ばけ猫オパリナ あるいは九度転生した猫の物語 

ペギー・ベイコン 宮本神酒男訳 

 

第一の生(1750 ネズミとネズミ捕り猫とやせた青年 

 ずっとずっとまえ、大昔のこと、古い赤いイスのベルベットの背もたれにからだをあずけて、オパリナはおもいきり全身をのばしました。この家がアーロン・トランブル卿のものだったころのことです。トランブル卿はやもめで、大きくなったふたりの子ども、ベン、ソールとともに暮らしていました。

父親の世話をしていたのはお兄さんのベンでした。彼は高潔な人物で、やさしく、寛容でした。土地を耕し、庭作りをすることで父親を助けました。だから父親はベンのことが大好きでした。

 弟のソールは腕のいい大工の棟梁でした。けれども彼はずるがしこく、欲が深く、気難しく、いつも父親や兄とケンカをしていたのです。ついに、トランブル卿は我慢ならず、ソールを家から追い出しました。この老人が死んだとき、富と所有物のすべてはベンに遺産として残されました。

 当時あたしはベン・トランブルと結婚したばかりの、あたし同様家族中から愛された女相続人アンジェリカのペットでした。結婚したあとあたしとアンジェリカはこの家で暮らしはじめました。アンジェリカはメイド、馬車の御者、従僕、フィルとおなじくらいの年のホーレスという名の小間使いを連れてきました。彼女はまた、スピネット(小型チェンバロ)、ハープ、シルクや金襴、刺繍が入ったたくさんの玉手箱、宝石箱、陶器の壺、金銀の櫃(ひつ)なども持ってきました。

 そのころのこの家はいまよりちいさめでした。トランブル家にとってはそれでも十分な大きさだったのですが、アンジェリカはもっと広い部屋、大きな屋敷に住んでいたのです。ベンの従僕とアンジェリカの従僕がいっしょに住むのは、どちらにとっても苦痛なことでした。あたしにも十分なスペースが与えられませんでした。アンジェリカはプライバシーがないとこぼしていましたが、それはあたしにとってもおなじことだったのです。

 弟のソールはそのころ、荒れ野原村の反対側の労働者のためのみじめな簡易宿泊所に暮らしていました。だれもソールを雇おうとしませんでした。それは彼の性格が悪く、不正直なためでした。生活のやりくりをしていくのはとてもむつかしかったのです。兄のベン、義理の姉が家、土地、従僕、それらを含めたすべての富を独占しているのを見たソールは怒り狂います。彼は歯ぎしりをして、今後彼らにいっさい近づかないことを誓いました。しかしすぐに彼は考えをあらためました。

「オパリナ」フィルが話の横からはいってきました。「どうやっていま話したことをみんな知ったんだい?」

「しがない猫だったころ、あたしはそれほどたくさんのことを知りませんでした」とオパリナは説明しました。「このふたつの目で見たものだけを知っていたのです。いまあたしはおばけなので、すべてを理解することができるのです」

 オパリナはつづけて語りました。

ある日ソールはベンが家を増築しようとしていることを風のうわさに知りました。ソールは思い切ってプライドを捨てさることにしました。彼は簡易宿泊所の庭の黄水仙を切り取って、彼なりの晴れ着に飾りつけ、じぶんの家を訪ねることにしたのです。

 はっきり覚えていますが、四月の午後のこと、わたしは仲良しの小間使いの少年ホーレスと客間でビー玉遊びをしていました。暖炉のかたわらでは美しいアンジェリカが編み物をしていました。そのとき突然扉がひらいて、従僕の声がひびきわたりました。

「ソール・トランバルさまのお見えです!」

 ソールはとても体格がよく、ベンさまと似ているところもありましたが、その目はするどく、不敵なえみをうかべていました。

 ホーレスは立ち上がり、あたしははってイスの下に逃げこみました。アンジェリカも立ち上がり、ソールが近づいてくると品よく会釈をしました。ソールは花束を渡し、深く頭を下げ、彼女の手にキスをしました。彼女は丁寧にお礼をいい、彼を招いてイスに座るよううながして、従僕に、弟のトランブルさまがいらっしゃったことを主人に伝えるよう命じました。

