オカルト・アメリカ 

11章 アメリカ史上もっとも偉大な神秘主義者 

 

そしてたとえ私が予言の力を持っていたとしても、あらゆる奥義とあらゆる知識を理解したとしても、そして強い信仰を持ち、それゆえ山を動かすことができたとしても、愛がなければ、私は無いにひとしい。

――コリント人への手紙T 13−2 

 

 破産した男がエドガー・ケイシーのところにやってきた。醜い過去を携えて。彼は神秘主義的ファシスト団体シルバー・シャーツ(銀シャツ)のビジネスマネージャーをやっていた。彼は超能力とは無縁だったが、ク・クルックス・クラン(KKK)のためのペンシルベニアの組織の代表を務めていた。その頃は、成功の秘訣と極端な愛国主義をうたった神秘主義的教派であるガイとエドナ・バラードがつくりだしたマイティ・アイアム運動の創立を手助けしている。

 1935年1月13日の朝までは、すべてがうまくいっているように思われた。ワシントンDCからバルティモアへの車の移動中、車から降りたとき、対向車にひかれてしまうまでは。

 頭蓋骨を骨折し、左足を損傷した彼は、もはや働くことができなかったので、バラード夫妻に見捨てられることになった。彼はほかの元信者に、「車を包んでいる光の輪のなかにいなかったので、この事故は起きてしまった、というストーリーをバラード夫妻は広げようとしている」と語ったという。

 6年後、痛みをかかえたまま仕事を探していたその男は、バージニア州バージニア・ビーチに住む奇跡を起こす人として知られていたケイシーに手紙を書いた。ケイシーは睡眠のようなトランス状態に入り、会ったこともない人のために病状を探り、病気を癒すことができると言われていた。彼はまたサイキックとしてカウンセリングに応じ、種々のアドバイスを与えた。

 20世紀の幕開けとケイシーの死の1945年1月3日の間に、1万4千件もの記録されたトランス・リーディングをおこなった。送られてきた何千もの書簡のうちの多くは遠く離れた地からのものだった。ケイシーにわかるのは彼らの名前だけだったが、この医学の基礎を勉強をしたことがなく、教育もほとんど受けていない男は治療の効果を約束した。

 ケイシーはまた「生のリーディング」をおこなった。そのなかで彼は人の過去――それには過去生も含まれた――を凝視し、患者が適切な呼びかけができるように、また現在の方向性が見つけられるように手助けした。このあらたに手紙を書いた男がケイシーと接触しようとしたのはこうした理由からだった。彼は家族との間に問題をかかえており、絶望的なほど導きが必要だったのだ。ケイシーのリーディングには通常20ドルが要求されたが、彼には支払う能力がなかった。このサイキックに助けを求めることはできないだろうかと、彼は必死で考えた。

「リーディングは」と、1941年1月9日、ケイシーは返答した。「あなたを手助けすることができるでしょう。お代のほうはいつの日かでけっこうです。ここではお金がないからといって断られることはありません」

 翌月、バージニア・ビーチの自宅の書斎で、ケイシーはいつものように準備を開始した。ネクタイ、ベルト、カフス、靴のヒモをゆるめ、大きな灰緑色のソファに身を沈めた。立会人や速記者が見守るなか、ケイシーは静かな祈りの言葉を口にし、眠っているかのように身体を揺らし始めた。その状態から彼は「源(ソース)」と呼ぶ霊妙な知性の言葉を述べ始めるのだ。

 トランス状態のとき何が起こっているか記憶にないと彼は主張した。彼は質問にたいして詳しい解答をし、ときにはキング・ジェームズ版の聖書の言葉使いで話した。彼の話し方はおおげさで、理解できないこともあった。のち、ケイシーが霊感を与えたチャネリングのような明晰さはなかった。しかし詮索するにしたがい、大概は意図があきらかになった。

 ケイシーは「他者の非難から免れるように」その男をカウンセリングした。非難は「表現から除かれた」、というのも「あなたが非難すれば、あなたは非難される」からであると、元KKKメンバーに語っている。「知っていてほしい」とケイシーは結論づける。「選択はなされたので、それは唯一の道である。ほかの山道を登るなら、それは泥棒であり、強盗である」

 診断を受けた男は満足できなかった。「率直に言って」と彼はケイシーに手紙のなかで言っている。「(最初のリーディングは)「いい印象を持ちませんでした」

 あきらかにリーディングの倫理的な面において男は誤解されていると感じ、手紙を書いた。「私はお金がほしくてお金もうけをしているわけではありません」

 ケイシーは二度彼に手紙を書き、長い間の千里眼(ケイシー)の友人であり、支持者のひとり、ニューヨークの家具工場主、デイヴィッド・カーンとリーディングについて論じることを促している。

 ケイシーのようにカーンは世間の不適合者として育った。ケンタッキー州レキシントンのユダヤ人雑貨商の息子として大きくなり、そこで1907年、ケイシーと出会った。ケイシーは小さな農業の町からやってきて、サイキックの才能をどう使っていくか、まだ決めかねていた。

 自動車事故で大怪我をしたカーンの隣人の女性の健康を回復させるために、彼は千里眼的なリーディングをおこない、当時ほとんど知られていなかった整骨医療を実践した。カーンはつねにケイシーを勇気づけ、ジャーナリストたちには「(ケイシーは)アメリカ史上もっとも偉大なる神秘主義者」と話し、ケイシーを世に押し出した。彼はいまや元の極右反ユダヤ団体銀シャツの組織者を送り、ユダヤ人の男とともに生のリーディングを熟考させているのである。

 しかしケイシーはいつもそう手際が良く、賢明というわけでもなかった。トランス状態にあるあいだ、人種差別の解決策を自身が語るのを聞くことはまれだった。起きているときのふるまいとは反対に、悪名高い偏見のかたまりの父親のもとで過ごした田舎の幼少時代に退行し、そのような言葉が湧き出てくるのだった。

 1923年6月18日、トランス状態の彼はアフリカ起源の人々には魂がないと示唆している。1933年11月4日のリーディングのときには、彼はヒトラーを「心霊によって導かれる」男と予知している。ほかにもたんに間違った予言をすることがあった。地震や自然災害、社会的動乱、政治的変動の予知がはずれることもあった。

 そしてなじみ深いケイシーの姿がある。出自にかかわらず、すべての人が口をそろえて言う、尋常でないほど礼儀正しく、心あたたかい男の姿が。タダでリーディングをおこない、ときには彼や彼の家族が貧困に窮することもあった。ケイシーがトランス状態で語る典型的な言葉はつぎのようなものだろう。1939年6月16日、アメリカ黒人についてきかれたとき、彼はこう答えた。

「彼は汝の兄弟なり! なぜなら神は一つの血統から地球上の全種族を作りたもうたからである」

 ケイシーの影響はとてつもなく大きく、膨大なリーディングの記録の集成はアメリカ英語の語彙をも変えてしまった。リインカーネーション(輪廻転生)、クレアヴォイアンス(千里眼)、メディテーション(瞑想)、チャネリング(高次な霊との交信)、パスト・ライヴス(過去生)、サイキック(超能力者)といった語彙が日常用語になったのである。彼の治療法――薬用ハーブや食べ物全体、心身セラピーを含む――は、彼の死後全米を席巻した代替医療の基盤となった。ケイシーのリーディングはスピリチュアルの作家や探求者の世代のソースブックとなった。ほかのだれよりも、幼年時代、ケンタッキーの深い森の文化のなかで過ごしたこの矛盾に満ちた人物が、国を――ある意味世界を――ニューエイジの宗教的セラピー的思考へと導く触媒となったのである。