目とピラミッド 

 自分のスピリチュアルな興味のためにウォレスが欲したことのために、彼の政権における務めに影が落ちるようになった。政治的影響力が増しているときも、ゆっくりと影が落ちていたのだ。

 口述筆記によるホワイトハウス時代の彼自身の記録によると、ウォレスは米国の印璽の裏に描かれた知られざる目とピラミッドの図案のことにルーズベルトの注意を向けさせ、さらにそれが紙幣にも使われていることを強調している。アメリカの創世期からニューディール時代を通じて、印璽は協定を結ぶときやほかの公式の政府の執務に使われた。

 1934年にはじめてウォレスの注意をひいたときは、それはなじみのない儀礼上の印章だった。彼はラテン語の格言「ノヴス・オルド・セクロールム」(時代の新秩序)について考えた。それは時代のニューディールとも訳すことができた。ウォレスはスピリチュアルなニューディールの必要性を講じた。低俗で、汚くて、いやしく、憎たらしく、がめつい人間性よりも上の位置にそれはあるべきだった。

 自身フリーメイソンだったルーズベルトは、尊大なシンボル(目)と堂々とした像(ピラミッド)にたいしても、不愉快ではなかった。ウォレスは像を使ってはどうかと提起したときのことを思い出した。

 

(ルーズベルトは)最初、すべてを見る目が代表するものが、宇宙の偉大なる建築家のフリーメイソンの代表するものであることに感銘を受けた。つぎに彼は時代の新秩序の基礎が1776年にできていること、しかしそれは偉大なる建築家の目のもとでのみ完了するという考えかたがあることに強い印象を受けた。

 

 現存する記録によると、ルーズベルトは1935年にドル紙幣の裏面の紋章の位置をどうするか自ら決めたという。鷲の側(印璽の表)の前にピラミッドの側(印璽の裏)がくるように手書きの指令書で配置の見直しを求めた。こうして紙幣を左から右へ見たとき、目とピラミッドが最初にくるようにした。このように、意識するしないにかかわらず、ほとんどのアメリカ人は神秘的なピラミッドと「新秩序」の布告はありきたりの鷲と盾ではなく、アメリカの共和政体にふさわしいシンボルであるという印象を与えられた。

 財務長官ヘンリー・M・モーゲンソウは全体的に不愉快だった。彼は回顧録のなかでウォレスの奇妙な神秘的な動力について思い出し、何が彼を駆り立てているのかと問うている。
「わかったのはずっと後のことだった」と1947年のコーリアズ誌で不幸なモーゲンソウは述べている。「ピラミッドには……小さな宗教一派にとってはカバラー(ユダヤ教神秘主義)の意味あいが含まれていた」

 つまりリョーリフの宗教活動がからんでいたとモーゲンソウは考えたのである。彼は実際、目とピラミッドをリョーリフと結びつけるという勘違いをした。しかしウォレスが秘儀宗教のプロパガンダ男だと固く信じ込むのは、ひとつの意見ではあった。

 ウォレスが副大統領にノミネートされたあと、「親愛なるグルへ」の手紙の噂が広まり、リョーリフ周辺から漏れてメディアに伝わった。しかしホワイトハウスは火消しにつとめ、そのような書簡、とくに当時内国歳入庁(IRS)の調査を受けていたレーリック(リョーリフ)から来たものは信用に足るものではないと示唆した。

 事は鎮静化し、ウォレスは面倒を避けることができた。彼は人気の高い副大統領になったが、1943年までに政治的な敗北を喫するようになった。経済戦争委員会の委員長としてウォレスは、アメリカの軍需産業のために原料を作り出す外国人労働者の賃金と労働条件の保証を欲していた。これもまたグローバルな労働基準について考えたもので、早すぎる国際法作りの試みだった。

 しかし政権内部と議会に潜む敵は死力を尽くして戦い、ルーズベルトがウォレスをバックアップすることができなくなると、彼はイニシアチブを失ってもがき苦しむことになった。1944年、国内に保守ムードが高まってきたのを感じると、ルーズベルトは副大統領をあえて風にさらすことにした。保守政治の大物たちはウォレスに次期大統領のチケットを渡す気はなかった。そしてルーズベルトもウォレスを擁護するそぶりも見せなかった。

 ウォレスが1944年のシカゴの候補者指名党大会で雷鳴のごとき大歓声に迎えられたとき、じつはその裏である計略が進んでいた。ウォレスのかわりにミズーリ出身のハリー・トルーマンがノミネートされたのだ。当惑したトルーマンがウォレスに近づき、ふたりはまだ友人でいられるかどうかとたずねた。ウォレスは笑みを浮かべながら答えた。

「ハリー、われわれはふたりともフリーメイソンだよ」

 つづく何年間かはウォレスにとって罰のような期間だった。最後のルーズベルト政権のとき商務長官の座というご褒美をもらったものの、力が自分から失われていくのを感じ、ルーズベルトが休止すると実際に失ってしまう。トルーマンは彼を解任したのである。

 みじめな気持ちになり、ホワイトハウスのなかでニューディール政策が衰弱しつつあるという警告を受けたウォレスは、トルーマンの再選に挑む決心をする。

 1948年、ウォレスは左派の進歩党の支持で立候補する。民主党は彼がニューディール政策をもう一度立て直し、トルーマンをこの路線からはずし、第三勢力を作るのではないかと恐れた。しかし「親愛なるグル」の手紙が明るみになることによって、ウォレスが政治の表舞台から去るしかなくなったのである。