 ソールはすわるやいなや、あたしのほうをちらりとご覧になりました。わたしはすぐに感じ取りました、ソールが猫恐怖症であることを。

 蛇のように身をくねらせてあたしはソールに近づき、足にからだをこすりつけ、ひざにぴょんと飛び乗ると、その毛深い手の甲をなめました。ソールがふるえているのがあたしにはよくわかりました。

「私のかわいい子猫ちゃんにこんなに気に入られるなんて、すばらしいことですわ」とアンジェリカはいいました。

 ソールはいい印象を与えたいものですから、むかつきをおさえ、子犬のようにあたしの頭を軽くポンとたたきました。あたしはソールの太ももに爪をたて、床にひょいとおりました。ちょうどそのとき、ベンが入ってきました。

 ベンはソールにむかってうやうやしくあいさつをしました。ベンはだれと会っても愛想よく接せられるよう準備をおこたりませんでした。それに家族内の確執を終えられると思うと、かくべつにうれしかったのです。

 お茶がだされました。あたしも皿にいっぱいのクリームをいただくことができました。お茶をいれながら会話がはじまるまでそう時間はかかりませんでした。正直者のベンはソールに家を増築する計画について話しました。そしてソールにアドバイスを求めたのです。これこそソールが待ちに待ったことでした。ソールはさもそのとき思いついたかのようによそおい、実際的な提案をしてみせたのです。彼はじぶんでデザインし、みずから増築の建設をになうことができると語りました。あたらしく増える部屋のひとつをじぶんに与えてくれるなら、できるかぎりのことをやりましょうとソールはのべました。

 ベンや妻アンジェリカにとっても、損はない話に思われました。ソールは増築部の設計プランを練り、ベンはそれを認可しました。建設中、邪魔をされたり妨害されたりすることをソールはひどくきらいました。彼は完全にひとりでやりたいと思ったのです。

 彼の望みは尊重されました。それゆえ彼を監視するものはなく、じっさいなにをしているのかだれにもわかりませんでした。彼は身を粉にして働きました。みじめな屋根裏部屋でなく、すごしやすい部屋がほしかったのです。そしてじぶんじしんも、あたらしいじぶんにかわることを願いました。こうしてクリスマスまでに作業が終わり、彼はそこに移り住むことになりました。

 はじめあたしだけが唯一、家族のなかで不満を持っていました。でもことばをまだ学んでいなかったので、考えを表明することができませんでした。ここのすべての人は、以前よりも暮らしやすくなったと感じました。若いホーレスでさえ、従僕や馬丁とひとつ部屋に押し込まれることがなくなり、小さいながらも部屋をあてがわれたので、喜びました。ソールはじぶんの力でこういったことをなしとげたのです。

このパネル張りの部屋はソールがじぶんで作った暖炉つきの温かい部屋なのです。この部屋は裏の広間と階段で結ばれ、サイドドアからは庭に出ることができます。彼は自由にどこへでも行くことができたのです。なんといってもご主人さまのソールは、だれにも見ることのできない、つまりあたしをのぞくとだれも知らない奇妙な仕掛けを設置したのです。

