第3部 ブル氏とブルシャ(下)  Bru and Bru-zha

 ドンドゥプ・ラギャル氏(現チベット社会科学院)は、ブル氏族がチベットに入ってきたのは、インドの高僧アティーシャがンガリに招待された1042年頃のことと考え、その筋に沿って論を展開する。私はこの論に異論はないのだが、このブル氏族がどういった人々なのか、その歴史的背景から解き明かしていきたい。

 10世紀から11世紀にかけての中央チベットは動乱の時代だった。一言でいえば、「押し寄せるイスラムの波と押しとどめようとする仏教」という構図である。

 840年、ウイグル帝国が瓦解する。奇しくも吐蕃の瓦解とほぼ時をおなじくする。(ランダルマの暗殺が842年で、その後吐蕃は分裂。ちなみに、唐で会昌の廃仏という大規模な仏教弾圧が起こるのは845年)

 ウイグル帝国瓦解のあと、ウイグル人は中央アジアに移動し、すでに移動していたカルルク人といっしょになってカラハーン朝ができあがった。両者ともテュルク系であり、言語もほとんど方言程度の差しかなかった。現代のウイグル語は、カルルク人のことばに近いともいわれる。

 彼らがイスラム教を信仰するようになるのは、10世紀半ばのサトゥク・ボグラ・ハーンの時代といわれる。そして960年、その子のムーサーのとき、20万人の遊牧民のテュルク人を強制的にイスラム教に改宗させた。現在中央アジアから新疆にかけてほとんどの人々がイスラム教徒であるのは、まさにこのできごとがあったからだともいえる。

 風前の灯となったカシュガルの仏教徒を救うべく、969年、ホータンはカシュガルを攻め、勝利を収めた。しかしこれは最後のあがきだったともいえる。11世紀に入ると、ホータンはカラハーン朝軍の攻撃にさらされ、陥落する。一部は逃亡し、多数の人々は強制的にイスラム教徒にさせられた。

 いっぽう天山ウイグル王国は防波堤となり、イスラム化の波をなんとかとどめていた。この王国の領地には、クチャ、且末(チェルチェン)、高昌といった有力なオアシス国家も含まれていた。イスラム勢力がクチャを越えるのは、13世紀から14世紀になってからのことである。

 ホータンの亡命仏教徒はどこへ行ったのだろうか。一部は敦煌やその他現在の甘粛省の仏教徒のもとへ逃げただろう。そして一部はラダック、バルチスタン、チベット、そしてブルシャ(ギルギット)へ亡命したはずである。バルチスタンの一部の王(たとえばハプル王)は、ヤブゴというテュルク系の称号を名乗ったが、王統の祖先はこうした亡命者だろう。

ホータン人は基本的にはウイグル人だと思われるが、一説にはペルシア系の血が濃かったともいわれる。ともかく亡命者が仏教徒であったことは留意すべきだろう。

 1042年頃にガルロク人(カルルク人)がンガリ、すなわち西チベットに攻め入ってきたとき、それ以前にギルギットにはすでに亡命ホータン人が住んでいた可能性はきわめて大きい。おそらく亡命者は960年頃から増え始め、11世紀に入ると急増していたにちがいない。

 ホータンは851年頃までは吐蕃の支配下にあった。吐蕃支配から脱したあとも、一部のチベット人はホータンに残ったともいわれる。ギルギットへ亡命したホータン人がチベット人であったとしても不思議ではない。もちろんウイグル人であったかもしれない。ウイグル帝国はマニ教を国教としたが、仏教徒の数も相当数にのぼっていたのである。

 つまり、ブル氏がホータンからの亡命者だとすれば、ウイグル人仏教徒やチベット人仏教徒であった可能性が大きいということだ。

 

 しかし、じつはこの大移動が起こる前に、すでに民族移動がはじまっていたという考え方がある。チベットが現在の新疆や西北中国の支配地を失った851年頃、ホータンや敦煌のチベット人が引き上げたという仮説だ。別項でも述べたが、ホータンのマザタグ遺跡から多数の木簡が見つかり、少なくとも三つの地名はシャンシュンのものだった。彼らがボン教徒であった可能性は大きく、他の地域出身のチベット人も、仏教徒とはかぎらない。庶民の間には、まだまだボン教が根強く残っていたのだ。

 『グゲ・プラン王国史』を著したロベルト・ヴィタリ氏は「マルルンパ伝」(Mar lung pa rnam thar)のなかの記述に注目している。それによると、ンガリ三部の北方からトゥ地方(sTod)、すなわち西チベットへの民族移動があった。それはニマゴン(Nyi ma mgon)の時代よりも前である。それは北方へ進出していたブロ氏('Bro)がホル(ウイグル人)の圧迫を受け、西チベットに帰ってきたことではないかとヴィタリ氏は推測する。ホータン陥落の少し前、ブロ氏が治めていた敦煌もまた張議潮軍の手に落ちていた。(註:ウイグル帝国は瓦解したが、現在の甘粛省や新疆の一部では、かえってウイグル人が勢力を伸ばしていた)

