えてくれるさ」

 ウォレスは疑惑を払拭するために、1935年秋、彼との関係を切った。レーリヒ協定を結んでからわずか一か月後のことだった。神秘主義者と(霊的)息子は、ホワイトハウスが資金を拠出したモンゴルへの農学探検を、旱魃に強い草の品種を集めるのではなく、リョーリフが興味を持っているものを探す、政治的不正行為ともいうべき国際的なジェスチャーゲームに変えてしまったのだ。

 リョーリフは武装した白ロシア・コサック軍を立ち上げ、ソビエト、中国、日本当局に警告を発しながら、ロシアとアジアの境界地域を走破し、モンゴル国境へと向かった。しかしこの遠回りの旅のために、リョーリフは、白ロシアのスパイからユーラシアの紛争地帯の厄介者まですべての悪行の罪を着せられてしまった。ウォレスが最終的に探検隊の中止を言い渡し、リョーリフとの関係を断ったとき、ホワイトハウスはほっと胸をなでおろした。