 このときオパリナは子どもたちにウィンクをしました。

「話をつづけてください、女王陛下」とフィルはうながしました。「奇妙な仕掛けとはなんですか」

 ソールは秘密のクローゼットをこしらえたのです。それは羽目板をずらすと彼の部屋に出ることができたのです。

ここでオパリナはひと呼吸おき、耳をなめました。

「あなたたちのお母さんがやってきます。ジェブをベッドで寝かしつけるのでしょう。いつもどおりです。ジェブにはいまの話をするにはまだ若すぎます」

 広間の扉があくと、通路から光がさしこみ、遊び部屋はぱっと明るくなりました。オパリナは消えてしまいました。

「どうしたの、あんたたち」お母さんは大声でいいました。「ずっといろんなところで呼んでいたのよ。外に出たんだと思ったわ。何をしてたの、こんな暗いところにすわって」

「おばけと話をしてたんだ」とジェブ。

「フィル! エレン! あんたたち、こわい話してジェブをこわがらせちゃだめ。悪夢にうなされるんだから」

「そんなことしてないったら!」

「ほんとに、ちかってそんなことしてないよ、お母さん」

「猫のおばけだよ」ジェブはくりかえしました。

「それはよかったわね、ジェブ。でもお寝んねの時間だからはやく寝ましょうね」

 お母さんはジェブの手をひいてつれていこうとしました。ふたりが出ていくと、フィルは扉をしめました。すると暗くなり、オパリナがまたあらわれました。

「話をすこしもどしましょう」とオパリナはいいました。

 ソールはとても忙しくしていました。あたしもいそがしかったのです。あたしはネズミ捕りの名人でした。あたしは家じゅうの割れ目やネズミ穴を知っていました。ソールは建築作業をつづけていたので、壁は高くなり、床は張られていきました。あたしが取り逃がしたネズミたちもわずかながらいました。かれらはあたらしく建てられたところに避難したのです。そちらでは、しばらくのあいだ、あたしはネズミを追いかけることができませんでした。ソールは近くであたしがのそのそと歩いているのに気づくと、あたしにむかって手あたり次第、何かをなげつけてきました。ほかの人の前ではあたしをいじめることはけっしてなかったのですが、部屋にだれもいないと、あたしを蹴っ飛ばそうとするのです。

 あたしは退屈な暮らしをしていました。このつまらない生活にいやけがさしていました。ネズミ捕りは仕事にすぎなかったのです。ネズミを捕っていると、なんだか才能をむだに消費しているように思われました。ある日、ソールが屋根の上で作業をしているとき、あたしはこの部屋にしのびこみました。

 部屋に張った羽目板はまだ完成していなかったので、すきまがたくさんありました。そのひとつはとなりの炉だなに通じていました。しのび足ですきまをとおって煙突にやってきますと、外からの光がわずかしかはいらないちいさな部屋があったのです。

 そのなかを、くんくんにおいをかぎながら歩いていると、頭の上から音がきこえてきました。すると上からハンマーが飛んできて、あたりそうになったのです。わたしは横に飛んでなんとかかわすことができました。見上げると、天井があいていて、そこからソールがこちらをにらめつけているではないですか。あたしはうなり声をかえしたあと、古い家屋のほうへすっ飛んで逃げ込みました。その日の残りはずっとアンジェリカのひざの上ですごしました。

 つぎの日、あたしはネズミの狩猟に出かけました。その日の午後、ソールはまた屋根の上で板を葺(ふ)く作業をしていました。この部屋にはいったとき、羽目板はすでに完成していました。おどろいたことには、この部屋には扉がなかったのです。すきまというものがまったくありませんでした。床から天井まで木板のすべてがワックスがけされ、つるつるしていました。あたしはこぢんまりとした部屋を夢見てきたことを、しばらくのあいだ、思い出していました。しかし暖炉の近くに飛び移ったとき、羽目板のむこうからパタパタと走る音、キッキッという声が聞こえたのです。そこにクローゼットがあり、ネズミがいるのはまちがいありません。

 ソールがこの部屋に落ち着いたあと、あたしはネズミ捕りのためにここにはいることはしませんでした。七日のうち六日はソールを避けることができました。けれども安息日だけは、みなが教会に行き、ソールだけが残って家じゅうをうろつき、食器棚をあけ、箱のなかをのぞいたりしているものですから、逃げるのにも限度があったのです。わたしを見つけると、ソールは追いかけてきて、杖でたたこうとしました。この杖はあたしをぶつというおそろしい目的のためにソールが買ったものでした。

 ある日曜日、アンジェリカとホーレスは教会に行かず、家に残りました。ソールはあたしのことを気にしていました。というのも数日前、ソールになぐられ、まともに歩けなくなっていたあたしは大広間の隅にちぢこまっていたからです。ひどい痛みにあたしは苦しんでいました。ソールがとどめの一撃を与えようと杖をあげたとき、居間からホーレスが飛び出してきました。

「やめてください、ご主人さま、どうかぶたないでください!」少年は叫びました。「かわいそうな子猫の骨を折らないでください!」

 ホーレスの声を聞いたアンジェリカは走ってきました。あたしをだきあげ、後ろ足が傷ついていないかしらべ、氷河よりも冷たい厳しい目でソールをにらみつけました。しかしソールは空(から)元気に笑い、じぶんと猫はリボンじゃれごっこをしていたのだといいました。