 民族移動が起こったのは、トゥ地方、すなわち西チベットでは、ボン教徒であるトンミ・ニマ・ウーセル(Thon mi Nyi ma od zer)が治めていた時代だった。その孫はロポン・ニマブム(slob dpon Nyi ma od zer)だった。

 北方からの移住者とは別に、モンパの地から来たカルモン(sKal Mon)と呼ばれる一群があった。カルモンは13のトンデ(千人部落)から成っていたといい、単純に考えれば1万3千人もの大所帯だったことになる。彼らは大きな居留区を作り、城を築いた。

 カルモンの王ユカ(gYu kha)はトンミ・ニマ・ウーセルから戒を受けたという。これが仏教徒から改宗したということなのか、はじめからボン教徒であったということなのかはわからない。ユカは金の文字を使ってボン教経典を書写したという。

 このカルモンはどこから来たのだろうか。カルモン13部は四つの大山の地域にあったと記されている。特定するのは困難だが、大山というからには、ヒマラヤの8千m級の高峰を指しているのではなかろうか。そうでなければ、ティセ(カイラス山)やその南のナモナニ山といった印象的な聖山を指しているかもしれない。

また、モンパといえば、チベット人にとっては南方の人というイメージがある。たとえばのちに西ネパールに王国を築くことになるカシャ人は有力な候補である。伝説的な王ナーガラージャは1100年頃にカシャ王国を築いたという。しかし王国建設以前に、カシャ人は相当チベットに入っていたのではなかろうか。彼らはカイラス山を崇拝していたので(寺院の門はすべてカイラス山の方向を向いている)、その近くに居留地ができていても不思議ではない。チベット側には、溶け込んでしまったためか、カシャ人の姿を見かけることはないが、南側のネパール領フムラにはいまも多数のカシャ人がチベット系ニンバ族とともに住んでいる。

 

 さて、ドンドゥプ・ラギャル氏の論に話をもどそう。前述のように、ブル氏の3世代目のツォツェンキェには9人の子がいた。そのうち5人はブルシャに残り、4人がンガリの王ツェデに招待された。ツェデ(またの名はオデ)は、1042年にアティーシャを招いたチャンチュブウーの兄だった。

 4人の兄弟のうちユンドゥン・ギャルツェンは中央チベットに移住し、サキャのラトゥ・ガランゴマン(La stod Ga ra ngo mang)に定住した。4世代ののち、ブル・ナムカ・ユンドゥン(Bru Nam mkha g-yung drung)はラトゥを去り、ツァン地方のモンカル・ゲディン(sMon dkar dge lding またの名はNya mo bon gnas)にもうひとつのブル氏の拠点を築いた。

 ここはボン教の中心地となり、最初の大寺院ベンサカ(dBen sa kha)が建設された。

 ブルシャ・キュンギ・ギャルツェン(Bru sha Khyung gi rgyal mtshan)はガランゴマンのブル家に生まれた。彼も、また彼の父ブル・ナムカ・ユンドゥンも、シェンチェン(gShen chen 996-1036)の弟子だった。とくに彼は「受教四弟子」(bka babs kyi slob ma)のひとりだった。

 『ブル家王統』によると、彼はまたンゴグ・レグペ・シェラブ(rNgogs Legs pai shes rab)が1073年に建てたサンプ・ネウトグ寺(gSang phu neu thog)で、チャパ・チューキ・センゲ(Phya pa Chos kyi seng ge 1099-1169)から「弥勒五論」を受け取った。彼は13年間師のもとで学んだ。『紅史』によると、チャパ・チューキ・センゲには8人の有名な弟子がいた。そのひとりソナム・センゲ(bSod nams seng ge)もまたブルシャ家(Bru zha)の出身だった。この綴り('Bru)は、ボン教の文献ではよく用いられていた。ソナム・センゲはどうやらブルシャ・キュンギ・ギャルツェンと同一人物らしい。仏教の師から仏教を学ぶとき、ボン教徒はそのことを隠すため、異なる名前を用いたのだ。

 彼は最終的にはガランゴマンに小さな寺(gsas khang)を建てた。ほんとうに小さな寺だったが、彼はここで有名な「Byang sems gab pa」と「mDzod phug」の注釈を完成させたのだった。

彼はチベット全域を旅した。セリブ(Se rib)、プラン(sPu rang)、ルトク(Ru thog)、グリブ(Gu rib)、さらにはコンポ(rKong po)、ダクスム(Brag sum)、はてはカム地方にまで足をのばしたのである。

 

 

つづく