「ソールさん、もしそれが遊びだというのなら」とアンジェリカは反論しながらも、語気をやわらげました。「もうオパリナと遊んでくれなくてもけっこうですわ」

 ホーレスの手をとって、あたしをやさしくだきあげ、アンジェリカはまっすぐ客間にはいってソールの顔の前で扉をぴしゃりとしめました。

 この日以来、ソールとアンジェリカは敵同士になりました。ソールにとって、少年ホーレスも、あたしとおなじくらいの敵になりました。

 その冬のあいだずっと秘密のクローゼットに暮らすネズミたちに悩まされました。カッカソーヨー(隔靴掻痒)とかいう気分でした。あいつらは安全に、気持ちよく、家族をそこで養うことができたのです。好きなときに食料貯蔵室や台所に「チュー進」すればいいのですから、気楽なものです。季節のあいだにわたしが捕らえたのは3匹だけ。これだけでは仕事をしているとはいえません。アンジェリカはあたしのために、灰色のフランネルの切れ端からネズミのオモチャを作ってくれました。もしホーレスがそれで遊んでくれなかったら、あたしは退屈のあまり死んでいたかもしれません。

 ホーレスは一般的に不器用な、まじめな人間とくらべても抜きんでた存在でした。彼は行動的で、のみこみがはやく、おもしろみに満ちていたのです。猫のように走り、とびはねました。毎日わたしたちはかくれんぼをしたり、鬼ごっこをしたりすて遊びました。おはじきやボール、紙、糸などをつかって遊びました。彼はいままででもっとも仲のいい友人になりました。

 ソールがやってきてから一か月以上がたった二月はじめ、アンジェリカは宝石がなくなっていることに気づきました。ベンは鍵をかけて残りの宝石をしっかり守るよう注意をうながしました。けれども彼女はあまり意に介しませんでした。四月のある夜、寝室につながる化粧室に鍵をかけないまま宝石箱を置きっぱなしにしてしまったのです。翌朝彼女が化粧室に行くと、残りの宝石はすべてなくなっていました。

 銀のティーセット、ベンの高価な時計、黄金がたくさんはいった財布などがすべて失われてしまったのです。夜のあいだずっと嵐が吹き荒れていました。泥棒が気づかれずに侵入したのかもしれません。しかしベンはすべてのドアや窓にいつもどおり施錠しましたし、泥棒が侵入した形跡もありませんでした。

 その日はたいへんな騒ぎになりました。地下室から食料貯蔵室まで、総がかりで家じゅうが探されました。執事は失われた銀がどれほどの量であったかを考えるとつらくてたまりませんでした。盗まれた宝石のことを考えた女中はヒステリックになってしまいました。しかしひとつとして見つからなかったので、人間たちはみなひどく取り乱したのです。

 あたしは狼狽(ろうばい)したりはしませんでした。たんに興味深かっただけです。騒ぎのもとがなんであるかわからなかったのですから。実際の生活がどういうものかあたしには理解できなかったと認めざるをえません。あたしの見かけは派手でしたけれど、頭がいいわけではなく、あたしにとって人間の話は雑音にすぎませんでした。じつは人間たちは巨大なネズミの狩猟をしているにちがいないと考えたのです。家の隅という隅を棒で突きたててね。人間ってやりかたを知らないバカの集まりだと思いました。こんなに騒いでネズミを一匹も捕まえられないんですもの。彼らが探しているものがあるとすればソールの部屋のとなりの部屋の上のほうなんだけど、気づいていないのです。あたしだけが気づいていました。もっとも、あたしはそれをネズミだと思ってました。あたしにはどうでもよかったんです、それがなんであっても。でもそれがホーレスにわざわいをもたらすことがわかって、あたしにとってもやっかいなことになったのです」

「ええ、どういうこと?」とエレンは心配そうにたずねました。「ホーレスにわざわいをもたらしたですって?」

「そうなんです。たいへんなものでした。あのときのことを思い出すたびに涙が出てきます」

 そう話しながら、じっさい、オパリナの目からは涙の粒がとめどなく流れおち、それらは石鹸の泡のように空中でパチンとはじけました。

「わかるでしょう」オパリナはつづけました。「アンジェリカやベンのもとで働いている人たちに疑いがかかることはありませんでした。ホーレスだけが来てから日が浅かったのです」

 ホーレスはアンジェリカの遠いいとこでしたが、一文無しの孤児でした。結婚する前に彼女はあわれに思って養子として引き取ったのです。衣食住があてがわれたひきかえに、ホーレスはかんたんな家事を手伝うことにしました。火を守り、靴をみがき、あたしにエサを与え、世話をするのも仕事でした。彼のもっとも重要な仕事はアンジェリカにつかえることであり、彼女の使い走りをすることでした。ホーレスは一生懸命に仕事をこなし、アンジェリカのために身をささげました。彼女はそんな彼が大好きでした。

 アンジェリカ自身はホーレスがネコババしたとは考えたことがありませんでした。ベンもホーレスを疑いませんでした。ソールが余計な考えを吹き込むまでは。ホーレスは一日に何度も飛ぶような速さでアンジェリカのもとに本や扇、ハンカチ、ショールなどを持っていっていたではないかと、ソールは指摘しました。ホーレスは自由にアンジェリカの部屋に出入りすることができたのです。どこになにがあるか、アンジェリカのメイドとおなじくらいよく知っていたのです。ホーレスは家じゅうを走り回っていました。なぜなら部屋の火を守るのが彼の重要な仕事のひとつだったからでした。だからホーレスには盗みをする機会が十分にあったのです。彼はお金をもらっていなかったし、じぶん自身のお金をもっていませんでした。ホーレスをのぞいていったいだれがそんなことをすることができたでしょうか。

 ベンはとても悲しくなりました。彼は耳をポリポリとかき、すべてはそのとおりかもしれないと思いました。でも、もしホーレスが宝石など高価なものを盗んだとして、それらをいったいどこに隠したのでしょうか。かれらはあちこち探したのですが、なにも見つからなかったのです。それに貧しいホーレスにとって、宝石がなんの役に立つのでしょうか。ちっぽけな村でそれを売ることなどできないはずだし、ほかのどこかで売るなんて、もっとできないはずです。

「あなたのもとで働いている少年ですよ」とソールはかさねていいました。「ホーレスは先のことなどなにも考えていません。たぶんホーレスはどこかの木の下にでも埋めているにちがいありません。それがどこか吐くまでたたけばいいんですよ。もし白状したら、貧困救済センターに送るべきです。白状しなかったら牢屋にぶちこめばいいんです」

 ベンはこの手厳しいアドバイスのとおりにはしませんでしたが、ホーレスの罪は動かしがたいと思うようになりました。なぜならほかにあやしいと思える人物がいなかったからです。彼はホーレスを呼んで、「ぼくはおまえの保護者だから、善と悪をどう見分けるか、教えなければならないのだ」とやさしくさとすようにいいました。ホーレスは両親がなく育ったので、盗みがどんなに悪いことかわからなかったのかもしない。盗んだものを返して、二度と盗みをしないとちかえば許してやってもいいと、ベンは考えたのでした。

 ホーレスはふるえおののきました。圧倒されて、なにもできなくなってしまいました。泣きじゃくりながら、じぶんはなにもしていないと訴えるのがせいぜいでした。ベンは、ウソをつくのは盗みをするのとおなじくらい罪深いことだと厳しくさとしました。奪ったものを返すようホーレスにせまりましたが、泣きじゃくるだけだったので、こうなれば追い出すしかないとつげました。

 かわいそうなホーレスはいっそう激しく泣きじゃくりました。アンジェリカはこの雰囲気はよくないと思い、ホーレスを擁護することにしました。彼女はホーレスをよく知っていたので、彼が悪いことをするはずはないと考えていました。ホーレスは正直者だったので、ウソをつくことも、盗みをはたらくこともありえなかったのです。だれか悪事を働いた者がいるわけですが、ホーレスでないことだけはたしかでした。

「ほかのだれが盗んだっていうんだよ」夫はボソッとこたえました。

 アンジェリカはベンの両頬を両手でそっとかかえました。彼女はすくなくとも公平な判断をくだすことのできる性格のもちぬしでした。さしたる証拠もないのに、よるべのない孤児を盗みで非難するのはよくないと、夫をとがめました。子どもが貧しいからといって泥棒あつかいするのはばかげている、とぴしゃりといいました。

「ソールのこともいっておきたいわ」アンジェリカはつづけていいました。「動物をひどくあつかう人をわたしは信用することができないの」

「おいおい、ソールが盗んだといいたいのか」ベンはおこっていいました。「アンジェラ、口のチャックをしめろといいたいね。弟にはたしかに欠点がたくさんある。すぐかっとなるし、猫もきらいだ。これらはおまえの目には欠点とうつるのだろう。だが弟が批判されるのをきくのは好きじゃない。それがじぶんの妻でもね」

「まあなんて立派なこと。もう二度とあなたの弟さんのことは話さないわ。でもわたしはホーレスをほうっておけないの。ホーレスがいじめられたり、おどされたりするのは我慢できないの。だれにもホーレスを寒い外に追い出させないわ」

 ホーレスは追い出されずにすみました。でも彼の心は砕け散ってしまいました。死んだ羊みたいに沈んでしまったのです。目は真っ赤で、笑うことも飛び跳ねて遊ぶこともなくなりました。あたしはとっても悲しくなりました。だっていっしょに遊んでくれる人がいなくなったのですもの。こうして何日かがすぎていきました。

 しばらくするとソールがしばらく留守をするといいだしました。遠くの町に金持ちの商人がいて、その人の屋敷の建設にやとわれたというのです。彼が出発する日の前日、夜が明けるずっと前、家のなかはみな眠っていて静まり返っていました。彼はベンに旅のために馬を貸してくれないかと頼み、ベンは快諾しました。

 ソールの話は賞賛すべきもののように思えました。弟が仕事をすること、またしばらく家を離れることは、ベンにとってうれしいことでした。家は緊張感がみなぎっていたのです。アンジェリカとソールは話をしようとしませんでした。アンジェリカは夫が盗みの件でホーレスを責めるのにうんざりしていました。ホーレス自身も意気消沈し、元気がありませんでした。依然として盗難の謎はとけていませんでした。

 その夜、人が寝静まったころ、あたしはいつもどおり、のそりのそりと歩きまわっていました。ネズミは捕まえられそうにもありませんでした。あたらしい建物のエリアにはいっていきますと、ソールの部屋の扉がすこしだけあいていました。これは彼が部屋にいないというしるしでした。ネズミが巣くっているかもしれないとあたしは思い、どうしてもなかにはいりたくなりました。そこにもうひとつの入り口があらわれたとき、あたしはぎょっとしたのです。あなたがたもよくご存じでしょう。ソールは壁ぎわにレールのみぞをつくり、横にあけしめできるパネルを置いたのです。ギシギシという音をたててパネルが横にすべり、あたしは音をたてずに、秘密の部屋にそうっとはいることができました。

 天井の一枚のガラス板から月の光がさしこみ、牛皮トランクを照らしていました。トランクはあいていたので、きらきらと輝く中身が見えました。あたしにとって、それは生き物のようでした。あたしはひょいとブレスレットを前脚にひっかけ、それを床の上に落として、ちいさなヘビにするようにポンポンと押しました。するとそれは煙突の横のみぞに落ちてしまったのです。

 そのときしのびあしでだれかがやってきました。なにかがいっぱいにはいった器をもって、ソールが部屋にはいってきたのです。あたしはあわててトランクのふたの下にもぐりこみました。銀のこすれる音がトランクのなかから聞こえました。そしてソールは部屋から出ていき、パネルを横にしめました。つまりあたしひとりが秘密の部屋に取り残されたのです。

 その夜、どんなひどい思いをしたか、わたしは説明する気にもなりません。あたしは物音をたてないように注意しました。もしソールがあたしをつかまえたら、おそらくあたしを生かしてはおかなかったでしょう。

 最低なのはネズミのやつらです。あたしにはかれらのおしゃべりがきこえ、かれらの姿が見えました。5匹や10匹ならたやすくつかまえることもできたでしょう。かれらは絶対的な王者であるあたしが無力で動けないことにすぐ気づきました。かれらはしだいに大胆になっていきました。一匹の太っちょネズミはあたしに近づき、すぐうしろにデンとすわりました。あたしの目をのぞきこむと、さもばかにしたふうにヒゲやシッポをふってくるのです。あたしはこの生意気な小動物にとびかかってやっつけてやりたかったのですが、なにもしませんでした。あたしはこらえて、じぶんをおさえることができたのです。からだがこわばり、つめたくなっても、あたしは何時間も動きませんでした。

 月が没すると、秘密部屋も暗くなりました。ソールが部屋にもどって、ごそごそと動き回っているのがわかりました。彼はそのあと暗い階段を降りていきました。つぎにきこえたのは庭の扉がギイっとあき、しまる音です。ようやくあたしは友軍をもとめることができました。

 現実のあたしはきれいなソプラノの声の持ち主です。育ちがよかったので、ニャアニャアなきわめいたりはしないのです。でもこのときばかりは肺の上のほうをゆるめました。C調の高音をできるだけ長くつづけて出したので、家族全員を起こすことに成功しました。ホーレスは屋根裏部屋から転げ落ちるように降りてきました。アンジェラとベンもいっしょになってあたしの声が聞こえる場所をつきとめました。暖炉の横の羽目板の前、つまりソールの寝室の外側に彼らは行きついたのです

 あたしはしゃがんで姿勢を正し、パネルの内側からニャーニャー鳴いてじぶんがどこにいるかをしめしました。ベンは羽目板上のくぼみを発見しました。爪をくぼみにひっかけ、パネルを横にすべらせてあけることができました。するとそこにあたしがいたのです。そこには秘密のクローゼットがあり、ソールのトランクがありました。トランクはひらかれ、そこには盗まれた宝石が輝いていたのです。

 しばし沈黙が流れました。見とれたようにみなトランクを見ていました。それから互いを見て、わたしに視線をうつしました。

 ベンはホーレスの肩に手をまわし、引き寄せました。

「許してくれ、ホーレス」しゃがれ声でベンは少年にいいました。ホーレスは見上げて、この数日間ではじめて笑みをうかべました。その目にはあふれんばかりの涙がたたえられていました。

 アンジェリカがいいました。「ぬれぎぬを着せてしまったのね」

「そのとおりだよ、アンジェリカ」とベンはいいました。「とても信じがたいことだけど、はっきりしている。ホーレスのことを考えると、疑いがはれてよかったよ」

「オパリナのおかげね」妻はあたしを抱き上げ、あたしのあごの下をなでながら、いいました。彼ら三人はそこに立ち、ソールの帰りを待ちました。

 そのころソールは庭を横切って馬小屋に行っていました。兄が親切にも貸してくれた馬がそこにつながれていたのです。彼は馬にまぐさを与え、水でからだを洗い、鞍をつけ、門まで引いていきました。そしてトランクを取りに戻り、宝石をもったまま馬に乗って立ち去るつもりでした。ところが目の前にベン、アンジェリカ、ホーレス、それにあたしが待っていたのです。

 暴力沙汰に発展することはありませんでした。

 ベンは冷静にいいました。「じぶんの弟が泥棒だなんて、ひどいショックだ。もっとも近い親族から盗む泥棒だなんて」

 ソールは弁明しようとしませんでした。何をいうことができるでしょうか。現行犯でつかまったのです。すべて事前に用意周到に計画されたのはあきらかでした。

 ソールを警察に突き出すことによって家族の恥をさらすようなまねはしない、とベンはいいました。兄弟を囚人にはしたくなかったのです。

 こうして宝石はもとの場所にもどされました。ソールは家から追い出されました。これで二度目の追放です。身の回りのものだけつめて、彼は牛皮トランクをもって、郵便路を通って荒れ野原村から出ていきました。このあと彼がどうなったかは、だれも知りません。

 彼が去ったあと、アンジェリカはブレスレットがなくなっていることに気づきました。裂け目に落ちたあのブレスレットです。ソールがネコババして、とっくに質に売られたにちがいないとアンジェリカは考えました。彼女がそれを失ったのはあたしのミスだったのですが。でもこれだけは言っておきたいのです。もしあたしがエネルギッシュなネズミ捕り猫でなかったら、ソールはすべての戦利品をもって逃げていたかもしれません。ベンもホーレスを信用していませんでしたから、ホーレスはみじめな生活を送っていたかもしれません。

 ホーレスは元気をとりもどすことができました。べンとアンジェリカはそれまで以上にホーレスを大事にするようになり、あたしもみなからやさしくされるようになりました。

「ほんとうにいままでよりはるかにしあわせに暮らすようになりました。これが9つの生の最初です」とオパリナはいいました。「眠くなってきました。あなたがたも寝る時間ですよ」

 


⇒ つぎ 



ベン 1754年 


ソール 1754年 


アンジェリカ 1754年 


ホーレス 1754年